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狄道の攻防戦(孫氏からみた三国志37)
060104
<<動き出した西方(孫氏からみた三国志36)


   前回、十万あまりの兵卒を配下にした韓遂(字、文約)だけど、この戦の行方を語る前にまず涼州とそれからその他の地域の乱について、順々に紹介したい。

   涼州刺史は以前、書いたように宋梟だったが、辞めさせられ(<<参照)、このときは耿鄙って人(宋梟の次かどうかはわからない)。さて、この耿鄙だけど、後漢書傅燮伝によると治中の程球って人に仕事を任せていたそうな1)。ところがこの程球はその特権を悪用し、不正な利益に通じていた。当然、士人たちはそれを恨んでいた。
   そしてついに漢陽郡出身の王國が金城郡で反乱を起こし、韓遂の軍と合流した。ちなみに王國は以前、出てきているが(<<参照)、それと一貫した話なのか、どちらかが間違っているのかとか(史書間の違いがあるので)は定かではない。
<2007年10月6日追記>
   後漢書董卓伝の注に引く英雄記8)によると、王国らは兵を起こし、閻忠<<「訪問者」参照)を脅し主にし、三十六部を統治し、『車騎将軍』と号した。 <追記終了>

   そのまま涼州の乱を追っていく前にその他の情報。主に後漢書本紀より。
   中平三年(西暦186年)十二月、鮮卑が幽州と并州に侵攻2)。涼州の羌族や漢人の反乱だけでも大変なのに、別の州で鮮卑族も攻めてくるとは。実はこれがさらに大きな乱の前触れなんだけど、それはまだ後の話。

   年が変わって中平四年(西暦187年)春正月の己卯の日(21日)に天下に大赦する。以前も出てきたのでその内容は割愛(<<参照)。相変わらずなぜ大赦したのかわからない。

   そして二月に河南尹(行政区域の名称の方)のけい陽県(続漢書郡国志ではけい陽という表記。後漢は火徳だから?)の賊が数千人、蜂起し(人数は後漢書何進伝より)、郡や県を攻め焼き、ついに同じ河南尹の中牟県では県令が殺された。地理関係は下の地図参照。河南尹とはらく陽(京師)のある行政区域(郡や国に相当する)、皇帝のお膝元だ。
河南尹の攻防
▲参考:譚其驤(主編)「中國歴史地圖集 第二冊秦・西漢・東漢時期」(中國地圖出版社出版)但し、矢印の軌跡に根拠はありません


   ここで詔(皇帝の命令)で派遣されたのは何苗という人。何苗は元の姓は「朱」で、朱苗3)。彼は何皇后(皇帝の正妻)の同母の弟4)(別のところでは異父の兄、兄弟であることは間違いないんだろうけど、どっちが年上?)。ちなみに何皇后の同父の兄が何進なので、血のつながりはないけど、朱苗は何進の弟に当たる。そのためか、朱苗は姓を「何」にしたんだろうか。ともかく皇帝の義理の弟の何苗にこの件はまかされる。そもそも何苗のこのときの官職は河南尹(こちらは行政区域ではなく官職の「河南尹」)。つまりこの行政区域の責任者だ。
   何苗は出撃し、三月に賊を破り、その場を平定し帰還する。後漢書何進伝よると、詔で使者をつかわし、成皋まで迎える。そこで何苗は車騎将軍に任命され、濟陽侯に封じられる7)
   車騎将軍といえば前回、宦官の趙忠が辞めさせられた官職で空位だった。なにか、数年後に表層化する構図がそろそろ現れているような…

