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中国の近世史、特に宋代以後には通用しない発想なのですが、漢魏晋隋唐史だと、石井仁氏の推定に見えるように中央の官僚に附随する幕僚の出自を明らかにすることは比較的容易です。そもそも中央官僚になる官僚が、特定の地方の有力者ですから、宋代科挙以降のような君臣関係ではないので、ある程度特定ができるわけです。
例えば「汝南の月旦評」で有名な許劭や許靖らの汝南許氏。この一族は前漢以来の汝南郡の有力者で、後漢時代では中央官僚となり、三世代に渡って三公を輩出しています。そのため中央官僚で許とでてくれば、大体、汝南の許であろうと推定されます。また韓馥なども、潁川の名門です。石井氏が橋ズイを梁の橋氏と推定したのは、後漢の官僚家で著名な橋氏は梁國を除いて無いとの理由によるのでしょう。また橋玄の族子とされる橋冒が袁紹の挙兵に深く関係していた事実をもってしても、袁氏と橋氏の関係が確認できます。
この前提の上に、張勲についても考えてみると、以下の推測が可能です。後漢の中央官僚家で著名な張氏は河内張氏、京兆張氏、汝南張氏、南陽張氏です。このうち南陽張氏を除く三氏は累世三公家で宗族から二人の三公を輩出しています。南陽の張氏からは初の在外太尉の事例と為った張温が三公と為っています。
このうち京兆の張氏は後漢前半期の名家ですが、中期以降は振るわないので、この家の出ではないと考えられます。他の三氏はみな後漢中期以降、袁紹・袁術の頃まで最高級の官僚家でしたから、これらの何れかと考えるのが妥当でしょう。
張勲はおそらく河内張氏、汝南張氏、南陽張氏の何れかの出と考えられます。それぞれの家と袁氏との関係を一応示すと次のとおりになります。
河内張氏
張キン・張延二人の三公を輩出。張延の子は魏の官僚と為る。漢魏交替を乗り越えた官僚家。『魏志』によれば袁隗の娘との婚姻を求められたが拒絶。謝沈の『後漢書』によれば婚姻を結んだとされる。
汝南張氏
張ホ、張済、張喜の三名の三公を輩出。汝南袁氏の祖袁安と同じく竇憲と対立した官僚、張ホを祖とする。張済は後漢末、汝南袁氏の袁隗、弘農楊氏の楊賜とともに長く三公にあった。また「欧陽尚書」を家学とし楊氏らと霊帝に侍講した。袁氏とは郷党であるとともに霊帝時代、官僚の中核にあった。
南陽張氏
張氏は南陽の著姓。張温は中常侍曹騰にひきたてられた官僚の一人。なお袁紹の祖父袁湯と曹操の祖父曹騰は梁冀政権樹立に尽力した最大の功臣。董卓が張温を殺害する際の理由は、袁術と交通したというものでした。勿論、これは言いがかりなのですが、何も無いところから、こういう理由付けがされるとは当然、考えられず、もともと袁術と南陽張氏との間に「門生故吏」関係や婚姻などの私的交通があったのでしょう。
以上、袁術との関係を隠蔽する必要があるとの観点からすれば、その必要があるのは魏の官僚と為っている河内張氏でしょう。袁氏との公私にわたって関係が深いという点でいえば汝南張氏でしょうし、『後漢書』董卓伝の記述から考えれば南陽張氏とも考えられます。
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