三国志ファンのためのサポート掲示板 ※共同掲示板。話題は三国志関係。横レス歓迎。初心者モードの質問からマニアックな雑談まで
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【3545】質問です[1]  /  【3539】はじめて質問させていただ...[3]  /  【3508】蜀錦の貨幣的価値について[12]  /  【3512】関羽の諡号は?あなたは「...[15]  /  【3517】はじめまして[2]  /  【3511】新潮劇院 10月『京劇』公...[0]  /  【3504】孔融の息子たちが遊んでい...[2]  /  【3490】後漢末期の冠婚葬祭につい...[4]  /  【3489】影響を受けた人物。[0]  /  【3486】[投稿者削除][2]  /  

【3545】質問です
 S○S  - 2009/10/29(木) 17:34 -

引用なし
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   「董卓は皇甫嵩を殺そうと呼び出したが、皇甫嵩のあまりに潔い態度に感服し、董卓は皇甫嵩を殺さなかった。」
という記述をよく見かけるのですが、これは何の史料に出てくるエピソードですか?


皇甫堅寿が董卓に命乞いをしたという話しとはまた別なようなので、教えて下さい。

【3546】「皇甫嵩が妬ましかった董卓は」
お答え  清岡美津夫 E-MAILWEB  - 2009/10/29(木) 18:13 -

引用なし
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   初めまして、清岡と申します。
掲示板の書き込み方について私から言いたいことは、以前の私の書き込み[#3540]と全く同じなので省略して、回答に移ります。
次回はその投稿[#3540]を参考にして下さると幸いです。

それはアーケードゲーム『三国志大戦』で使用される皇甫嵩のカードにある説明文由来です。おそらくカードのスペースの関係上、複数の史料を題材にし要約された形になったんでしょうね。
「"皇甫嵩が妬ましかった董卓は"」で検索すると、それに関する情報が出てきます。

※「"皇甫嵩が妬ましかった董卓は"」をGoogleで検索
http://tinyurl.com/yk8xrrh


▼S○Sさん:
>「董卓は皇甫嵩を殺そうと呼び出したが、皇甫嵩のあまりに潔い態度に感服し、董卓は皇甫嵩を殺さなかった。」
>という記述をよく見かけるのですが、これは何の史料に出てくるエピソードですか?
>
>
>皇甫堅寿が董卓に命乞いをしたという話しとはまた別なようなので、教えて下さい。

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【3539】はじめて質問させていただきます
 蜀犬  - 2009/10/15(木) 1:11 -

引用なし
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   はじめまして。駆け出しの三国志ファンの蜀犬です。
三国志の小説や正史の記述に興味があったので、最近読み耽っています。
メジャーにならない意外な記述ってあるんですね。『後漢書』での高幹の高評価とか『二十四孝』での袁術と陸績のみかん話とか。

そうした中で出てきた質問です。ネット上に「晋の時代になっても、河北では袁家の治世を慕う声があった」というような文章をよく見かけます。
おそらく2次的な情報源は別冊宝島編集部の『僕たちの好きな三国志』だと思われますが、この記述の元となる歴史史料(1次史料)はなんでしょうか?
『僕たちの好きな三国志』は、斬新な見解がある反面、人物批評で偏りがあるとも指摘されますが、どうなのでしょうか?

そして、上記の質問と全然関係がないのですが『三国志演義』の黄巾武将・程遠志の名前は、「ほど・とおい・こころざし」と日本語では読めます。
これは羅貫中氏が図らずしも後の日本人に主人公劉備ら一行の旅の行方を示した
伏線でしょうか(笑)。

至らない文ですが、宜しくお願い致します。

【3540】袁家の歴史史料・出典不明
 清岡美津夫 E-MAILWEB  - 2009/10/15(木) 18:13 -

引用なし
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    初めまして、清岡と申します。

 以下一文、お節介じみていてしかも目に付いた自分の書き込み[#3518]からの単なるコピー&ペーストですので、スルーしてもらって構わないのですが、[#T3517]同様、できれば投稿内容をあらわした題名にしてしていただいた方が、他の閲覧者にとって内容が把握しやすく、引いてはレスがより付きやすくなるかと存じます。


 それで本題なのですが、

>そうした中で出てきた質問です。ネット上に「晋の時代になっても、河北では袁家の治世を慕う声があった」というような文章をよく見かけます。
>おそらく2次的な情報源は別冊宝島編集部の『僕たちの好きな三国志』だと思われますが、この記述の元となる歴史史料(1次史料)はなんでしょうか?
>『僕たちの好きな三国志』は、斬新な見解がある反面、人物批評で偏りがあるとも指摘されますが、どうなのでしょうか?

 私自身、そういった史料を知りませんので、以下、ご存知の方が書き込みになるまでの前座みたいな書き込みになるかと思います(笑)

 ネット上でそのような文章をよく見かけるということですが、私は下記のサイト「戦略」での掲示板での書き込み以外、初耳でしたので、(別に疑っているという訳ではないのですが確認のため)試しに「"袁家の治世を慕う声"」でGoogleで調べてみると、いくつか掲示板の書き込みなりサイトのコンテンツなり見られますね。

・戦略
http://www.yo7.org/
・袁家の歴史史料・出典不明  (※上記サイトの掲示板の書き込み)
http://yo7.s185.xrea.com/3594-bbs/yybbs.cgi?list=pickup&num=5197

※「"袁家の治世を慕う声"」をGoogleで検索
http://tinyurl.com/yhzkpym


 普通に考えますと、選択肢の一つとして、第三者の立場となる掲示板(つまりここのサイト)に質問を書き込むよりは、そういった文章が書かれた掲示板の書き込み主なりコンテンツを作ったサイト管理人なりに、メールや掲示板を通じ質問した方が確実だと思うのですが、そこらへんを行われたのか、(素朴に)疑問に思いました。
 また、「2次的な情報源」とネットからそれぞれ引用し、どういった文章なのか明らかにした方がより建設的な議論ができるかと思います。例えば、「2次的な情報源」の文章とネットでの文章とを比較するだけでも、少なくともネットでの文章がどれほど「2次的な情報源」の影響を受けているのか判りますし。

