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【488】爵位について 孫ぽこ 2003/12/13(土) 17:31

【490】Re:爵位について むじん 2003/12/14(日) 2:02
┗ 【495】Re:爵位について 孫ぽこ 2003/12/14(日) 13:25
┗ 【496】Re:爵位について 孫ぽこ 2003/12/14(日) 13:33
┗ 【513】Re:爵位について むじん 2003/12/19(金) 5:13
┗ 【518】Re:爵位について 孫ぽこ 2003/12/19(金) 18:28
┗ 【520】Re:爵位について 清岡美津夫 2003/12/19(金) 19:13 ひと言
┗ 【522】Re:爵位について 孫ぽこ 2003/12/20(土) 9:20

【490】Re:爵位について
 むじん E-MAILWEB  - 2003/12/14(日) 2:02 -

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   こんにちは。

>皇帝の子(皇太子でない)が王として地方に配属される場合は、その地方の軍権まで有しているように思われますが、例えば孫堅の鳥程侯・呂布の温侯などは、実権はなかったように思われ、王と侯では全然意味合いが違うのか?規模が違うだけなのか?が分かりません。どなたかご教授よろしゅう♪

これは『続漢書』百官志に記述があったような…。ぱらぱら…。

> 列侯の食む県を侯国とする。秦の爵位十二等を継承して徹侯としたもの。金印紫綬。功績ある者を賞す。功績の大きい者は県を食み、小さい者は郷・亭を食む。その食むところの官吏・民衆を臣下にすることができる。のちに武帝劉徹の諱を避けて列侯と改名。
> 国ごとに相一人を置き、その秩禄は本来の県と同じ。民衆統治をつかさどることは県令・県長と同じで、(侯に)臣従しない。ただ租税を侯に納めるだけで、(納入額は)戸数によって限度がある。その家臣として家丞・庶子を一人づつ置いた。侯の側にはべり、家事を取り仕切る。列侯にはもともと行人・洗馬・門大夫がいて合計五人の官だったが、中興以来、食邑千戸以上なら家丞・庶子を一人づつ置き、千戸未満なら家丞・行人・洗馬・門大夫を置かなかった。

領土をもらったら、その住民を臣下にできたようです。ところが補佐役である相は侯に臣従せず、それでいて県令同様の地方行政を行うわけですから、列侯の行政権はほとんどなかったということでしょう。相が列侯に臣従しないというのは、建前では列侯の師匠なので目上扱いにするということですが、本音では列侯から行政権を取り上げるということですよね。そして相の任免権があったのは中央政府でした。

呂布の部下には河内出身者がいたようですが、それは呂布が河内の温を賜ったことと関係しているんじゃないかと思ってます。王の生活については曹植伝にも記載があります。

【495】Re:爵位について
 孫ぽこ WEB  - 2003/12/14(日) 13:25 -

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   >> 列侯の食む県を侯国とする。秦の爵位十二等を継承して徹侯としたもの。金印紫綬。功績ある者を賞す。功績の大きい者は県を食み、小さい者は郷・亭を食む。その食むところの官吏・民衆を臣下にすることができる。のちに武帝劉徹の諱を避けて列侯と改名。
>> 国ごとに相一人を置き、その秩禄は本来の県と同じ。民衆統治をつかさどることは県令・県長と同じで、(侯に)臣従しない。ただ租税を侯に納めるだけで、(納入額は)戸数によって限度がある。その家臣として家丞・庶子を一人づつ置いた。侯の側にはべり、家事を取り仕切る。列侯にはもともと行人・洗馬・門大夫がいて合計五人の官だったが、中興以来、食邑千戸以上なら家丞・庶子を一人づつ置き、千戸未満なら家丞・行人・洗馬・門大夫を置かなかった。
>
>領土をもらったら、その住民を臣下にできたようです。ところが補佐役である相は侯に臣従せず、それでいて県令同様の地方行政を行うわけですから、列侯の行政権はほとんどなかったということでしょう。相が列侯に臣従しないというのは、建前では列侯の師匠なので目上扱いにするということですが、本音では列侯から行政権を取り上げるということですよね。そして相の任免権があったのは中央政府でした。

おおっサンクスです。問題は兵を雇うほどの租税を得ることが出来たか?ですが雰囲気的になさそうな感じ・・・。

>呂布の部下には河内出身者がいたようですが、それは呂布が河内の温を賜ったことと関係しているんじゃないかと思ってます。王の生活については曹植伝にも記載があります。

なるほど・・・。人材としてならあり得ますね。それにしても、人材を活かすにも、軍権なり統治権なりがない事には、活かし様がない訳ですから、二代目・三代目あたりになって、過去の先代の功績によって侯に封じられたとあるだけの人物の場合、実権はなかったと見て良いですかね?

【496】Re:爵位について
 孫ぽこ WEB  - 2003/12/14(日) 13:33 -

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   それと王の場合ですが。
孫権の呉王就任の際には杓が授けられ、軍権・統治権が与えられたのは間違えありませんが、皇帝の庶子が王に封じられる場合はどうだったんでしょうね?

