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【1628】洛陽の地図について(銅駝街など) 青青生 2005/4/3(日) 2:52 教えて

【1674】Re:2つの地図 むじん 2005/4/12(火) 15:19
┗ 【1678】Re:2つの地図 青青生 2005/4/12(火) 19:17 [添付]

【1674】Re:2つの地図
 むじん E-MAILWEB  - 2005/4/12(火) 15:19 -

引用なし
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   こんにちは。

>>すると楊守敬『水経注疏』に「渠水はまた枝分かれして道を挟んで南流し、太尉・司徒両坊の間を抜ける。これを銅駝街という」とあり、
>
>勉強不足の私がパッと見、手元の地図を眺めると、この銅駝街の位置は、
>北魏の都のメインストリート「銅駝街」と違わなくないですか?

map-rekisigunzou.jpgが三公の府を洛陽城東南に推定しているのは、伏侯『古今注』に「太尉・司徒・司空府を開陽城の門内に建てた」とあるのに拠ったのだと思います。

しかし『水経注』『洛陽伽藍記』の記述はmap-joukakutosi.jpgに近いです。渠水というのは穀水から水を引いて作った運河のことで、これは宮城の西面に沿って北から南へ流れています。『水経注』に「南流して東に転じ、昌闔門の南を経る」とありますが、洛陽で昌闔門と呼ばれているのには外城西門と宮城南門の2つがあり、ここでは宮城南門のことを言っています。

『水経注』では続けて「魏の明帝が漢の崇徳殿跡地に太極殿を建てた場所で、漢の時代には洛陽宮殿の題額は蔡ヨウらによって大篆で書かれていたが、董卓が宮殿を燃やしたのち、魏の太祖が荊州を平定すると、梁鵠の書を愛して彼に八分書を書かせた。北宮の題額の多くは梁鵠の書である。南宮が建設されると、明帝は韋誕に篆書を書かせ、都が洛陽に移されると中書舎人沈含馨に隷書を書かせ、景明・正始年間、符節令江式に大篆を書かせて旧に代えた。公のもろもろの題額はみな江式の書である」「渠水は(ここで)また枝分かれして、(一方は)道を挟んで南流し、太尉・司徒両坊の間を抜ける。これを銅駝街という」とあり、

「(もう一方の)渠水は銅駝街より東流して司馬門の南を経る。魏の明帝が宮門を築こうとしたとき、数百人が圧死する崩壊事故で建設中止となったため宮門がないのである。門の南は翁仲の銅像が置かれていた場所である。ここから南へ宣陽門に直結している。往来は禁止されており、曹子建はその禁を犯したため遠ざけられた。渠水はさらに東流してテキ泉の北を経過、司空府の前を通り、太倉を経て、南流して東陽門の石橋へ出、陽渠に注ぐ」とあります。

【1678】Re:2つの地図
 青青生  - 2005/4/12(火) 19:17 -

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【添付ファイル】 〜添付ファイル〜
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   ▼むじんさん:
>map-rekisigunzou.jpgが三公の府を洛陽城東南に推定しているのは、伏侯『古今注』に「太尉・司徒・司空府を開陽城の門内に建てた」とあるのに拠ったのだと思います。
>しかし『水経注』『洛陽伽藍記』の記述はmap-joukakutosi.jpgに近いです。

本当に丁寧な説明と引用、本当にありがとうございます!

つまりmap-rekisigunzou.jpgの太尉・司徒府の位置はおおよその推定で、
より正確なのは『水経注』『洛陽伽藍記』だということですね?

渠水と銅駝街、三公の府の位置関係が分かる地図を見つけたので、
アップしてみます!
(もはや学校の先生に頼る子どものようなイキオイで、すみません。。)

中国古典文学大系21『洛陽伽藍記 水経注』平凡社1974年
の巻末の地図(部分)です。
(『洛陽伽藍記』は東洋文庫の全訳版を見たいと思ったものの、地元の公立図書館の蔵書に無かったため、断念しました。。。)

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