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【2790】袁術軍に頴川人士がいない理由 ういろう 2007/4/13(金) 4:20 教えて
┣ 【2791】Re:袁術軍に頴川人士がいない理由 孫ぽこ 2007/4/22(日) 12:39
┣ 【2792】Re:袁術軍に頴川人士がいない理由 孫ぽこ 2007/4/22(日) 12:52
┣ 【2793】Re:袁術軍に頴川人士がいない理由 昭熹 2007/4/22(日) 16:13
┗ 【2795】Re:袁術軍に頴川人士がいない理由 ういろう 2007/4/24(火) 15:25 感謝♪
┗ 【2796】Re:袁術軍に頴川人士がいない理由 昭熹 2007/4/24(火) 17:22
┗ 【2797】Re:袁術軍に頴川人士がいない理由 ういろう 2007/4/29(日) 4:47 感謝♪

【2790】袁術軍に頴川人士がいない理由
教えて  ういろう  - 2007/4/13(金) 4:20 -

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   はじめまして、ういろうと申します。

袁紹軍には郭図ら頴川人士の姿が多く見えますが、袁術軍には頴川出身の人物が見当たりません。腐っても二袁の片割れ、袁紹に比べ豪傑たちの人気がなかったとはいえ、袁家の地元、汝南頴川を占拠していたのですから少なからずいてもいいと思うのですが・・・

それとも皇帝を名乗った袁術に加担したという穢れた事実を隠すために、同族の名士たちが正史から袁術に協力した人物の名前や出身を伏せさせたという可能性はあるのでしょうか?
(橋蕤、張勲、楊弘らの出身も明記されていないし・・・)

ご意見をお願いいたします。

【2791】Re:袁術軍に頴川人士がいない理由
 孫ぽこ WEB  - 2007/4/22(日) 12:39 -

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   ▼ういろうさん:
>はじめまして、ういろうと申します。
>
>袁紹軍には郭図ら頴川人士の姿が多く見えますが、袁術軍には頴川出身の人物が見当たりません。腐っても二袁の片割れ、袁紹に比べ豪傑たちの人気がなかったとはいえ、袁家の地元、汝南頴川を占拠していたのですから少なからずいてもいいと思うのですが・・・
>
>それとも皇帝を名乗った袁術に加担したという穢れた事実を隠すために、同族の名士たちが正史から袁術に協力した人物の名前や出身を伏せさせたという可能性はあるのでしょうか?
>(橋蕤、張勲、楊弘らの出身も明記されていないし・・・)
>
>ご意見をお願いいたします。

非常に興味を持って、誰か見識のある方がレスを書かれるのを待ってましたがおそらく、内容が高度すぎてなかなかレスがつかないようです。私も理由はさっぱり分かりませんが、取りあえずレスしてみます。

袁紹が潁川の士人たちを糾合し始めたのが、191年の反問董卓連合の崩壊後、冀州攻略を画策し始めた頃からではないか?と思われます。荀[或〃]が冀州に赴いたのもおそらくこの辺です。郭図も韓馥から冀州を奪取した際に、同郷の荀・篆鰭召蕕箸箸發槙肋劼稜ね僂鮗・韻燭箸△襪里如・瓜・セ・隼廚錣譴泙后」

では、その時期に袁術はどうだったかというと、袁術旗下の主力は孫堅です。孫堅と行動を共にしていたのは朱治・呉景・徐[王昆]といった揚州豪族です。という事は当時から、潁川士人は袁紹に、揚州豪族は袁術に・・・という流れはありそうな気がします。それがなぜなのか?は分かりませんwつーか、それが聞きたいんですよね(汗。まー結局分からないという事で、誰がお願いします。

【2792】Re:袁術軍に頴川人士がいない理由
 孫ぽこ WEB  - 2007/4/22(日) 12:52 -

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   ちょっと思ったのですが、嫁さんの系譜とか分かる人いませんかね?もしかしたら、その辺にヒントがあるかもしれない。