孫休が虎林王となってそこに住まいしているのに、郡太守の李衡から迫害されたりしていて、ほとんど実権はなかったように思われる反面、虎林は長江流域の拠点の一つのようでもありますから、軍権を与えて前線の防衛に当たっていたようにも見えます。孫晧のように21王を封じたような場合に到っては、県レベルで封じても一郡あたりは王のために使用されてしまいますし。

実際に機能していた場合としてなかった場合があると見て良いですかね?

【513】Re:爵位について
 むじん E-MAILWEB  - 2003/12/19(金) 5:13 -

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   諸王についても『続漢書』百官志に記述があります。簡単にいきます。

項羽が滅ぼされると、漢朝はその諸王の制度を引き継いだ。官職には太傅・丞相・御史大夫のほか何人かの卿がいて、それぞれ二千石。ちょうど朝廷のようである。国家は丞相だけを派遣し、御史大夫以下は全て国王が任命する。
景帝の時代、呉楚七国の乱を反省し、諸王が民衆を統治できないように、内史を民衆統治に当たらせた。そして丞相を相と改称し、御史大夫・廷尉・少府・宗正・博士の官職を廃止した。武帝は中央政府の内史(京兆尹)・中尉(執金吾)・郎中令(光禄勲)の官名を改めたが、諸国では以前通りであった。しかし任命は朝廷がすることになった。成帝の時代になると内史を廃止し、民衆統治は相に委ねた。太傅は傅と改称された。
中尉(執金吾にあたる)は盗賊の取り締まり。郎中令(光禄勲)は宿衛。僕(太僕)は車・御者の管理。治書(尚書)。大夫は皇帝からの使者を出迎えたり、京師へ年賀に出たり、諸国への使者になったりする。みな持節だったが後に節は与えられなくなった。謁者は冠長冠(脱文あり?)を管理する。礼楽長は楽人を管理。衛士長は衛士を管理。医工長は医薬を管理。永〓長は宦官で、宮中の女中を管理。祠祀長は祭祀を管理。郎中。

よく分からないですね。相が民衆統治にあたったという個所の注に、大司空何武が「内史を廃止し、相を太守のごとく、中尉を都尉のごとくせよ」と上奏してから、中尉は王の相と権力を争うようになり、上奏するときいつも不和であった、とあります。

【518】Re:爵位について
 孫ぽこ WEB  - 2003/12/19(金) 18:28 -

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   ▼むじんさん:
>景帝の時代、呉楚七国の乱を反省し、諸王が民衆を統治できないように、内史を民衆統治に当たらせた。そして丞相を相と改称し、御史大夫・廷尉・少府・宗正・博士の官職を廃止した。武帝は中央政府の内史(京兆尹)・中尉(執金吾)・郎中令(光禄勲)の官名を改めたが、諸国では以前通りであった。しかし任命は朝廷がすることになった。成帝の時代になると内史を廃止し、民衆統治は相に委ねた。太傅は傅と改称された。

これを読むと王には実権はなく、実権は相が握っていたように読めますね。曹操が黄巾の乱の後、済南国相に任じられた場合などがこれに当たりそう。済南国王が誰か?なんて全然分からないですし。

ただ、不思議なのは孫権の呉王封印時は明らかに別であるのと、皇帝の庶子が王に封じられる場合には、王として国防の任に当たった・・・といった記述が呉書にいくつか見られ、その王国も長江周辺ですから、この辺が分からないです。これは呉特有なのかな?

また、八王の乱では、完全に王が軍権を持ってますし、宗室王と一般王は違うのかも??

【520】Re:爵位について
ひと言  清岡美津夫 E-MAILWEB  - 2003/12/19(金) 19:13 -

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   ▼孫ぽこさん:
>これを読むと王には実権はなく、実権は相が握っていたように読めますね。曹操が黄巾の乱の後、済南国相に任じられた場合などがこれに当たりそう。済南国王が誰か?なんて全然分からないですし。

話の本筋からずれた上に揚げ足取ったようで申し訳ないですが、一応。(指摘してしまうのは三国志ファンの悲しいサガと思って、許してくださいね)

後漢書の章帝八王伝によると

「熹平三年、使使拜河闊タ王利子康為濟南王、奉孝仁皇祀。康薨、子贇嗣、建安十二年、為黄巾賊所害。子開嗣、立十三年、魏受禪、以為崇コ侯。」

ということで、「康」という人が済南王だったようです(それか、その子どもでしょうか)

【522】Re:爵位について
 孫ぽこ WEB  - 2003/12/20(土) 9:20 -

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   ▼清岡美津夫さん:
>▼孫ぽこさん:
>>これを読むと王には実権はなく、実権は相が握っていたように読めますね。曹操が黄巾の乱の後、済南国相に任じられた場合などがこれに当たりそう。済南国王が誰か?なんて全然分からないですし。
>
>話の本筋からずれた上に揚げ足取ったようで申し訳ないですが、一応。(指摘してしまうのは三国志ファンの悲しいサガと思って、許してくださいね)
>
>後漢書の章帝八王伝によると
>
>「熹平三年、使使拜河螳族ν・匚・捫仔邁Α∧・Э旅低・9・・∋呟峪漫・ハ遜銃麈・・找・丗噂螻押・匈・漫⇔・住闇・Å下・検・憤擔・叱堯・ラ
>
>ということで、「康」という人が済南王だったようです(それか、その子どもでしょうか)

うおおっ(汗。
わかるモンなんですねぇ。すげぇ。

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