 今のところ、情報が少ないので何とも言えませんが、[#T2022]のツリーを参考にすると、『後漢書』袁紹伝の注に引く袁曄撰『獻帝春秋』に「紹為人政ェ、百姓コ之。河北士女莫不傷怨、市巷揮涙、如或喪親。」とあり、また『三国志』巻五十七呉書陸瑁伝の裴松之注に「迪孫曄、字思光、作獻帝春秋、云迪與張紘等倶過江、」とあり袁曄は後漢末の人の孫世代であることなどから強引に想像してみます。
 『獻帝春秋』にあるこの記述を「河北では袁家の治世を慕う声があった」と要約され、さらに『獻帝春秋』が晋代に書かれたものとし、まとめて「河北で袁家の治世を慕う声があったことが晋代まで伝承されていた」となり、それが転じて(変容して)「晋の時代になっても、河北では袁家の治世を慕う声があった」となったのかな、と想像してみました。

【3543】Re:袁家の歴史史料・出典不明
ひと言  R・F  - 2009/10/20(火) 19:55 -

引用なし
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   ▼清岡美津夫さん:

>ネット上でそのような文章をよく見かけるということですが、私は下記のサイト「戦略」での掲示板での書き込み以外、初耳でしたので、(別に疑っているという訳ではないのですが確認のため)試しに「"袁家の治世を慕う声"」でGoogleで調べてみると、いくつか掲示板の書き込みなりサイトのコンテンツなり見られますね。

主観ですが。ネットで袁紹についての話になったときには、出てくる頻度は高いように思われます。袁紹は「演義」の影響で「優柔不断で優秀でなく、あるのは四世三公の威光だけ」のイメージが強く、その袁紹の意外な「実像」を紹介するという感じですね。

私も、袁曄撰『獻帝春秋』の「紹為人政・・汗ォ芝掘2亘婿僚・纎サ・紂∋垤・・沺・^秦喊董・廚・汽優燭隼廚辰討い泙靴拭3里・砲柑愿Δ猟未蝓嵜犬了・紊砲覆辰討癲廚箸いκ犬呂匹海砲發△蠅泙擦鵑諭」

しかし、『僕たちの好きな三国志』がこれら全て「晋の時代になっても河北では袁家の治世を慕う声があった」の元ネタとすると、中々大した影響力ですね。

ところで、紹介になりますが、こういう文を見つけました。

中根東龍氏の「『新唐書』宰相世系表に見る三国時代の武将達の子孫」
http://ueno.cool.ne.jp/souryuu/san-keizu1.html
に、『新唐書』宰相世系表四下・袁氏、についての紹介を行ったあと、個人的なコメントとして、以下のような文があります。

「袁氏は新唐書宰相世系表にもかなりの人物を載せており、宰相に登りつめている人物だけで3名をあげることができる。袁紹が非常に善政を敷いていたことがかなり中世中国では伝説化していたようで、隋に至っても袁紹を讃える声があったというから、おそらく河北での袁氏人気が非常に高かったために、例外的に生き残りに成功したものではないかと考えられる」

これも、一次史料が不明ですね。気になるところです。
ご存知の方、宜しくお願いします。

あまり引用するのも何なので、このくらいにしておきます。

【3544】Re:はじめて質問させていただきます
  E-MAIL  - 2009/10/23(金) 23:48 -

引用なし
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    管見のかぎり「晋の時代になっても、河北では袁家の治世を慕う声があった」という話の根拠は知りません。以前,私が少し書き込みしたように,袁氏の評判自体は後の時代でもそんなに悪くありません。最近は,別に悪役に仕立てる意味がなかったからなのではないか,とは思ってきていますが。
 ちなみに宰相世系の話は眉唾物で,系図なんてものは,あてになりません。矢野主税という学者が,『魏晉百官世系表』(考証はせず,原典に依拠しているので,ところどころ年代があわないものもあります。)というものを作っていますが,それを見れば判るように,後漢の名族汝南袁氏と,魏晉南北朝隋唐の名族陳郡袁氏はまったくの別系統です。同系統とすると辻褄があわなくなります。ただ,同族であるということを,おそらく魏晉以降に,そういう話にしてしまったので,そういう事情を知らず,家譜の類を額面通り信じると,変な結論になることがあります。
 あとは史料の問題が結構多い時代なので,その辺の扱いを知らないと,諸々の後漢書が出てくる呉・両晉に編纂されたいくつかの後漢書で,たまたま袁氏の評価が陳壽と違って良いから,その頃は袁氏の評判がよかったのでは的に,間違った根拠の上に推測に推測を重ねる,というのは卒論レベルの人々によくみられることではないかと思います。史料の問題については早稲田で出してる確か,正史の基礎的研究とかっていうタイトルの専門書でも見ていただければわかります。

 私は晋代の袁家の評価云々ということは知らないので,一応,念のため知り合いの袁氏に詳しい東北大の院生に聞いたら,やはり,そんな話は聞いたことがないとのことでした。多分,根拠のある話ではないと思うのですが,無理やりそう考えるとすれば,一つ可能性がある話があるとのことでした。
 袁安碑・袁敞碑というのがありますが,これが同じ時期に建てられているんですね。あと○博碑というのがあって,○の部分が欠落しているのですが,尚博説と袁博説があって,これを袁博とすると,袁敞の子なので,どんなに早くともこれらは後漢後半期に建てられたと普通は思われているものです。一般的には後漢後半期,順・桓・靈帝あたりの建立と考えられてますが,ただ書道史の分野なんかでは,マイナーな説ではあるのですが,これらの碑文の字形から三國時代以降の建立ではないか,と考える人もいるようで,三國時代としても,汝南袁氏が表面的には没落したということになっているので(実際は,出土史料等を見るに,在地的に影響力は発揮しているようですけれど。),それ以降に建てられたとするなら,それなりに評判がよかったのではないか,という類推からくるのではないか,ということです。ただし「河北」と特定できるわけでもなく,あくまで建立年代はマイナーな説をとった場合である,ということは注意しておかなければなりません。

