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玄鳳さん、ご返答ありがとうございました。
>>1.法正のほうが入蜀について功があった。
>>2.法正のほうが有能であった。
>>3.家柄の問題、又は益州を治める際の影響力
>>4.「元囚人だから左遷もやむをえない」と判断された
>要は、それだけ法正の存在感と立場が強かったということだと思います。
>
>3については、涼州に対する影響力が強い馬超が、
>劉備陣営でのキャリアが浅いにもかかわらず関羽や張飛と同列に扱われたように、
>外様の劉備が治めるためには、あり得る人事だと思いますが、
>法正自身がどれほど益州での影響力があったのか、私は分からないです。
法正は張松の推薦を受ける前は重用されていませんでしたが、もしかしたら…と思ったのですが、どうも難しいようですね。調べると法正の出身は扶風郡で、更に祖父は結構な名声を得ているので、それはあるのではないか、とも考えています。
>また、1については功績そのものもさることながら、
>劉備個人による信頼度が絶大だったことが考えられます。
>夷陵の敗報を聞いた諸葛亮が、
>「法正がいてくれれば、東征を止められたかもしれない」
>と言ったことからも、劉備がいかに法正を気に入っていたかが窺えます。
>私情で地位を濫用する法正に対し、
>法を厳格に適用する諸葛亮が口を出せなかったのも、
>劉備の傘の下という治外法権が働いていたからでしょう。
法正は劉備から絶大な信頼を得ていた。それで諸葛亮は手を出さなかった。それに較べて彭ヨウは処罰されたが、諸葛亮が劉備に言上できたことを考えると、劉備からの信頼というのは法正ほどではなかった、ということですね。
>彭ヨウとの比較というより、
>法正には問題行動を帳消しにして余りある程の何かがあったということだと思います。
彭ヨウと馬超の会話で「孔明と孝直と足並みを揃えて」とあり、また、諸葛亮に送った手紙で、「法孝直をつてにし、ホウ統に取り持ってもらった」とあります。特に後者では明らかに法正に気を遣っており、意識しています。更には益州制圧前に、劉備陣営に身を投げたことも法正とやや似ており、それで彭ヨウとの対比が何らかの鍵では…と思ったのですが、どうにも焦点がずれていたようです。
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