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いつも本当にお世話になっております。
毎回質問をするばかりで心苦しいのですが、ご教授いただければ嬉しいです。
魏の都・洛陽についてです。
手元の本で、
堀内正範(編著)『洛陽発「中原歴史文物」案内』(新評論1998年)には
「明帝曹叡の時代には、北宮、南宮をまとめて宮城とし、
中央のショウ闔宮門から南へ広さ42メートルの銅駝街を通し、
その両側に官衙を集めて都城は整備された。」とあります。
一方、
『長安−絢爛たる唐の都』(角川書店1996年)所収の、
町田章「中国の都城・日本の都城−その原型と独自性」には
「後漢が滅んで魏が洛陽に乗り込むのですが、
洛陽では後漢時代の宮殿区画をそのまま利用し、
宮殿配置に大きな変更を加えなかったようです。」
とあり、後漢洛陽城と北魏洛陽城の地図が載っています。
(銅駝街は北魏の都の説明のなかに登場。)
「三国志」文帝・明帝紀の洛陽建築の条文には、
銅駝街という名は登場しませんが、
「晋書」恵帝紀には登場します。
後漢の「北宮」「南宮」に分かれた宮殿をまとめて、銅駝街が通されたのは、
魏の時代なんでしょうか?
もしくは、三国時代の洛陽の地図が見られる資料等をご存知でしたら、
紹介してください。
よろしくお願いします。
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