三国志ファンのためのサポート掲示板 ※共同掲示板。話題は三国志関係。横レス歓迎。初心者モードの質問からマニアックな雑談まで
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【3841】Re:雑号将軍らの開府に及び幕僚等への俸給
 清岡美津夫 E-MAILWEB  - 2015/10/10(土) 1:28 -

引用なし
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   こんばんわ。

>Q3、将軍幕僚の俸給は誰がどこで出すのか(将軍個人であつめた人事なので自腹なのか、派遣先の辺境へいってるなら最寄の兵站所になっている太守とかが一時的に肩代わり?)
>
>Q4、Q3に続いてそもそも(官吏の)俸給一般はどこで誰がどのタイミングで渡してるのか
>
>以上です。よろしくお願いします。

Q4についてですがここでもたびたび出てくる(というか私が引いているのですが)籾山明『[#?漢帝国と辺境社会]』(中公新書 1999年)のp.122によると、前漢の辺境の下級官吏についてですが、佐原康夫「居延漢簡月俸考」(『古史春秋』5号、朋友書店1989年)を参考文献に、「まず俸給は食糧と同じく、支給を受ける側の代表が支給する機関(都尉府もしくは候官)まで出向いて受け取った。」とし、その一例として木簡の「第廿候史良、詣官受部吏奉。三月乙酉平旦入。」という文を挙げています。さらにp.123で「こうして受け取った俸銭は、袋に入れて各部へ持ち帰られた。次に引く一枚は、そうした月給袋に付けた[木曷]であろう(図25)。」とあります。

※[木曷]について書かれた文字について
--引用開始-----------------
    候史吏已取
呑遠部 呑北燧長為已取 今取三千六百
    萬年燧長已取
--引用終了-----------------

三国は漢代の制度をある程度引き継いでいますので、(特別変更の理由もなければ)今回の場合もおおむねこんなところだろうと思います。

※居延漢簡については下記サイトで検索可能
・文物圖象研究資料庫 全文檢索
http://saturn.ihp.sinica.edu.tw/~wenwu/search.htm
※関連記事
http://cte.main.jp/newsch/article.php/413


▼まりもこさん:
>知識レベルは正史に興味があってネットで調べてる程度のニワカです。
>残念ながら素人レベルでは細かいところがわからなかったので詳しい方に質問させていただきたく参りました。
>※「雑号」「将軍府」「開府」「給料」「俸禄」「俸給」らのキーワードで検索しました
>今回の質問は、後漢末の将軍府についてです。
>
>まず第一に、大将軍〜四征将軍までは開府できるとこちらにはあります。
>http://www5f.biglobe.ne.jp/~kanri01/rounk/shyumi/chu_shougun.html
>問題はその下の雑号将軍らです。
>朱然伝には偏将軍府の営下督の官に昇進とあるので、三国時代には確実に開府はされてるのですが後漢末がよくわからず困ってます。
>
>Q1, 後漢末の雑号以下の将軍らは開府できたのか?
>
>第二に開府できた場合の幕僚の人数(規模)と俸給です。
>
>上のHPによると大将軍と驍騎将軍〜四征将軍らとは規模が違いますよね。
>となると下位になると縮小される気がしますがその場合は誰が残るのでしょうか。
>
>Q2、(雑号将軍らが)開府できた場合の幕僚にいる役職は何か
>
>
>最後に将軍府の俸給についてです。(わりと基本的すぎる質問かもしれませんが)
>後漢書光武帝紀の李賢注や後漢書百官志から見るに、給料は毎月金銭(後漢末から三国はインフレしちゃうので絹と思いますが)と穀物を半分(か割合は変化したか)ずつもらっていたと思うのです。
>問題はどこで誰が渡すのかがピンとこないのです。
>
>Q3、将軍幕僚の俸給は誰がどこで出すのか(将軍個人であつめた人事なので自腹なのか、派遣先の辺境へいってるなら最寄の兵站所になっている太守とかが一時的に肩代わり?)
>
>Q4、Q3に続いてそもそも(官吏の)俸給一般はどこで誰がどのタイミングで渡してるのか
>
>以上です。よろしくお願いします。
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【3840】Re:雑号将軍らの開府に及び幕僚等への俸給
 まりもこ  - 2015/10/9(金) 23:28 -

引用なし
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   ありがとうございます!
質疑応答等を見る限り

>大將軍の属官の説明だが、員数などに拘らず任命した節があり、
>それでも一応、(左將軍は)開府していることが「從事中郎」を任命していることからわかる。
中略
>(石井先生より)おそらく「將軍」自体に開府の権限はないので、
>劉備が許昌にいたときに開府儀同三司の権限を授けられていたのか、あるいは勝手に開府したのか。

とあるので将軍の上表とは別枠で権限与えられるか自分で勝手に名乗ってって感じぽいですね。しかも人数とかも結構好き勝手しちゃってるみたいです。
開府儀同三司の権限とか知らなかったので勉強になりました!