   さて、話を涼州の話に戻す。
   ようやく涼州刺史の耿鄙が動き出す。後漢書傅燮伝によると六郡の兵を率いて金城郡の王國や韓遂を討とうとした1)。下の地図を見ていると、この六郡って隴西郡、漢陽郡、武都郡、安定郡、北地郡、武威郡あたりかな。
   その前に出てくるのが耿鄙陣営にいる漢陽太守の傅燮だ。続漢書郡国志によると刺史の州府は漢陽郡の隴県にあり、傅燮と耿鄙は同じ郡内にいたんだろう(下の地図参照)。傅燮は耿鄙が味方を失い、必ず負けると思っていたので、次のようにいさめる。
「使君(刺史への敬称)は統治して日が浅く、人々は教えを知らない。孔子は『人を教えず戦うはこれを捨てると思え』と言っていて、今、不習の人を率い、大隴の阻を越えることは、まさに十のうち十が危ういため、賊が聞き及び、必ず万の心を一つにした大軍が来るだろう。辺境の兵卒は勇ましく、その鋭さにかなうのは難しく、新合の衆で、上の者も下の者も未知だ。万が一、内乱がおこっても、悔いても取り返しがつかない。軍を休息させるにはおよばず徳を養い、ほまれを明らかにし罰すべきを必ず罰す。賊は広く散らばり、我々が怯えてると見るに違いなく、悪者たちは勢いを争い、分かれるのは必定だ。その後で、すでにに教化した人々を率い、すでに分かれた賊を討てば、その戦功を居ながらにして得られ、持つだけだ。今、万全の助けを為さなければ、必ず危険な禍につき、盗人は使君が何も得られないようにするだろう」
   傅燮は攻めるより先に賞罰を明らかにすることを説いた。
   ところが耿鄙はそれに従わず、中平四年夏四月に行軍し隴西郡の狄道県まで来た。続漢書郡国志だと狄道県は隴西郡の県のトップにくるのでおそらくここに郡府(郡の役所)があり隴西太守がいるのだろう。位置関係は下の地図参照。
狄道の攻防戦
▲参考:譚其驤(主編)「中國歴史地圖集 第二冊秦・西漢・東漢時期」(中國地圖出版社出版)但し、矢印の軌跡に根拠はありません


   このときの隴西太守は李相如という人。
   あと、耿鄙の軍の中に馬騰(字、壽成)という人がいた5)
   馬騰は右扶風の茂陵県出身で、母は羌族だ。この涼州の乱で州や郡は勇ましさと力のある者を民の中から募集した。それに馬騰は応じた。州や郡は彼を特別視し、軍の従事にし、部衆を司らせた(つまり一兵卒じゃない)。それで馬騰は賊の討伐で戦功をあげ、軍の司馬となった。今回の行軍では司馬として参軍している。

   ここに韓遂の軍、十万人あまりが来て、狄道の城を包囲する。
   後漢書董卓伝によるとさぁ攻防戦だ、というところに、耿鄙の陣営に裏切り者が出る。隴西太守の李相如だ6)。李相如は韓遂と連合する。おそらく城の内側から反乱が起こったので、耿鄙軍は総崩れだったんだろう。まず恨まれている治中の程球が殺され、次に刺史の耿鄙が害された。そのため、陣中にいた馬騰は兵卒を従え、韓遂や李相如に呼応する。母親が羌族なのが少なからずその心中に影響を与えていたのかもしれない。
   傅燮が言っていた万が一の内乱が現実のものとなった。

   ここで王國は自らを「合衆將軍」と称し、この韓遂たちの反乱軍の主となった。
   そして十万人あまりにさらに李相如・馬騰の軍が加わり膨れ上がった軍団はさらに東へ進む。そう傅燮のいる漢陽郡の冀県の城を包囲した。耿鄙の軍に持っていかれていたのでその城の中では兵は少なく兵糧もほとんどなかったが、傅燮は城を固守していた。

