大津祭 孔明祈水山(2012年10月6日7日)

※参照記事 三国志学会(西)勝手にスピンオフ図書館見学ツアー(2012年9月9日)

上記参照記事での主催者としてお馴染みの張茂さんが少し前にTwitterで大津祭に三国ものの山があるって話題をされていたと思って、今、ブログを見に行ったら下記ブログ記事のようにまとめられていた。

・孫呉秘書省在建業
http://hishoshou.blog108.fc2.com/

・孔明祈水山 (※上記ブログ記事)
http://hishoshou.blog108.fc2.com/blog-entry-18.html

上記ブログ記事を頼りに、リンクを辿ると下記サイトに行き当たる。つまり、毎年滋賀県大津市で開催され、2012年では宵宮が10月6日土曜日夕刻-21時、本祭10月7日日曜日9時-17時30分に開催される「大津祭」の曳山(ひきやま)に、孔明祈水山 (こうめいきすいざん)があるという。

・大津祭曳山連盟
http://www.otsu-matsuri.jp/festival/
※「リンクポリシー」を見るとリンクする前に連絡する義務があるとのことで、URLだけ示しておく。以下、同じ。まだこういったダメアーキテクチャって撲滅しないね。というよりツイートボタン等のリンクするボタンがあるのにそれを押す前に事前に連絡をしろってことだろうか…いや「トップページ以外へのリンクは原則として」断っているから無用な機能の筈なんだけど。

・13基の曳山: 大津祭
http://www.otsu-matsuri.jp/festival/hikiyama.php

※左上にFC2のアクセス解析が見える

あと龍門滝山 (りゅうもんたきやま)も三国関連といえば三国関連か。いや、後漢関連といった方が的確。それにしても京都祇園祭の鯉山といいトロイア戦争になぜか縁が深い。理由があるのか?

※関連記事 7月16日 祇園祭宵山に鯉山

あと、前述の「大津祭曳山連盟」のサイトを見て回ると、下記ページに行き当たり、つまり、2012年9月30日に浜大津周辺イベントとして「曳山装飾品 展示入替え 西王母山から孔明祈水山へ」があるそうな(上の文字と重なって、「18:00~22:00」にあるのかと誤読した)。

・9/28~30日の浜大津周辺イベントのご紹介: 外部のご支援
http://www.otsu-matsuri.jp/support_outside/2012/09/25/92830.php

話を戻し、冒頭の張茂さんのブログ記事でも書かれていたように、前述の大津祭曳山連盟のサイトでは「蜀の諸葛亮字孔明が祈って大洪水を起こして曹操の魏の大軍を押し流した」(※清岡による要約)という、孔明祈水山の由来が書かれている。何か人知を越えて諸葛亮が関係し魏の軍を退けるのは、張茂さんも書かれているように、同じ水関連、というか水上で、やはり小説『新刊全相平話三国志』や小説『三国演義』での赤壁の戦いのシーンを連想するし、諸葛亮が水関連で何か祭ったといえば、饅頭のエピソードを連想する。

※関連記事
 全相三国志平話(2011年3月19日)
 2006年7月29日「三国志シンポジウム」雑感3
 ひめじ菓子博にて

また、曳山に趙雲(※サイトでは「超雲」)の人形があるそうな。でもその説明を読むと、「右手に鉾先を下に身構えている。所望の際に鉾先を後見がつき出して、河水の作り物に突きさすようにすると、河水が下から巻き上って蕩々と湧き出る状態が見える。」(http://www.otsu-matsuri.jp/festival/about-hikiyama/koumei.phpより)とのことなので、諸葛亮というより趙雲が大洪水を起こしているように思えるのだが。
そもそも中国古代だと「水」といえば「背水の陣」に見られるように川の意味で使うことの方が多いためそこらへん注意が必要だろう。つまり「祈水」は、川を祈るの意味になりそうだけど(そこが趙雲の人形の説明に繋がっているのかも)、といっても万延元年(1860年)に日本で改名されたものなのでその解釈はあまり意味はないのかもしれない。

由来になった故事の元ネタがさっぱり思い当たらないのだけど、試しに手元の『太平御覧』で「祈水」と検索すると、巻七十四 地部三十九 堤のところに、

『水經注』曰:涿郡王尊、自益州刺史遷東郡太守、河水盛溢泛浸瓠子金堤、尊躬率吏民、投沉白馬祈水神河伯、親執圭璧、請身填堤、廬居其上、吏民皆走、尊立不動、水齊足而止、公私壯其勇節。