 ちなみに宮川尚志という学者は袁紹が冀州に出奔したのは,冀州に門生故吏が多かったからだ,的なことを言っていますが,これは根拠がある話ではありません。知人によれば,根拠と思えなくもない話はあるようですが,少なくとも確実な根拠ではありません。例えばこういう話を鵜呑みにして推測の上に推測を重ねると河北は昔から袁氏と繋がりが深く・・・,晉で袁氏が云々という話もでてくるのかもしれませんが,直接的にはそういう根拠はないのでしょう。
 袁氏に否定的な記事もそんなにありませんが,肯定的な記事というのも,『獻帝春秋』の記事だけですので,なかなか微妙なところではあります。『獻帝春秋』は裴松之が言うには信用できない記事のようですが,裴松之の評価が胡散臭いですからね。
 あとはあまり信用できない,宰相世系とか元和姓纂の説では楽陵袁氏という河北にいるとされる袁氏が袁紹の子孫ということになっているので,その辺からの恣意的な推測なのかもしれません。ちなみに陳郡袁氏は名門で,東晉以降の南朝に於いては,四大僑族に数え上げられる門閥貴族だったりと,袁氏が生き残って,汝南と同系統とされていたりと,そういう諸々の要素から推測して都合よく解釈した結果なのではないでしょうか。

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【3508】蜀錦の貨幣的価値について
 USHISUKE  - 2009/9/26(土) 23:58 -

引用なし
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   こんにちは、USHISUKEと申します。
後漢〜三国志時代にお詳しいみなさまにお伺いしたいことがあります。
後漢以降しばらく、貨幣経済が崩壊したことなどから、布帛や穀物も貨幣的価値をもって流通した…ということを、様々な文物から窺い知ることができるかと思います。
布帛のうち「帛(絹織物)」に関してですが、現四川省にて生産されていた「蜀錦」が、後漢〜三国時代、「帛」の中でもとくに高い貨幣的価値を有していた…ということはあるのでしょうか?
この質問は、当時の「布帛の貨幣的価値の計り方」に関する質問にもなるかもしれませんが、ご存じのかた、ご教授をお願いします。

【3529】Re:蜀錦の貨幣的価値について
 USHISUKE  - 2009/10/11(日) 1:29 -

引用なし
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   >ちなみに、以前、Barbalさんもレスつけられていた「劉巴の経済政策」に関するスレ[#T3350]があったかと思います。

[#3350]

ショートカットの表記が間違っていました。

【3530】Re:蜀錦の貨幣的価値について
紹介  Barbal  - 2009/10/11(日) 22:26 -

引用なし
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   ▼USHISUKEさん:
>ちなみに、以前、Barbalさんもレスつけられていた「劉巴の経済政策」に関するスレ[#T3350]があったかと思います。
>蜀の経済政策を考えるうえでひとつの材料になるなぁ、と考えて拝読しました。
>が、いかんせん経済や政府貨幣の発行のことがよく理解できておらず…困ったときの「はてな」ということで質問をしてみたところ、幸い詳しい方に丁寧に解説いただけています(現在進行中)。
>参考になりましたら。
>http://q.hatena.ne.jp/1254524497

 ほかの方の参戦がないのにわたしの自論ばかり書き込むのも肩身が狭いですが (^^;
 「はてな」のリンク先、興味深く拝見しました。常々劉巴の献策が詐欺やペテン扱いされることに疑問を感じ、真っ当な施策であることを何とかうまく説明できないものかと思っていたので、大いに参考になりました。やはり、経済に詳しいかたが見ると違いますね。

 ただ、一点だけ気になるので指摘させていただきたいのですが、『三国志』の「府庫充実」を「倉庫を物資で満たす」と解釈するのはあまり正確ではないと思います(これは さとうしゅう氏の訳の問題ですが)。

 佐原康夫著『漢代都市機構の研究』P.130やP.163にくわしく説明されていますが、もともと戦国時代には府=文書庫・庫=兵器庫だったものがのちに財庫・宝物庫になっています。実際、手元にある漢和辞典でも「府庫:文書や宝物をしまっておくくら」(『漢字源』P.501)となっており、ただの物置き(保管庫)ではなく現代の金庫(および財政機構)を指しています。 「府庫充実」というのは単に物置きが物資で一杯になったのではなく、大きな収入を上げ宝物(資産)が蓄積された意味だと考えるべきではないでしょうか。

 劉巴の献策はひとつながりではありますが、貨幣の発行益だけでこれだけの収入を上げたとは考えにくく、銭の発行=府庫充実ではなく
「まず良質な銭を発行しインフレを抑えて物価を安定させ」しかる後に「令吏為官市(公営マーケット。売り上げはすべて国庫に入るので、普通に商人から徴税するより実入りが良い)を設置して収入を増やす」、
銭の発行=物価の安定→公営マーケットが商売繁盛でメシウマ、なのだと考えます。
 もしUSHISUKEさんがその通りに解釈されておられるのでしたら、わたしの勘違いです。すみません <(_ _;)>

 実際、当時でも公営マーケットは珍しいものではなく、呉のハンショウ(変換めんどいのでパス;)伝で彼が占領地で商売をしていたこと、『晋書』宣帝紀で司馬懿が長安(だったかな?)に軍市を設けたこと、『後漢書・劉虞伝』での『『開上谷胡市之利,通漁陽鹽鐵之饒(上谷に胡市を開き、漁陽の豊かな塩鉄によって利益を得た)』などなど、少なくない記録が見られます。

 いかん、何が書きたいのか自分でもわからなくなってきた <(゚ロ゚;)> Oh,no! 

 最後。ついでに脱線させていただきますが、この公営マーケット。民は安定した価格で物を買えるし、政府も短期間で収入を上げられるのですが、あまり長く続けると民業を圧迫して発展を妨げますし、いざ何か(戦争や災害)あったときに政府の定めた価格を押し付けられることにもなります。 これは塩鉄の専売制もそうですが、なるべく期間限定で実施し、徐々に制限を緩めながら民間業者を参入させるべきであるように思われます。
 このように、蜀が「民と利を争う」(『塩鉄論』より)政策を導入した点をもって前回の『短期間に税収を上げることに気をとられ、ゆがんだ産業に』の部分の補足とさせていただきます。



【3532】Re:蜀錦の貨幣的価値について
追記  Barbal  - 2009/10/12(月) 1:52 -

引用なし
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    いちおう他のかたもご覧になっていると信じて(笑)。