袁紹の正室は劉夫人は冀州の出身。袁紹が冀州攻略を画策したのも、冀州豪族の協力を多少なりとも得られるからだったかもしれません。

そして、潁川郡の士人たちはどうやら袁紹についたようなので、三世四公の袁家の跡取りは袁紹と当時から見られていたのではないか?という事。

だとしたら、亜流?だった袁術についたのは、袁術の奥さんの外戚関係?かもしれません。

【2793】Re:袁術軍に頴川人士がいない理由
 昭熹  - 2007/4/22(日) 16:13 -

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    はじめまして。決定的な事は言えませんが、考えられる事を述べてみたいと思います。
 まず袁紹の妻が冀州の出身かどうかは判りません。単に劉氏を妻にしていたという点をとっても袁紹、袁術、曹操ともに劉氏の娘を妻にしています。袁紹と曹操については、どういった素性の劉氏なのか史料的に追求することはできません。ただ袁術の場合は確実に後漢宗室の娘のようです。
 続いて所謂「四世三公」汝南袁氏の宗族の長は、少なくとも洛陽の官僚子弟の評判からすれば袁紹と考えられていたことは確実かと思われます。しかし所謂「中平六年の政変」などと称される董卓乗政後の政治史および官僚層の動向をみると、洛陽に残留した官僚の多くは、袁紹の下へは流れずに袁術を頼っています。それは一般に反董卓同盟などと称される山東の牧守が対立した際の、その要因に関係しています。周知の通り、山東に一斉に挙兵した集団、『魏志』武帝紀や『後漢書』袁紹伝にある面々以外にも、例えば劉表に見られるように董卓と対立する牧守が相当数存在しました。この山東の集団は基本的に、袁紹を中心とする河内、張バクを中心とする酸棗、南陽を中心とする袁術と別れ、それぞれ(少なくとも河内と酸棗についていえば)各地で挙兵しており、武帝紀に記されるような、劇的な一世挙兵という類のものではありませんでした。
 また河内や酸棗について言えば、挙兵の数ヶ月前に派遣された牧守が多く、ほとんど袁紹が洛陽出奔後に、袁紹と親しかった吏部尚書の周ヒツおよび尚書郎許靖によって決められた面々であり、もとより袁紹の自作自演的要素が確認できます。少なくとも、これ以前、皇帝および近侍の官(顧問応対の官と称される)と官僚層(中核は劉虞・蓋勳・袁紹)の対立があり、袁紹らは少なくとも官僚層の代表でした。そのため、袁紹と袁術を比べれば、明らかに袁紹が、官僚層の後押しという点でみれば有利であったことは確かです。
 ただこの山東の牧守が分裂した直接の原因は、河内の代表袁紹と、酸棗の代表張バクの漢復興のための手段の相違にありました。袁紹はもとより結んでいた劉虞を擁立して献帝を正式な天子として認めていませんでした。この点では曖昧な態度を示す官僚が多かったのは確かです。袁紹と盟友の蓋勳は、この点でどのように考えていたかは不明ですが、袁紹出奔後、京兆尹の地位にありましたが、戦争の準備をはじめ、皇甫嵩が兵を握っている頃、東の袁、西の皇甫として董卓を挟撃して漢の復興を図ろうとしています。この中で張バクや、例えば陶謙・孔融といった人々は献帝を正統と考えていましたから、連名して献帝を迎えようと画策していました。
 有名な話ですが、袁紹は袁術と手紙のやりとりをして、劉虞を擁立することに賛同するよう求めています。袁術は少なくとも表向きは献帝を正統と考えていましたので、結果的に袁紹のような急進的発想を嫌う官僚や、当時、長安にあった官僚層の支持を得て、鄭泰に見られるように、一級の士大夫は袁術の下へ流れています。
 なお各地に有力者は多く存在していましたが、すべてが官僚化するとは限りませんでした。(この点は時代区分論を含めて古くから議論されています。)少なくとも後漢時代の官僚では圧倒的に汝南・潁川・南陽出身者が多いです。当代随一の後漢時代の研究者の東晋次氏が指摘するように、この理由は光武帝の集団にはやくから関与していたことによるのでしょう。一方でそれ以外の地域、三輔や巴蜀出身者は後漢中期頃から官僚となっており、汝南・潁川・南陽に比べると、官界に於ける影響力は少なかったようです。