▼清岡美津夫さん:
>はじめまして
>そこらへんのことを知るのに、正史(『後漢書』『三国志』『晋書』)にこだわるとなかなか理解が進まないような気もしますが、それはさておき、まずは詳しい方が答えやすいように、情報を共有化しておきます。
>
>・三国志学会 第四回大会ノート3
>http://cte.main.jp/newsch/article.php/1410
>
>いや単に「開府」ということで、リンク先にある質疑応答のやりとりを思い出しましたので。
>それを読む限り雑号将軍だけだと「開府儀同三司の権限」は持ってないないかと。
>ただ呉の場合は、って尋ねられると私は即答できませんので、やはり他の方の意見を大人しく待ちます。
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【3839】Re:雑号将軍らの開府に及び幕僚等への俸給
紹介  清岡美津夫 E-MAIL  - 2015/10/9(金) 0:42 -

引用なし
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   はじめまして
そこらへんのことを知るのに、正史(『後漢書』『三国志』『晋書』)にこだわるとなかなか理解が進まないような気もしますが、それはさておき、まずは詳しい方が答えやすいように、情報を共有化しておきます。

・三国志学会 第四回大会ノート3
http://cte.main.jp/newsch/article.php/1410

いや単に「開府」ということで、リンク先にある質疑応答のやりとりを思い出しましたので。
それを読む限り雑号将軍だけだと「開府儀同三司の権限」は持ってないないかと。
ただ呉の場合は、って尋ねられると私は即答できませんので、やはり他の方の意見を大人しく待ちます。

▼まりもこさん:
>知識レベルは正史に興味があってネットで調べてる程度のニワカです。
>残念ながら素人レベルでは細かいところがわからなかったので詳しい方に質問させていただきたく参りました。
>※「雑号」「将軍府」「開府」「給料」「俸禄」「俸給」らのキーワードで検索しました
>今回の質問は、後漢末の将軍府についてです。
>
>まず第一に、大将軍〜四征将軍までは開府できるとこちらにはあります。
>http://www5f.biglobe.ne.jp/~kanri01/rounk/shyumi/chu_shougun.html
>問題はその下の雑号将軍らです。
>朱然伝には偏将軍府の営下督の官に昇進とあるので、三国時代には確実に開府はされてるのですが後漢末がよくわからず困ってます。
>
>Q1, 後漢末の雑号以下の将軍らは開府できたのか?
>
>第二に開府できた場合の幕僚の人数(規模)と俸給です。
>
>上のHPによると大将軍と驍騎将軍〜四征将軍らとは規模が違いますよね。
>となると下位になると縮小される気がしますがその場合は誰が残るのでしょうか。
>
>Q2、(雑号将軍らが)開府できた場合の幕僚にいる役職は何か
>
>
>最後に将軍府の俸給についてです。(わりと基本的すぎる質問かもしれませんが)
>後漢書光武帝紀の李賢注や後漢書百官志から見るに、給料は毎月金銭(後漢末から三国はインフレしちゃうので絹と思いますが)と穀物を半分(か割合は変化したか)ずつもらっていたと思うのです。
>問題はどこで誰が渡すのかがピンとこないのです。
>
>Q3、将軍幕僚の俸給は誰がどこで出すのか(将軍個人であつめた人事なので自腹なのか、派遣先の辺境へいってるなら最寄の兵站所になっている太守とかが一時的に肩代わり?)
>
>Q4、Q3に続いてそもそも(官吏の)俸給一般はどこで誰がどのタイミングで渡してるのか
>
>以上です。よろしくお願いします。
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【3838】雑号将軍らの開府に及び幕僚等への俸給
教えて  まりもこ  - 2015/10/9(金) 0:00 -

引用なし
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   知識レベルは正史に興味があってネットで調べてる程度のニワカです。
残念ながら素人レベルでは細かいところがわからなかったので詳しい方に質問させていただきたく参りました。
※「雑号」「将軍府」「開府」「給料」「俸禄」「俸給」らのキーワードで検索しました
今回の質問は、後漢末の将軍府についてです。

まず第一に、大将軍〜四征将軍までは開府できるとこちらにはあります。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~kanri01/rounk/shyumi/chu_shougun.html
問題はその下の雑号将軍らです。
朱然伝には偏将軍府の営下督の官に昇進とあるので、三国時代には確実に開府はされてるのですが後漢末がよくわからず困ってます。

Q1, 後漢末の雑号以下の将軍らは開府できたのか?