 劉巴の「但當鑄直百錢,平諸物賈,令吏為官市(ただ百銭の価値に相当する貨幣を鋳造し、物価を安定させ、官営(国営)の市場をつくればよい)」ですが、このエピソードを語るのに最後の「令吏為官市」について言及する人が少ないように思います。
 たとえば、通貨の発行益で収入を増やすのが狙いならば「但當鑄直百錢」だけで済むし、商業を振興させて税収を増やそうというならば「平諸物賈」までで十分だと思います。 何のために「令吏為官市」とまで言っているのかを考えると、それはやはり官市で利益をあげるためだと思うのですが、いかがなものでしょうか。もしもこれが物価の統制のことを指しているのだとすれば、漢代の市場はみな役所が決めた価格がついている(守られていないのですがw)わけで、わざわざ官市である必要はないように思います。

 それから、わたしは「令吏為官市」を「吏をして官市を為さしむる=公営マーケットを設置させる」というように理解しているのですが、いかんせん漢文はよく読めません (-_-;)
 「それ、訳が違うよ」「こういう風に考えるべきじゃないの」というかたのご指摘をお待ちしております。どうぞよろしく。

【3542】Re:蜀錦の貨幣的価値について
追記  Barbal  - 2009/10/17(土) 21:37 -

引用なし
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   > 実際、当時でも公営マーケットは珍しいものではなく、呉のハンショウ(変換めんどいのでパス;)伝で彼が占領地で商売をしていたこと、『晋書』宣帝紀で司馬懿が長安(だったかな?)に軍市を設けたこと

 ・・・・・・すみません、思い切り誤爆でした _| ̄|●


司馬懿が長安に軍市を開いた話は『三国志(魏志)』倉慈伝に引く『魏略』の記述でした。訂正してお詫びします。

原文:「至青龍中,司馬宣王在長安,立軍市(後略)」
テキトー訳:「青龍年間、司馬懿は長安におり、軍市を立てた(開いた)」

 ご覧いただいた方には申しわけありませんでした。

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【3512】関羽の諡号は?あなたは「繆」派、それと...
教えて  R・F  - 2009/9/29(火) 21:56 -

引用なし
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   質問です。
盧弼の『三国志集解』で関羽の諡号である「荘繆侯」について、こう記されています。

死者に栄誉を与えるため「繆」という字を使ってよいか、という問題がある。
関羽に送られた「繆(ビュウ)」ではなく「穆(ボク)」ならば、秦ノ穆公や魯ノ穆公に使われた文字だ。孟子には、漢ノ穆公生、秦の穆公が載っている。古代では、全て「穆」を使った。宋の岳飛が武穆と追諡されたのも、同じ意味である。
諡法によれば、関羽に付けられた「繆(ビュウ)」はマイナスの評価で、武功が成らなかったという意味である。
「繆(ビュウ)」と「穆(ボク)」が混同されたのだろうか。

とあります。
私も、壮繆侯の「壮」に誤魔化されていて気が付かなかったのですが、確かに「穆(ボク)」ではなく「繆(ビュウ)」です。ちくまの訳では「繆」に「ボク」とルビを振っています。「穆」と勘違いするのも無理は無い。…言い訳ですね、すみません。

某サイトで話題として振ったところ、ちくまの訳は「訳者が、字の混同であると解釈してルビを振ったのでっはないか」との見解を頂きました。が。それ以外には反応がありませんでした。

そこで、改めてここで質問させていただくことにしました。
「繆」と「穆」のどちらと思われますか?

答の出る質問でないことはわかっています。造詣の深い皆さんの見解を披露していただけたら、と思っています。

よろしくお願いします。

私の見たのは、以下のサイトです。
『いつか書きたい三国志』
http://www.3guozhi.com/g/s1.html

【3536】Re:関羽の諡号は?あなたは「繆」派、それ...
感謝♪  R・F  - 2009/10/12(月) 22:18 -

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   ▼殷景仁さん:
>R・Fさん初めまして。
>
>「繆」の読み方については、松浦友久「「繆氏」の発音の史的変化と日本漢字音―「入声・去声」の関係に即して―」(研文出版『中国詩文の言語学 対句・声調・教学 松浦友久著作選一』所収)という論文があり、論文の主旨を簡単に要約すると次のようになります。
>
>1:諡号としての「繆」は、「音穆」「音木」(陸徳明『経典釈文』)などの音注が十数例あり、「秦繆公」についても、「繆、読曰穆」(『漢書』顔師古注)とあることから、「繆」は「穆」に通じ、「繆=ぼく」と読まれていたことが確認できる。
>
>2:姓氏としての「繆」は、六朝から盛唐までは伝統的な「繆=ぼく」と口語的な「繆=びゅう」の読みが併存していた。『王仁ク刊謬補缺切韻』の記述などから推測するに、元来は「繆=ぼく」の読みが主流であったが、司馬貞『史記索引』の「蘭陵繆生」における「繆、音亡救反。……一音穆」の注や『唐韻』『広韻』鄭樵『通志』などの記述から、盛唐から次の宋代になると、「繆=びゅう」という読みに移行したと考えられる。
>
>3:さらに「繆=びゅう」という読みは、「謬(誤り、間違い)」などに通じることから、明代の頃には「繆=びょう」という読みが現れた。
>
>4:以上から考えて、姓氏としての「繆氏」の日本漢字音は、「繆=ぼく」「繆=びゅう」いずれもあり、どちらが間違いだとはいえないが、読書や教学における混乱を避けるために優先をつけるならば、「繆=ぼく」の方がより相応しい。
>
>この見解に従えば、ここで問題になっている諡号「繆」については、「穆」に通じ、「繆=ぼく」と読むことでいいということになります。参考までにご参照ください。

▼殷景仁さん:
丁寧な説明ありがとうございます。

>「「繆氏」の発音の史的変化と日本漢字音―「入声・去声」の関係に即して―」(研文出版『中国詩文の言語学 対句・声調・教学 松浦友久著作選一』所収)
このようなアプローチの仕方があるとは全く知りませんでした。

>六朝から盛唐までは伝統的な「繆=ぼく」と口語的な「繆=びゅう」の読みが併存していた。
>盛唐から次の宋代になると、「繆=びゅう」という読みに移行したと考えられる。
>さらに「繆=びゅう」という読みは、「謬(誤り、間違い)」などに通じることから、明代の頃には「繆=びょう」という読みが現れた。
ということは、明以前には「繆」は、「穆」に通じていても、「謬(誤り、間違い)」とは通じておらず、明以前には「繆」は悪謚ではなかった可能性が高いと判断して良いのでしょうか。
程敏政と梁章鉅のことを検索してみましたら、程敏政は明代、梁章鉅は清代の人でした。梁章鉅が「荘繆侯」を悪い意味に取ったのは、時代による考えがあったのかもしれないのですね。