 例えば有名な例をあげれば、「貴戚」(東氏の設定する用語)竇氏と官僚層の対立から、後漢の官界の状況が確認できます。詳しくは東氏の著作を参照していただければと思いますが、「貴戚」竇憲の後押しをしていた官僚は、それまで冷遇されていた三輔や蜀出身の有力者でした。一方、竇憲と積極的に対立していたのが、『後漢書』列伝三十五に立伝されている面々、すなわち「袁張韓周列伝」の汝南の袁安、汝南の張ホ、潁川の韓リョウ、廬江の周栄らです。(ちなみに皆、後漢の累世三公家です。)明らかに出身地で官界に於ける立場、影響に違いが有りました。また後漢時代の特徴として門生故吏という、私的交流があり、これらは概ね出身地や起家した時期で、党派が形成されていました。この後、さらに後漢の官僚層は複雑な変化をみせ党錮に繋がって行くのですが、こういった対立があったことを理解しておく必要があります。
 この上で袁紹と袁術を見ると、袁紹の側には、袁紹出奔以前まで主流派であった官僚集団の多く、必然的に汝南・潁川・南陽の出身者が多くなります。一方で袁術は少なくとも官界では袁紹のように官僚の代表として活躍していたわけではありませんでした。たとえば何進と結んだ官僚のうち、中核として抜擢されたのは司隸校尉の袁紹と河南尹の王允(王允は袁紹の叔父袁隗や「四世三公」家の楊賜と関係が確認できる。)でした。結果的に袁術に従う士大夫というのは、「親袁術」というよりは「反袁紹」が多くなります。結果的に袁紹に比べて、史料的には潁川士大夫が少なくうつります。
 なお袁術側の士大夫として名が残る面々について、詳しい記述が無い点ですが、石井仁氏の推定によれば、例えば橋ズイなどは名門梁の橋氏の宗族であろうとのことです。袁術側の士大夫の多くは少なくとも有力者であることは確かでしょう。彼らの史料が少ないことの理由は色々あると思われますが、漢魏交替の際、後漢の官僚家がそのまま魏の官僚としてスライドしていった事実を見ても、同宗の(少なくともその時代に於いて)不名誉な行動を隠蔽したかったという理由は考えられないことではありません。
 袁術は『魏志』の記述だけ見れば、不名誉な評価を与えられるような人間に見えます。ただ彼は当時、第一級の知識人でした。恵棟の説によれば、袁術は尚書となっていたことがありました。(尚書は後漢時代、既に国政を担う中枢機関と一般的に考えられています。ただ近年この理解に対しての批判が多くなってきました。)尚書がどういった機関であったかは別として、少なくとも尚書となるには文字を知らなければいけませんし、文書を起草するため、五経に通じていなければなりませんでした。例えば曹操の場合は、当時主流の今文学という立場からみれば第一級の知識人ではあっても、ある程度異端的要素があったわけですが、袁術についていえば、代々「孟氏易」を教授する家ですから、正統的な知識人であったわけです。
 少なくとも袁紹や曹操に見劣りするような人間また、集団でなかったことは確かです。ただ石井氏の言葉をかりれば、「袁紹・曹操連合軍」とも言うべき集団と、袁術とでは、様々な点で支持を得にくかったと考えられます。袁紹を中核とする集団が、袁紹を「盟主」として「親袁紹」で固められているのに対し、袁術の側は「反袁紹」という結束力の弱いものでしたから、例えば陶謙・呂布・孔融らとの緊密な関係を構築できず、はやくに解体していきました。こういった事情もあって、史料的に深く検討できない状況に至っているわけです。
 最後に汝南にあったにも関らず、史料の上で表立って協力が確認できない点について触れたいと思います。この点は袁紹についても言えることですが、曹操に比べて「郷党」の積極的後押しが確認できません。この点は批判もありますが、例えば矢野主税氏の考えによれば、官僚化した人々は洛陽に居住し、次第に郷里との関係が薄くなる傾向にあります。この点は袁氏で言えば、既に門閥貴族的要素が確認できる袁湯の系統に比べて、汝南汝陽に生活の実態がある袁彭の系統に積極的な交流が無かったことを見ても裏付けられるでしょう。
 袁紹の場合、唯一、官渡で曹操と争っている際、汝南郡で反乱があったことが満寵伝に残っている程度です。おそらく袁紹に見られるように、汝南の有力者の協力は袁術についても、あったと言えるかとは思いますが、それが史料として出てこないのは、その協力者が、汝南郡の有力者であっても、中央官僚ではないとの理由が想起されます。

