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はじめまして。決定的な事は言えませんが、考えられる事を述べてみたいと思います。
まず袁紹の妻が冀州の出身かどうかは判りません。単に劉氏を妻にしていたという点をとっても袁紹、袁術、曹操ともに劉氏の娘を妻にしています。袁紹と曹操については、どういった素性の劉氏なのか史料的に追求することはできません。ただ袁術の場合は確実に後漢宗室の娘のようです。
続いて所謂「四世三公」汝南袁氏の宗族の長は、少なくとも洛陽の官僚子弟の評判からすれば袁紹と考えられていたことは確実かと思われます。しかし所謂「中平六年の政変」などと称される董卓乗政後の政治史および官僚層の動向をみると、洛陽に残留した官僚の多くは、袁紹の下へは流れずに袁術を頼っています。それは一般に反董卓同盟などと称される山東の牧守が対立した際の、その要因に関係しています。周知の通り、山東に一斉に挙兵した集団、『魏志』武帝紀や『後漢書』袁紹伝にある面々以外にも、例えば劉表に見られるように董卓と対立する牧守が相当数存在しました。この山東の集団は基本的に、袁紹を中心とする河内、張バクを中心とする酸棗、南陽を中心とする袁術と別れ、それぞれ(少なくとも河内と酸棗についていえば)各地で挙兵しており、武帝紀に記されるような、劇的な一世挙兵という類のものではありませんでした。
また河内や酸棗について言えば、挙兵の数ヶ月前に派遣された牧守が多く、ほとんど袁紹が洛陽出奔後に、袁紹と親しかった吏部尚書の周ヒツおよび尚書郎許靖によって決められた面々であり、もとより袁紹の自作自演的要素が確認できます。少なくとも、これ以前、皇帝および近侍の官(顧問応対の官と称される)と官僚層(中核は劉虞・蓋勳・袁紹)の対立があり、袁紹らは少なくとも官僚層の代表でした。そのため、袁紹と袁術を比べれば、明らかに袁紹が、官僚層の後押しという点でみれば有利であったことは確かです。
ただこの山東の牧守が分裂した直接の原因は、河内の代表袁紹と、酸棗の代表張バクの漢復興のための手段の相違にありました。袁紹はもとより結んでいた劉虞を擁立して献帝を正式な天子として認めていませんでした。この点では曖昧な態度を示す官僚が多かったのは確かです。袁紹と盟友の蓋勳は、この点でどのように考えていたかは不明ですが、袁紹出奔後、京兆尹の地位にありましたが、戦争の準備をはじめ、皇甫嵩が兵を握っている頃、東の袁、西の皇甫として董卓を挟撃して漢の復興を図ろうとしています。この中で張バクや、例えば陶謙・孔融といった人々は献帝を正統と考えていましたから、連名して献帝を迎えようと画策していました。
有名な話ですが、袁紹は袁術と手紙のやりとりをして、劉虞を擁立することに賛同するよう求めています。袁術は少なくとも表向きは献帝を正統と考えていましたので、結果的に袁紹のような急進的発想を嫌う官僚や、当時、長安にあった官僚層の支持を得て、鄭泰に見られるように、一級の士大夫は袁術の下へ流れています。
なお各地に有力者は多く存在していましたが、すべてが官僚化するとは限りませんでした。(この点は時代区分論を含めて古くから議論されています。)少なくとも後漢時代の官僚では圧倒的に汝南・潁川・南陽出身者が多いです。当代随一の後漢時代の研究者の東晋次氏が指摘するように、この理由は光武帝の集団にはやくから関与していたことによるのでしょう。一方でそれ以外の地域、三輔や巴蜀出身者は後漢中期頃から官僚となっており、汝南・潁川・南陽に比べると、官界に於ける影響力は少なかったようです。
例えば有名な例をあげれば、「貴戚」(東氏の設定する用語)竇氏と官僚層の対立から、後漢の官界の状況が確認できます。詳しくは東氏の著作を参照していただければと思いますが、「貴戚」竇憲の後押しをしていた官僚は、それまで冷遇されていた三輔や蜀出身の有力者でした。一方、竇憲と積極的に対立していたのが、『後漢書』列伝三十五に立伝されている面々、すなわち「袁張韓周列伝」の汝南の袁安、汝南の張ホ、潁川の韓リョウ、廬江の周栄らです。(ちなみに皆、後漢の累世三公家です。)明らかに出身地で官界に於ける立場、影響に違いが有りました。また後漢時代の特徴として門生故吏という、私的交流があり、これらは概ね出身地や起家した時期で、党派が形成されていました。この後、さらに後漢の官僚層は複雑な変化をみせ党錮に繋がって行くのですが、こういった対立があったことを理解しておく必要があります。