歴史というのは本当に奥が深いですね。改めてそれを感じさせられました。勉強になりました。
この度は本当にありがとうございました。

【3537】[投稿者削除]
   - -

引用なし
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   この書き込みは投稿者によって削除されました。(09/10/12(月) 23:51)

【3538】Re:関羽の諡号は?あなたは「繆」派、それ...
 殷景仁  - 2009/10/13(火) 0:09 -

引用なし
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   ▼R・Fさん:
>>六朝から盛唐までは伝統的な「繆=ぼく」と口語的な「繆=びゅう」の読みが併存していた。
>>盛唐から次の宋代になると、「繆=びゅう」という読みに移行したと考えられる。
>>さらに「繆=びゅう」という読みは、「謬(誤り、間違い)」などに通じることから、明代の頃には「繆=びょう」という読みが現れた。
>ということは、明以前には「繆」は、「穆」に通じていても、「謬(誤り、間違い)」とは通じておらず、明以前には「繆」は悪謚ではなかった可能性が高いと判断して良いのでしょうか。

>程敏政と梁章鉅のことを検索してみましたら、程敏政は明代、梁章鉅は清代の人でした。梁章鉅が「荘繆侯」を悪い意味に取ったのは、時代による考えがあったのかもしれないのですね。

松浦氏は「諡号」における「繆」の読みについては、『経典釈文』から顔師古までしか言及しておらず、「繆=ぼく」と読むと考えています(もっとも松浦氏は注で『逸周書彙校集注本』「諡法解」の「名与実爽、曰謬(繆)」という例外を指摘しています)。明代以後の「諡号」における読みについては、松浦氏は言及していませんが、私自身の憶測では、「繆」を悪謚と考えられる意見が出てきたのは、おっしゃるとおり時代の影響によるのではないかと思います。つまり「姓氏」における「繆=びょう」の読みが忌避されるようになったことで、本来なら異なるはずの「諡号」の読みにまで、「繆=びょう」が敷衍されるようになったのではないのでしょうか。

【3541】Re:関羽の諡号は?あなたは「繆」派、それ...
感謝♪  R・F  - 2009/10/16(金) 18:53 -

引用なし
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   ▼殷景仁さん:
今回は、本当にありがとうございました。

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【3517】はじめまして
ハロ〜☆  はこ E-MAIL  - 2009/10/5(月) 0:31 -

引用なし
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   最近横山光輝さんのマンガ三国志を最近読みました。
昔兄が借りてきたマンガを少しだけ読んだ事がありましたが・・・。
きっかけは、映画の「レッドクリフ」を見て読みたくなったからです。
まだまだ初心者なんでわからないことだらけです。。。
ネットで色々見てたら、三国志検定とかオフ会とかあって楽しそうですね!!
10月以降オフ会とか初心者からでも参加できる勉強会ねんてあるんですかね〜?
知っている方、教えて下さい!!!m(_ _)m

【3518】オフ会や勉強会の類
お答え  清岡美津夫 E-MAILWEB  - 2009/10/5(月) 5:26 -

引用なし
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   ▼はこさん:
>最近横山光輝さんのマンガ三国志を最近読みました。
>昔兄が借りてきたマンガを少しだけ読んだ事がありましたが・・・。
>きっかけは、映画の「レッドクリフ」を見て読みたくなったからです。
>まだまだ初心者なんでわからないことだらけです。。。
>ネットで色々見てたら、三国志検定とかオフ会とかあって楽しそうですね!!
>10月以降オフ会とか初心者からでも参加できる勉強会ねんてあるんですかね〜?
>知っている方、教えて下さい!!!m(_ _)m


「オフ会」や「勉強会」の類

初めまして、清岡と申します。

以下数行、お節介じみていますので、スルーしてもらって構わないのですが、[#T2919]同様、できれば投稿内容をあらわした題名にしてしていただいた方が、他の閲覧者にとって内容が把握しやすく、引いてはレスがより付きやすくなるかと存じます。
また、「オフ会」や「勉強会」の類は、やはり直に集まる訳ですので、北陸地方だとか関東地方だとか、ある程度の地域性を明示した方が、回答者にとって答えやすいかと存じます。

まずは、ここの掲示板で参考になるツリーを二つ挙げますね。どちらも昔の情報なので、現在では参考程度になると思います。
 [#T2902]  [#T2900]

地域性を絞らないで、真っ先に思い付くのは現在では「総合三国志同盟」のオフ会です。結構、いろんな地域で定期的に開催されているようにに思えます。
但し、こちらはSNSの「mixi」内のコミュニティですので、mixi会員であり、なおかつそのコミュニティに参加していることが前提となります。

・総合三国志同盟WEB
http://s-sangokushi-d.com/

・総合三国志同盟 (mixi内。mixi会員でないと見ることすらできません)
http://mixi.jp/view_community.pl?id=695478

また、同じく「総合三国志同盟」では関東地方だけになりますが、月の終わりの方で立間祥介先生を講師として招き勉強会が行われているようです。

【3531】Re:オフ会や勉強会の類
 はこ E-MAIL  - 2009/10/12(月) 0:17 -

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   回答いただきありがとうございます。

そして、題名についてのご指摘ありがとうございます。

思い切って投稿してよかったです。
過去にも私のように女性の方でも三国志のファンの方も質問していて、
女性ファンも思ったより多い事がわかりました。

私は東京に住んでます。mixi等で探してみたいと思います。

過去の投稿でカルチャーセンターでも講義があることも教えていただいたので、早速調べてみようかと思います!!

本当にありがとうございました!!