とあり、何を祈ったかというと「水」ではなく「水神・河伯」で、しかも戦にも関係ない。『太平御覧』に『太平広記』を加え、「祈」で検索しざっと見ると、水に関係することは、戦関連より、「祈雨」など日照りが続いたから雨を祈る、または雨が続くから晴れになるよう祈るといった天候、引いては農業に関することの方が多く、『太平御覧』巻十一 天部十一に「祈雨」という項目があるぐらいだ。
まぁ、そんな労力をかけるつもりはないので、検索結果上で「兵」という単語で検索し、何か祈祷等の人知を越えた力と戦いが関係するような故事はないか、テキトーに見ていたら、『太平広記』巻八十二 異人二に「陸法和」という人物の項目が立てられており、

陸法和隱于江陵百里洲。衣食居處、與沙門同、自號居士、不至城廓、容色常定、人莫測也。侯景始降于梁、法和謂南郡朱元英曰:「貧道應共檀越撃侯景、為國立效。」元英問撃之何也、法和曰:「正自如此。」及景渡江、法和時在清溪山、元英往問之曰:「侯景今圖城、其事云何?」法和曰:「宜待熟時、不撩自落。檀越但待侯景熟、何勞問也。」因問克不、乃曰:「亦克、亦不克。」景遣將任約、衆號五萬、伐湘東王于江陵。兵將逼、法和乃出詣湘東云:「自有兵馬(馬原作書、據明抄本改)、乞征任約。」召諸蠻弟子八百人、在江津、二日便發、王遣胡僧袩(許刻本袩作祐)、領千余人與之同行。法和登艦大笑曰: 「無量兵馬。」江陵多神祠、人俗常所祈禱、自法和軍出、無復一驗、人以為諸神皆從行故也。至赤洲湖、與任約相對。法和乘輕舟、不介胄、沿流而下、去約軍一里。乃遠謂將士曰:「觀彼龍睡不動、吾軍之龍甚自踴躍、即攻之。」縱火舫于前、而逆風不便、法和執白羽扇以麾風。風勢即反、約衆皆見梁兵歩于水上、于是大潰、皆投水。約逃竄不知所之。法和曰:「明日午時當得。」及期未得。人問之、法和曰:「吾前于此洲水干時、建一剎、語檀越等、此雖為剎、實是賊摽、今何不白摽下求賊也。」如其言、果見任約在水中、抱剎柱頭、才出鼻、遂擒之。約言求就師目前死、法和曰:「檀越有相、必不死、且于王有緣、決無他慮、王于后微得檀越力。」果釋、用為郡守。

となっていて、敵の船の前に火をつけたものの、逆風だったので、陸法和が白羽扇をとって風を指すと、風向きが逆になり、敵が大いに乱れ、みな投水して……って水じゃなくて風が動いているし、これじゃ小説『新刊全相平話三国志』や小説『三国演義』第四十九回「七星壇諸葛祭風、三江口周瑜縱火」と、水ではなく風を動かすという点で余り変わらず描写だ。案外これがこれらの赤壁の戦いの元ネタだったりして。

それはともかく下記関連記事にある京都祇園祭の菊水鉾の時のように、出典がひょんなことから見つかるかもしれないね……と無責任なことを書いてこの記事を終えよう。

※関連記事 7月16日 京都祇園祭宵山に菊水鉾

<10月6日追記>

※関連記事 Mini三国志フェス in レキシズルスペース(2012年10月13日)

 上記関連記事の終わりに書いたように、例年であれば「鉄道の日・JR全線乗り放題きっぷ」の期間中だが、今年はJR発足25周年ということで、「秋の乗り放題パス」になり、例年と違って、三日連続でしか使用できなくなった。てっきり初日に判子押して貰うのかと思いきや、発券の時にカレンダーを見せられどの三日間を使うか聞かれ、10月6日-8日と10月12日-14日を発注する(つまりは完全に転売できないようになっている)。前者はミラノデルビーをスポーツバー「ミラニスタ」で見るため、後者は上記関連記事の「Mini三国志フェス」のためだ。前者は7日と8日しか使わないのだけど、折角だから大津祭 宵宮に行ってみる。
 18時過ぎぐらい京都駅発の新快速に乗り込み二駅で大津駅に着く。曇り空ということもあるだろうが、すっかり暗くなっていた。そこから京阪の浜大津駅方面(北西)に歩けば、京都祇園祭のように各町に山が置かれているとのことだ。
 改札を通り駅の南にでると、すでに祭の案内所が設置されていて、大津祭のチラシが配られていて、それを受け取りそこに地図が着いているのでそれを頼りに歩き出す。さすがに京都祇園祭宵山や宵々山と違い、駅を出たらすぐに歩行者天国で人が溢れているということはない。少々、寂しい大通りを北上する(坂を下る)と徐々に賑やかなところになってくる。
 そして横町を入ったところに龍門滝山を見掛ける。気付けばそこから祭囃子が聞こえていた。前後に「鯉山」と書かれた提灯が並んで立てられていた。