 なお文章中で「有力者」とした理由は、これまでの研究史の中で曖昧な「豪族」や「貴族」という定義がされてきたことによります。ご存知の通り、内藤湖南以来、京都学派は魏晋南北朝を「貴族制」の時代としてとらえ、一方、歴研派は唐代古代終末論を唱え、この点の定義を曖昧にしつつ議論がおこなわれてきた過去があります。また最近では史料用語の名士ではなく、独自の「名士」論を展開する人もいますが、問題点や批判も多く、あえてこれらの語の軽薄な使用は控えました。

【2795】Re:袁術軍に頴川人士がいない理由
感謝♪  ういろう  - 2007/4/24(火) 15:25 -

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   >孫ぽこさん
一週間近く掲示板が止まってしまったのでとんでもなくズレた質問をしたのかとヒヤヒヤしていました(笑)

>昭熹さん
非常にアカデミックな書き込みありがとうございます、大変参考になりました!官界に対する袁紹の影響力がそれほど強いものだったとは・・・認識を改めさせられます。後漢時代の官僚たちの力関係やその採用状況についてまだまだ勉強する必要がありそうです。

橋ズイが梁の橋氏の宗族となると相役の大将張勲も本来はかなりの名門なのでしょうね・・・
どうしても隠史のニオイを感じてしまいます。

【2796】Re:袁術軍に頴川人士がいない理由
 昭熹  - 2007/4/24(火) 17:22 -

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    中国の近世史、特に宋代以後には通用しない発想なのですが、漢魏晋隋唐史だと、石井仁氏の推定に見えるように中央の官僚に附随する幕僚の出自を明らかにすることは比較的容易です。そもそも中央官僚になる官僚が、特定の地方の有力者ですから、宋代科挙以降のような君臣関係ではないので、ある程度特定ができるわけです。
 例えば「汝南の月旦評」で有名な許劭や許靖らの汝南許氏。この一族は前漢以来の汝南郡の有力者で、後漢時代では中央官僚となり、三世代に渡って三公を輩出しています。そのため中央官僚で許とでてくれば、大体、汝南の許であろうと推定されます。また韓馥なども、潁川の名門です。石井氏が橋ズイを梁の橋氏と推定したのは、後漢の官僚家で著名な橋氏は梁國を除いて無いとの理由によるのでしょう。また橋玄の族子とされる橋冒が袁紹の挙兵に深く関係していた事実をもってしても、袁氏と橋氏の関係が確認できます。
 この前提の上に、張勲についても考えてみると、以下の推測が可能です。後漢の中央官僚家で著名な張氏は河内張氏、京兆張氏、汝南張氏、南陽張氏です。このうち南陽張氏を除く三氏は累世三公家で宗族から二人の三公を輩出しています。南陽の張氏からは初の在外太尉の事例と為った張温が三公と為っています。
 このうち京兆の張氏は後漢前半期の名家ですが、中期以降は振るわないので、この家の出ではないと考えられます。他の三氏はみな後漢中期以降、袁紹・袁術の頃まで最高級の官僚家でしたから、これらの何れかと考えるのが妥当でしょう。
 張勲はおそらく河内張氏、汝南張氏、南陽張氏の何れかの出と考えられます。それぞれの家と袁氏との関係を一応示すと次のとおりになります。

河内張氏
 張キン・張延二人の三公を輩出。張延の子は魏の官僚と為る。漢魏交替を乗り越えた官僚家。『魏志』によれば袁隗の娘との婚姻を求められたが拒絶。謝沈の『後漢書』によれば婚姻を結んだとされる。

汝南張氏
 張ホ、張済、張喜の三名の三公を輩出。汝南袁氏の祖袁安と同じく竇憲と対立した官僚、張ホを祖とする。張済は後漢末、汝南袁氏の袁隗、弘農楊氏の楊賜とともに長く三公にあった。また「欧陽尚書」を家学とし楊氏らと霊帝に侍講した。袁氏とは郷党であるとともに霊帝時代、官僚の中核にあった。

南陽張氏
 張氏は南陽の著姓。張温は中常侍曹騰にひきたてられた官僚の一人。なお袁紹の祖父袁湯と曹操の祖父曹騰は梁冀政権樹立に尽力した最大の功臣。董卓が張温を殺害する際の理由は、袁術と交通したというものでした。勿論、これは言いがかりなのですが、何も無いところから、こういう理由付けがされるとは当然、考えられず、もともと袁術と南陽張氏との間に「門生故吏」関係や婚姻などの私的交通があったのでしょう。

 以上、袁術との関係を隠蔽する必要があるとの観点からすれば、その必要があるのは魏の官僚と為っている河内張氏でしょう。袁氏との公私にわたって関係が深いという点でいえば汝南張氏でしょうし、『後漢書』董卓伝の記述から考えれば南陽張氏とも考えられます。

【2797】Re:袁術軍に頴川人士がいない理由
感謝♪  ういろう  - 2007/4/29(日) 4:47 -

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   >昭熹さん

これで袁術軍の構成、幹部たちの素顔が少しずつ見えてきた感じがします。中央の官僚クラスの人士と在地の豪族が連合している人員構成は袁紹軍と同じようですね。

重ね重ねご教授ありがとうございます!

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