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【3511】新潮劇院 10月『京劇』公演(三国志)
 小魚 E-MAILWEB  - 2009/9/28(月) 14:35 -

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[添付]〜添付ファイル〜
・名前 : nisyogun.jpg
・サイズ : 101.4KB
   このたび在日の京劇団『新潮劇院』では
『京劇公演』を開催いたします。
演目の一つは「三国志」を題材とした
立ち回りが見所の演目になっております。

京劇の優れた技術に基づく、大変迫力ある面白い芝居ですので
こちらの掲示板にて情報を御紹介させて下さい。

***************************************************
新潮劇院 10月『京劇』公演

演目は三本立てになります。

■「二将軍」-張飛と馬超- 三国志演義より

※西涼の将軍『馬超』が単身乗り込み、蜀の将軍『張飛』との一騎打ちを挑みます。
 全編大立ち回りの見所満載!です

■「双背ding」-恐妻家-

  ※ding…「登」の下に「几」。腰掛けの意味


■「三岔口」楊家将演義より


●10月10日(土) 曵舟文化センターホール(墨田区)
 S席:5000円 A席:4500円(高校生以下、2000円)

●後援:中国大使館文化部/墨田区

●チケット申し込専用ダイヤル:080-3486-3352
●申込メールアドレス:ticket@shincyo.com


●ホームページにて詳細をご覧頂けます。 

http://shincyo.com/

添付画像
【nisyogun.jpg : 101.4KB】

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【3504】孔融の息子たちが遊んでいたのは囲碁それ...
マニアック!  たいがあ WEB  - 2009/9/15(火) 21:40 -

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   英語で三国志のたいがあです。現在第七十四課、孔融処刑の編集中です。(三国志演義では第40回目にあたります)。その中のくだりで孔融が処刑される際、二人の子供が遊んでいたのは日本語訳では碁とされていますが、テーラー訳ではplaying chessとなっています。語注では象棋としておきました。原典が「棋」という漢字だとするとどちらであったか判断は難しいように感じます。中国では囲碁も「囲棋」ですから。そうなると後漢の時代には囲碁の原型か象棋の原型があったのかという話になってしまうと思います。古代中国の棋道の歴史に詳しい方がいらっしゃったら手がかりとなる資料はあるのでしょうか。ご教授ください。

【3505】Re:孔融の息子たちが遊んでいたのは囲碁そ...
 池田雅典  - 2009/9/16(水) 3:18 -

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   ▼たいがあさん:
棋道の歴史は詳しくないのですが、手持ちでわかる範囲で。

『三国志』崔(王+炎)伝の裴注引ける『魏氏春秋』だと「(亦+廾)棋」になってますね。
んでとりあえず大漢和見たら、『説文解字』に「(亦+廾)、棊を圍むなり」とあって、
だから囲碁だよ、とありました。
ついでに『左伝』の正義に「『方言』に云う、圍棋は之を(亦+廾)と謂う。
 関東自(よ)り齊魯の間は皆之を(亦+廾)と謂う」なんてありました。
孔融は魯人ですから、囲棋でなく「(亦+廾)棋」となるんでしょう。
もっとも、裴松之は『魏晋世語』の
 (孔融)顧みて二子に謂いて曰く、「何をか以て辞せざる」と。
 二子倶に曰く、「父尚ほ此の如くんば、復た何をか辞する所あらん」と。
というやりとりを元に孫盛が捏造したと考えているようですが。

余談。
『世説新語』見たら「琢釘戲」になってました。
大漢和の説明そのまんま読むと
 當時 金陵の童子に琢釘戲有り。地に畫きて界を爲(つく)り、
 先ず小釘を以て地を琢(ついば)み、名づけて簽(しるし)と曰い、
 簽の在りし所を以て主と爲し、界を出でし者は負け、
 彼れ此れ中(あた)らざる者は負け、
 中るも主とせし所の簽に觸るるも亦た負け。
とのことで、地面に升目を書き、小釘を打ちこんで当たり升を決め、その周囲に大釘を打ち込むゲームのようです。ダーツみたいな感じでしょうか。
金陵すなわち建業なので孔融の子が遊ぶにはやや違和感ある、というか
世説が南朝の成立なんでそうなっちゃったのかなー、と思ってみたり。
<sage>

【3506】原始的マインスイーパー?
感謝♪  たいがあ WEB  - 2009/9/17(木) 7:14 -

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   ▼池田雅典さん:
>▼たいがあさん:
>棋道の歴史は詳しくないのですが、手持ちでわかる範囲で。
>
>『三国志』崔(王+炎)伝の裴注引ける『魏氏春秋』だと「(亦+廾)棋」になってますね。
>んでとりあえず大漢和見たら、『説文解字』に「(亦+廾)、棊を圍むなり」とあって、
>だから囲碁だよ、とありました。
>ついでに『左伝』の正義に「『方言』に云う、圍棋は之を(亦+廾)と謂う。
> 関東自(よ)り齊魯の間は皆之を(亦+廾)と謂う」なんてありました。
>孔融は魯人ですから、囲棋でなく「(亦+廾)棋」となるんでしょう。
>もっとも、裴松之は『魏晋世語』の
> (孔融)顧みて二子に謂いて曰く、「何をか以て辞せざる」と。
> 二子倶に曰く、「父尚ほ此の如くんば、復た何をか辞する所あらん」と。
>というやりとりを元に孫盛が捏造したと考えているようですが。

レスありがとうございます。岩波版三国志演義の日本語訳者小川環樹氏は訳をする際演義の作者が参考にしたらしい原典までさかのぼっているようですので、魏氏春秋をもとにそう訳されたのでしょうね。テーラー氏は囲棋="Go"のことを知らなかったのではなく西洋人には碁はなじみがないからチェス類としたのかもしれません。

>余談。
>『世説新語』見たら「琢釘戲」になってました。
>大漢和の説明そのまんま読むと
> 當時 金陵の童子に琢釘戲有り。地に畫きて界を爲(つく)り、
> 先ず小釘を以て地を琢(ついば)み、名づけて簽(しるし)と曰い、
> 簽の在りし所を以て主と爲し、界を出でし者は負け、
> 彼れ此れ中(あた)らざる者は負け、
> 中るも主とせし所の簽に觸るるも亦た負け。
>とのことで、地面に升目を書き、小釘を打ちこんで当たり升を決め、その周囲に大釘を打ち込むゲームのようです。ダーツみたいな感じでしょうか。
>金陵すなわち建業なので孔融の子が遊ぶにはやや違和感ある、というか
>世説が南朝の成立なんでそうなっちゃったのかなー、と思ってみたり。