龍門滝山龍門滝山の鯉龍門滝山の李膺人形

 龍門滝山でしばし写真を撮った後、少し西へ進むと、建物の前で何やら人だかりが出来ていて、中を見ると右の写真のような人形があった(その左にはトロイア戦争の織物が展示されていた)。前でお兄さんが説明していて、登龍門の語源の話に至るまでに、「リョウさん」が何回も言及されていてその人物像まで出ていて、誰だそんな一文字の人物って、と思っていて、よくよく考えてみて頭の中で音声を再生してみると、それはつまり「李膺(りよう)」だった。李膺の説明もされるなんて珍しいと感心していたが、それもその筈で、目の前に展示されている人形こそ、李膺の人形だという。そう、字は元禮で、『後漢書』伝五十七 党錮列伝に立伝される人物だ。その人形の前には生きた鯉が二匹供えられていて、尻尾と頭を縄で縛られUの字にされ、時々、跳ねる。あと真ん中の写真にあるように、鯉の模型(?)があって、代を重ねているとのことだ。まさかこんなところで李膺のことが聴けるとは思わなかったので、思わず帰りに粽(ちまき)700円を買ってしまった。京都祇園祭鯉山の粽の時と同じように、厄よけにまた玄関に掲げておこう。
 人が多かったので人形の前にあった説明文を碌に読まず、西に進み、商店街に入り、西王母山を横目に、また曳山展示館の西王母山模型を一瞥し、目的の孔明祈水山へと歩く。何だか諸葛亮が日本のお祭りで祀られていると思うだけで、顔がニヤニヤしてしまう。
 近付くとやはり祭囃子が聞こえてきて、左の写真のように前に「孔明祈水山」が一つあって、そして赤字で「孔」と書かれた提灯が並んで立てられていた。

孔明祈水山孔明祈水山の諸葛亮人形&趙雲人形孔明祈水山の桃園結義図

 先程と違い、すぐ近くに人形が展示されていた。先程と違い、その人形を説明する人が居ないが、事前情報でその奥が諸葛亮人形でそれに侍る手前右が趙雲人形だと判る。それが中央の写真。人が居ないことを良いことに手前にある説明文をしゃがんでじっくり見ていた。最後に昭和63年(紀元1988年)だと書かれていた。前半の「孔明祈水山」の内容は、由来を解説しており、サイト説明文とほぼ同じで、予想通り「超雲」となっていたが、それ以外のも諸葛亮と戦った相手が「魏の曹撰」と書かれていたんで、声を殺して笑っていた。やはり情報を伝達していくとこういうことが起こりうるんだな、と。別の建物で展示された織物は福がデザイン化されたもの。旧名の福聚山からか? その建物の前にベンチがあり、老女が座っていて、よくみたら右の写真のように桃園結義と思わしき絵がおかれていた。右下に銘を見付け写真をとったつもりが撮れてなかった。絵にある三人は上が劉備、左が張飛、右が関羽といったところだろう。
 というわけで目的を達してしばらく浜大津駅近くを見てから帰る。大津駅19:02発の列車に乗り込み帰る。あと、京都駅のバス停近くでKYOTO_WiFiを試していたが、地下ではまったく受信できなかったとメモを残しておこう。

※追記。後日、張茂さんとお会いしたときに話したのだが、なぜ「孔明祈水山」という聞いたこともない故事が元になったかというと、今のところの有力な推論として「孔明祈水山」の改名前の曳山の仕掛けが水に関係するものだったので、その要素を受け継ぐ必要があり、そこで故事を創作したのだろう、ということだ。※追記。気付くのが遅いがチラシの説明文では「曽操」(そそう?)だった。

※リンク追記
・孔明祈水山(その2) (※冒頭ブログの記事)
http://hishoshou.blog108.fc2.com/blog-entry-20.html
※「享保八年 浦嶋亀釣山」の水の仕掛けが「祈水」に繋がったのではないかという仮説が盛り込まれていないが、もしや「その3」の布石?

※追記 京都祇園祭宵山で三国(2013年7月16日)

※追記 大津祭 宵宮 本祭(2013年10月12日13日)

※リンク追記
・孔明祈水山 - Google ドライブ
https://docs.google.com/document/d/1dSioFdAUqaYpcQxnCtbMiUy0pE32xwzvyUDzXY6qjLk/

※追記 三国志ファン、コア層こわそう、再燃

※追記 プレ1 関プチ5 全国ツアー(2014年4月26日)

※追記 レポート:関プチ5 全国ツアー:7/15京都 祇園祭宵々山で三国関連山鉾拝観(2014年7月15日)

※追記 レポ:8/6北九州 兀突骨で酒池肉林?!(2016年8月6日)

※追記 人形衣裳をつくる―三国志・平家物語―(2016年10月8日)

※新規関連記事 華佗の舞(尾張西枇杷島まつり2019年6月8日9日)
http://cte.main.jp/newsch/article.php/2533