この上で袁紹と袁術を見ると、袁紹の側には、袁紹出奔以前まで主流派であった官僚集団の多く、必然的に汝南・潁川・南陽の出身者が多くなります。一方で袁術は少なくとも官界では袁紹のように官僚の代表として活躍していたわけではありませんでした。たとえば何進と結んだ官僚のうち、中核として抜擢されたのは司隸校尉の袁紹と河南尹の王允(王允は袁紹の叔父袁隗や「四世三公」家の楊賜と関係が確認できる。)でした。結果的に袁術に従う士大夫というのは、「親袁術」というよりは「反袁紹」が多くなります。結果的に袁紹に比べて、史料的には潁川士大夫が少なくうつります。
なお袁術側の士大夫として名が残る面々について、詳しい記述が無い点ですが、石井仁氏の推定によれば、例えば橋ズイなどは名門梁の橋氏の宗族であろうとのことです。袁術側の士大夫の多くは少なくとも有力者であることは確かでしょう。彼らの史料が少ないことの理由は色々あると思われますが、漢魏交替の際、後漢の官僚家がそのまま魏の官僚としてスライドしていった事実を見ても、同宗の(少なくともその時代に於いて)不名誉な行動を隠蔽したかったという理由は考えられないことではありません。
袁術は『魏志』の記述だけ見れば、不名誉な評価を与えられるような人間に見えます。ただ彼は当時、第一級の知識人でした。恵棟の説によれば、袁術は尚書となっていたことがありました。(尚書は後漢時代、既に国政を担う中枢機関と一般的に考えられています。ただ近年この理解に対しての批判が多くなってきました。)尚書がどういった機関であったかは別として、少なくとも尚書となるには文字を知らなければいけませんし、文書を起草するため、五経に通じていなければなりませんでした。例えば曹操の場合は、当時主流の今文学という立場からみれば第一級の知識人ではあっても、ある程度異端的要素があったわけですが、袁術についていえば、代々「孟氏易」を教授する家ですから、正統的な知識人であったわけです。
少なくとも袁紹や曹操に見劣りするような人間また、集団でなかったことは確かです。ただ石井氏の言葉をかりれば、「袁紹・曹操連合軍」とも言うべき集団と、袁術とでは、様々な点で支持を得にくかったと考えられます。袁紹を中核とする集団が、袁紹を「盟主」として「親袁紹」で固められているのに対し、袁術の側は「反袁紹」という結束力の弱いものでしたから、例えば陶謙・呂布・孔融らとの緊密な関係を構築できず、はやくに解体していきました。こういった事情もあって、史料的に深く検討できない状況に至っているわけです。
最後に汝南にあったにも関らず、史料の上で表立って協力が確認できない点について触れたいと思います。この点は袁紹についても言えることですが、曹操に比べて「郷党」の積極的後押しが確認できません。この点は批判もありますが、例えば矢野主税氏の考えによれば、官僚化した人々は洛陽に居住し、次第に郷里との関係が薄くなる傾向にあります。この点は袁氏で言えば、既に門閥貴族的要素が確認できる袁湯の系統に比べて、汝南汝陽に生活の実態がある袁彭の系統に積極的な交流が無かったことを見ても裏付けられるでしょう。
袁紹の場合、唯一、官渡で曹操と争っている際、汝南郡で反乱があったことが満寵伝に残っている程度です。おそらく袁紹に見られるように、汝南の有力者の協力は袁術についても、あったと言えるかとは思いますが、それが史料として出てこないのは、その協力者が、汝南郡の有力者であっても、中央官僚ではないとの理由が想起されます。
なお文章中で「有力者」とした理由は、これまでの研究史の中で曖昧な「豪族」や「貴族」という定義がされてきたことによります。ご存知の通り、内藤湖南以来、京都学派は魏晋南北朝を「貴族制」の時代としてとらえ、一方、歴研派は唐代古代終末論を唱え、この点の定義を曖昧にしつつ議論がおこなわれてきた過去があります。また最近では史料用語の名士ではなく、独自の「名士」論を展開する人もいますが、問題点や批判も多く、あえてこれらの語の軽薄な使用は控えました。
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