これってマインスイーパーを想起させます。BrainKingに蛙探しというゲームがありますがこれに近いことを地面でやるとこうなるんでしょう。
http://brainking.jp/jp/GameRules?tp=101

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【3490】後漢末期の冠婚葬祭について
教えて  ひな  - 2009/9/2(水) 16:47 -

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   こんにちわ。
いつもはROM専門なのですが質問したいことがあったので投稿させていただきます。

タイトル通り後漢末期の冠婚葬祭についての知識が欲しいのですが、やはり『礼記』『周礼』を読むべきなのでしょうか…
上記二冊はわかり辛いことも多いため、なるべくならもっと図説がついたものなどが欲しいのです。
一応『古代中国の生活史』は所持していますが、冠婚葬祭に特化したものが欲しいと思っています。
よかったら皆さんのオススメの本を教えていただけませんか?
また、『礼記』『周礼』の完訳本でオススメのものも教えていただけるとうれしいです。

宜しくお願いいたします。

【3492】Re:後漢末期の冠婚葬祭について
雑談  清岡美津夫 E-MAILWEB  - 2009/9/6(日) 15:48 -

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   どうも初めまして、清岡と申します。

▼ひなさん:
>タイトル通り後漢末期の冠婚葬祭についての知識が欲しいのですが、やはり『礼記』『周礼』を読むべきなのでしょうか…
>上記二冊はわかり辛いことも多いため、なるべくならもっと図説がついたものなどが欲しいのです。
>一応『古代中国の生活史』は所持していますが、冠婚葬祭に特化したものが欲しいと思っています。
>よかったら皆さんのオススメの本を教えていただけませんか?
>また、『礼記』『周礼』の完訳本でオススメのものも教えていただけるとうれしいです。

私も常日頃からそういった図説のある工具書があれば便利だと思っています…
…つまり、私の狭い見識の中に、そう言った類で後世のものが混じらない書籍はありません(汗)
後漢あたり限定で、「ヴィジュアル礼記」なんてあれば良いなぁと思っているんですが、「実際、売り出せばどれぐらい需要があるんだろう」→「誰も買いそうにないので、そういう企画はないのかな」と思考が止まっていまいます。
とりあえず『礼記』に関して私は明治書院の新釈漢文大系シリーズの訳註を使ってます。

(あと、細かくて申し訳ないですが、一応、他の閲覧者向けに書きますが、林 巳奈夫/著『[#?中国古代の生活史]』のことですね?)

あとお求めになっているものと違ってくると思うのですが、三礼の一つの『儀礼』の訳注では、池田末利/訳註『儀礼』(東海大学古典叢書)なんてのがあります(冠昏喪は揃っているってことで)。
その別冊図には建物の平面図がいくつもあって、行礼に際しそれぞれ誰がどこに配置されるか(どういう動きをするか)何がどこに置かれるかが細かく書き込まれています。

※参考リンク
http://cte.main.jp/newsch/article.php/721

そういった書籍が見つからなければ、最終的に三礼の記述に、当時の画像磚石由来のヴィジュアルイメージを当てはめていく作業になるとは思うんですが…

【3495】Re:後漢末期の冠婚葬祭について
 池田雅典  - 2009/9/7(月) 4:44 -

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   横槍失礼をば。
▼ひなさん:
>>タイトル通り後漢末期の冠婚葬祭についての知識が欲しいのですが、やはり『礼記』『周礼』を読むべきなのでしょうか…
一応原則的な話を申し上げますと、三禮は周王朝で行われていた(ということになっている)儀礼ですし、また漢代の礼は種々の経典を参考にしつつ独自の制度を構築していますので、「後漢末の制度を」知りたいというのであれば向かないと思われます。
後漢と限定するなら、皇室の冠葬祭については『全譯後漢書』志(二)禮儀がいいのかなぁ、と。ビジュアル無いですが。
また士大夫に至るまでの冠婚葬祭、特に婚については『白虎通』に嫁娶の議論がああるにはあります。訓読・邦訳が無いので難易度高いですが、そこに引用される書名・編名を当たるだけでも成果は見込めるんじゃないでしょうか。

>>なるべくならもっと図説がついたもの
>>冠婚葬祭に特化したものが欲しいと思っています。
私も欲しいです。でも清岡さんのおっしゃる通り、残念ながら需要が無いです。
といいますか、ビジュアル関連はモノが少ないのでぶっちゃけわからんのです。

>>よかったら皆さんのオススメの本を教えていただけませんか?
わたくしオススメの本は諸橋轍次『支那の家族制』(大修館書店、一九四〇年)。
時代抜きで基本的な冠婚葬祭の知識を得るには最良じゃないかと思います。
ただものがものなので、中哲のある大学図書館じゃないと見つけられないかも。

▼清岡さん:
先日はお世話になりましたm(_ _)m
>三礼の一つの『儀礼』の訳注では、池田末利/訳註『儀礼』(東海大学古典叢書)なんてのがあります(冠昏喪は揃っているってことで)。
>その別冊図には建物の平面図がいくつもあって、行礼に際しそれぞれ誰がどこに配置されるか(どういう動きをするか)何がどこに置かれるかが細かく書き込まれています。
私の知るとある先生は「『儀禮』は本気でやると死んじゃうから手ぇださんほうがええ」と常々おっしゃっておりました。
正直わたくしも、その訳注を日本語の文章だと思って読んだことないです。
無いよりかは幾分ましですが、あっても決して理解は出来ないというか^^;
<sage>

【3499】Re:後漢末期の冠婚葬祭について
 ひな  - 2009/9/9(水) 9:37 -

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   池田雅典さんこんにちわ!
すばやいレスありがとうございます!

