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▼むじんさん:
>街(十字路)そのものは永平十五年(AD72年)の時点ですでにあったわけです。『水経注』では続けて「かつて魏の明帝が駱駝やさまざまな動物の銅像を昌闔門の南の街に設置」とあります。
>銅駝街の名が付けられたのはこの駱駝像が設置された後のことだと思いますが、『太平御覧・州郡部』に引く陸機『洛陽記』には
>漢代から駱駝像があったような記述になっています。「魏の明帝」は後漢明帝(永平含む)の間違いなのかも知れないなぁという気もします。
>地図については、たぶん『洛陽伽藍記』(そう高い本ではないです)の良い本なら付いているのではないかと思います。
▼清岡美津夫さん:
>事実上、絶版らしい「中国の城郭都市」
早速のお答え、ありがとうございました!
「銅駝街」じたいは、1世紀からあったわけですね!
今回のことで調べてみたら、後漢明帝は、洛陽の大造営をやった皇帝のようですから、「明帝」間違いという可能性は、本当にありますね!
ご紹介いただいた『中国の城郭都市』P83の「漢魏洛陽城址」図は、
『長安−絢爛たる唐の都』P63の「北魏洛陽城」図とほぼ同じでした。
ただ、『中国の城郭都市』本文を読むと、
「魏の洛陽城は漢の洛陽城郭を踏襲したものであるが、西北隅に突出した金ヨウ城が新たに増築された。〜(略)(北魏は洛陽に遷都すると)漢魏以来の洛陽城の中心である南北二宮の荒廃が著しいため、まず金ヨウ城を修復して宮殿等が再建された。」
とありました。
じつは私は漫画の作画資料としてこれを調べている(魏の都を空撮したような映像を描きたい)ので、とくに問題となるのは宮殿の位置だったのです。
後漢以来の「南北二宮」が、北魏では1つの「宮城」になっているので、それがいつからなのかが、問題なのです。
昨日、自分の本棚をながめて、昔買った
学研「歴史群像シリーズ17 【三国志】上巻」
をパラパラと見たら、巻頭カラー特集に「後漢洛陽城」(杉本憲司監修・文)がありまして、カラーで大きく「後漢洛陽城平面図」が載ってました。
それによると、魏の洛陽は、やはり南北二宮があったようです(銅駝街については記述なし)。
(自分の本棚の本というのも、古いものになると忘れていて、ダメですね。どうもお騒がせいたします・・・)
(長文になったので、次レスへつづく)
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