   さてこの攻防戦の行方は回を改める。




1)   今回の涼州の乱の側面1。脚注051026-1)の続き。本文ネタバレ有り。相変わらず発言の部分の訳は難しいね。「時刺史耿鄙委任治中程球、球為通姦利、士人怨之。中平四年、鄙率六郡兵討金城賊王國・韓遂等。燮知鄙失衆、必敗、諫曰:「使君統政日淺、人未知教。孔子曰:『不教人戰、是謂棄之。』今率不習之人、越大隴之阻、將十舉十危、而賊聞大軍將至、必萬人一心。邊兵多勇、其鋒難當、而新合之衆、上下未和、萬一内變、雖悔無及。不若息軍養徳、明賞必罰。賊得ェ挺、必謂我怯、群惡爭げい、其離可必。然後率已教之人、討已離之賊、其功可坐而待也。今不為萬全之福、而就必危之禍、竊為使君不取。」鄙不從。行至狄道、果有反者、先殺程球、次害鄙、賊遂進圍漢陽。城中兵少糧盡、燮猶固守。」(「後漢書卷五十八 虞傅蓋臧列傳第四十八」より)
2)   今回の涼州の乱の側面2。脚注051026-7)の続き。ここの脚注では後漢書本紀の項目をずらずらとあげる。そのため本文どころか次回のネタバレもあり。「(中平三年)十二月、鮮卑寇幽并二州。
四年春正月己卯、大赦天下。
二月、けい陽賊殺中牟令 。
己亥、南宮内殿罘し自 壞。
三月、河南尹何苗討けい陽賊、破之、拜苗為車騎將軍。
夏四月、涼州刺史耿鄙討金城賊韓遂、鄙兵大敗、遂寇漢陽、漢陽太守傅燮戰沒。扶風人馬騰・漢陽人王國並叛、寇三輔。」(「後漢書卷八   孝靈帝紀第八」より)
3)   何苗が朱苗と書かれているのはここぐらいしか知らないけど。続漢書五行志ね。こちらでは皇后の異父の兄になっている。「是歳黄巾賊始起。皇后兄何進、異父兄朱苗、皆為將軍、領兵。」(「後漢書志第十四   五行二」より)。
4)   こっちお脚注では皇后の同母の弟。同じ続漢書の五行志なのにいきなり記述が違ってる。どの段階の書き写しでまちがった?(汗)。「皇后同父兄何進為大將軍、同母弟苗為車騎將軍、兄弟並貴盛、皆統兵在京都。」(「後漢書志第十三   五行一」より)
5)   馬騰の記述。本文のネタバレあり。ほとんど三国志蜀書馬超伝の注に引く典略によっているんだけど、他の史書とあわせていくと、どの時期に馬騰が韓遂側についたかちがっている。そこは後漢書董卓伝にあわせた。「騰字壽成、馬援後也。桓帝時、其父字子碩、嘗為天水蘭干尉。後失官、因留隴西、與羌錯居。家貧無妻、遂娶羌女、生騰。騰少貧無産業、常從彰山中斫材木、負販詣城市、以自供給。騰為人長八尺餘、身體洪大、面鼻雄異、而性賢厚、人多敬之。靈帝末、涼州刺史耿鄙任信姦吏、民王國等及てい・羌反叛。州郡募發民中有勇力者、欲討之、騰在募中。州郡異之、署為軍從事、典領部衆。討賊有功、拜軍司馬、後以功遷偏將軍、又遷征西將軍、常屯けん・隴之間。」(「三國志卷三十六   蜀書六   關張馬黄趙傳第六」の注に引く「典略」より)
6)   今回の涼州の乱の側面3。後漢書董卓伝から。本文のネタバレあり。しかしあいかわらず整合性をあわせるのは困難だけど、楽しい。「其冬、徴温還京師、韓遂乃殺邊章及伯玉・文侯、擁兵十餘萬、進圍隴西。太守李相如反、與遂連和、共殺涼州刺史耿鄙。而鄙司馬扶風馬騰、亦擁兵反叛、又漢陽王國、自號「合衆將軍」、皆與韓遂合。共推王國為主、悉令領其衆、寇掠三輔。」(『後漢書伝』伝六十二董卓伝より)
7)   何進伝の記述。弟の記述もこちらで。 「(中平)四年、けい陽賊數千人群起、攻燒郡縣、殺中牟縣令、詔使進弟河南尹苗出撃之。苗攻破群賊、平定而還。詔遣使者迎於成皋、拜苗為車騎將軍、封濟陽侯。」(「後漢書卷六十九   竇何列傳第五十九」より)
8)   後漢書董卓伝の注に引く英雄記より。 「王國等起兵、劫忠為主、統三十六部、號『車騎將軍』。」(「後漢書卷七十二   董卓列傳第六十二」の注に引く「英雄記」より)
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