>一応原則的な話を申し上げますと、三禮は周王朝で行われていた(ということになっている)儀礼ですし、また漢代の礼は種々の経典を参考にしつつ独自の制度を構築していますので、「後漢末の制度を」知りたいというのであれば向かないと思われます。
>後漢と限定するなら、皇室の冠葬祭については『全譯後漢書』志(二)禮儀がいいのかなぁ、と。ビジュアル無いですが。
>また士大夫に至るまでの冠婚葬祭、特に婚については『白虎通』に嫁娶の議論がああるにはあります。訓読・邦訳が無いので難易度高いですが、そこに引用される書名・編名を当たるだけでも成果は見込めるんじゃないでしょうか。

そうですよね。三禮はちょっと古すぎるんじゃあないか…と思って今まであまり積極的に手を出していなかったのです。
興味があるのが後漢以降の時代なので…でも好き嫌いは良くありませんよね。
『白虎通』って確か班固が作ったもの…でしたっけ。あまり注意したことがありませんでした。
手に入れるのはちょっと難しそうですが頑張って探してみます。 

>私も欲しいです。でも清岡さんのおっしゃる通り、残念ながら需要が無いです。
>といいますか、ビジュアル関連はモノが少ないのでぶっちゃけわからんのです。
>わたくしオススメの本は諸橋轍次『支那の家族制』(大修館書店、一九四〇年)。
>時代抜きで基本的な冠婚葬祭の知識を得るには最良じゃないかと思います。
>ただものがものなので、中哲のある大学図書館じゃないと見つけられないかも。

amazonさんでオススメの本覗いてみたらとんでもないことになっていました(苦笑)
国立図書館で探してみます。

ご親切にありがとうございました!

【3498】Re:後漢末期の冠婚葬祭について
 ひな  - 2009/9/9(水) 9:26 -

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   すばやい返信ありがとうございます!
やっぱり難しそうですね…

>私も常日頃からそういった図説のある工具書があれば便利だと思っています…
>…つまり、私の狭い見識の中に、そう言った類で後世のものが混じらない書籍はありません(汗)
>後漢あたり限定で、「ヴィジュアル礼記」なんてあれば良いなぁと思っているんですが、「実際、売り出せばどれぐらい需要があるんだろう」→「誰も買いそうにないので、そういう企画はないのかな」と思考が止まっていまいます。
>とりあえず『礼記』に関して私は明治書院の新釈漢文大系シリーズの訳註を使ってます。

『礼記』はやっぱり明治書院が良さそうですね。いくつか読み比べてみて自分の中の候補が明治書院のものだったので…
ヴィジュアル礼記、需要は世間が歴史ブームの今だからこそドサクサに紛れて(笑)出してしまえばそこそこいくんじゃあないかなと思ったりもするのですが…

>(あと、細かくて申し訳ないですが、一応、他の閲覧者向けに書きますが、林 巳奈夫/著『[#?中国古代の生活史]』のことですね?)

はい、その通りです。書名うっかり間違えてました。
まだ目を殆ど通していないのですが、(と言うか手元にまだ届いていないのですが)どのサイトでも評判がとてもよいので楽しみにしています。

>あとお求めになっているものと違ってくると思うのですが、三礼の一つの『儀礼』の訳注では、池田末利/訳註『儀礼』(東海大学古典叢書)なんてのがあります(冠昏喪は揃っているってことで)。
>その別冊図には建物の平面図がいくつもあって、行礼に際しそれぞれ誰がどこに配置されるか(どういう動きをするか)何がどこに置かれるかが細かく書き込まれています。

そんな素敵な本があるのですね。
先ずは図書館で探してみます。

>※参考リンク
>http://cte.main.jp/newsch/article.php/721
>
>そういった書籍が見つからなければ、最終的に三礼の記述に、当時の画像磚石由来のヴィジュアルイメージを当てはめていく作業になるとは思うんですが…

とても大変な作業になりそうです。多分そこまでの根性は無いヘタレなので、無理だと思います…。
参考リンクもありがとうございました。

個人的に魏晋南北朝あたりの社会風俗も気になっているので、参考リンクに紹介されている本のどれもが興味深いです。
少しづつ読んでいこうと思います。
ありがとうございました!

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【3489】影響を受けた人物。
教えて  荊軻  - 2009/8/31(月) 23:10 -

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   初めまして。いつも皆様の博識振りに下を巻いております。
さて、日本の戦国時代に『今孔明』と謳われた竹中半兵衛ですが、彼は実際に諸葛亮の影響を受けていたのでしょうか?
また日本の戦国時代に(正史or演義の)諸葛亮の影響を受けていたであろう人物はいるのでしょうか?
もしご存知の方がおられましたら出典も判れば一緒に御教授下さい。
また戦国時代以外の日本の歴史上の人物で諸葛亮の影響を受けた事が明らかな人物がいるのでしたら、そちらもあわせて教えていただければ幸甚です。

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【3486】[投稿者削除]
   - -

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   この書き込みは投稿者によって削除されました。(09/8/27(木) 21:23)

【3487】Re:「揶」王曹沖」の現代語訳
ひと言  清岡美津夫 E-MAILWEB  - 2009/8/27(木) 20:20 -

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   どうも初めまして。

[#2199]
↑まずは参考となる投稿記事へのリンクを上げておきます。

あと、ここの掲示板は教育機関関連でも何でもなく答える義務もありませんので、答えが返ってくるとも限らないですし、返ってきたとしても正確がどうか定かじゃないですね。
それ以前に、授業で不充分だった分は授業の責任者(=先生)に質問するのが正当であって、それも含めて責任者が報酬を貰っているんでしょうし。

▼ミヤさん:
>はじめまして。
>三国志に関してはど素人
>高校生のミヤと申します。
>
>漢文の授業で
>三国志の「三ゲα皺ュ」を
>勉強し終わったのですが、
>現代語訳が曖昧なまま
>終わってしまいました…
>
>次の定期テストの範囲でもあるので
>なるべくわかりやすい現代語訳を
>載せて頂きたいのですが。
>
>三ゲΣZソ厥ー。
>少聡察岐嶷、生五六歳、智意所及、有若成人之智。
>時孫権曽致巨象、太祖欲知其斤重、訪之群下、咸莫能出其理。
>沖曰、「置象大船之上、而刻其水痕所至、称物以載之、則校可知矣。」
>太祖大悦、即施行焉。
>
>教科書にはこう書いてあります。
>
>どなたかよろしくお願い致します。

【3488】Re:「ケ哀王曹沖」の現代語訳
 ミヤ  - 2009/8/27(木) 20:41 -

引用なし
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   早速のご指摘ありがとうございます。

そうですね。
自分もその高校生のひとりなんだと
思ったら、恥ずかしくなりました;
もう少し自分で考えてみようと思います。

[#2199]
こちらの記事の方も
少し参考になりました。

迅速な回答ありがとうございました。

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