第二に開府できた場合の幕僚の人数(規模)と俸給です。

上のHPによると大将軍と驍騎将軍〜四征将軍らとは規模が違いますよね。
となると下位になると縮小される気がしますがその場合は誰が残るのでしょうか。

Q2、(雑号将軍らが)開府できた場合の幕僚にいる役職は何か


最後に将軍府の俸給についてです。(わりと基本的すぎる質問かもしれませんが)
後漢書光武帝紀の李賢注や後漢書百官志から見るに、給料は毎月金銭(後漢末から三国はインフレしちゃうので絹と思いますが)と穀物を半分(か割合は変化したか)ずつもらっていたと思うのです。
問題はどこで誰が渡すのかがピンとこないのです。

Q3、将軍幕僚の俸給は誰がどこで出すのか(将軍個人であつめた人事なので自腹なのか、派遣先の辺境へいってるなら最寄の兵站所になっている太守とかが一時的に肩代わり?)

Q4、Q3に続いてそもそも(官吏の)俸給一般はどこで誰がどのタイミングで渡してるのか

以上です。よろしくお願いします。
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【3837】隔週刊 三国志DVD&データファイル創刊
紹介  清岡美津夫 E-MAIL  - 2015/10/5(月) 19:11 -

引用なし
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   検索対策なんですが(そして検索で来る人はここまで注意が向かずおそらく気づかれないでしょうが)、下記の記事に誘導しておきます。講談社の分冊百科です。

隔週刊 三国志DVD&データファイル(隔週木曜日2015年10月1日-)
http://cte.main.jp/newsch/article.php/3504
・ツリー全体表示
<sage>

【3836】三国志学会 第十回大会 2015年9月5日、1...
紹介  清岡美津夫 E-MAILWEB  - 2015/7/31(金) 7:21 -

引用なし
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   たびたびここの掲示板でも触れられる[#?三国志学会]ですが、その第十回 京都大会と東京講演会(2015年9月5日、12日土曜日)のプログラムが公式サイトで発表されていましたので、下記に引用し紹介しておきますね。
 例年と違い、東京講演会の方は二松学舎大学ではなく早稲田大学ですのでご注意を。京劇が上演されるのが特長で、多くの一般の方々がいらっしゃるかもしれませんね。

・三国志学会
http://sangokushi.gakkaisv.org/

※上記の三国志学会のサイトの「大会ご案内」のページからプログラム等を下記へ引用。

━引用開始━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
三国志学会 第十回 京都大会
日時:2015年9月5日(土)
場所:龍谷大学 大宮学舎 東黌103教室
http://www.ryukoku.ac.jp/omiya.html

参加費:500円(入会された方は無料です)

三国志学会年会費:2,000円
入会をご希望の方は事務局からのお知らせをご覧ください。
当日、入会することもできます。

 プログラム
○ 狩野直禎会長挨拶(10:00〜10:10)

○ 報告(10:10〜12:00)

 並木淳哉(駒澤大学大学院修士課程修了)
 「党錮事件と三公九卿」

 柿沼陽平(帝京大学講師)
 「曹魏と西晋の土地と税制」

○ お昼休み(12:00〜13:00)

○ 報告(13:00〜16:00)

 伊藤晋太郎(二松学舎大学准教授)
 「関帝の肖像について」

 渡邉義浩(早稲田大学教授)
 「曹魏の異民族政策」

 牧角悦子(二松学舎大学教授)
 「曹操と楽府−「新詩」「新声」の語をめぐって」

○ 講演(16:30〜18:00)

 沈伯俊(四川省社会科学院)
 「最も愛される武将――『三国志演義』の趙雲像」

○ 懇親会 (18:00〜20:00)

 三国志学会 東京講演会
日時:2015年9月12日(土)
会場:早稲田大学戸山キャンパス33号館第一会議室
(本キャンパスとは別です)
http://flas.waseda.jp/flas/access/

 プログラム
○ 講演(13:00〜14:00)

 岡崎由美(早稲田大学文学学術院教授)
 「三国志と演劇」

○ 京劇実演(14:30〜16:00)34号館452教室

 張春祥(新潮劇院)「蘆花蕩」

○ 講演(16:30〜18:00)

 沈伯俊(四川省社会科学院)
 「明君か? 梟雄か?――『三国志演義』の劉備像」

○ 懇親会(18:00〜20:00)
━引用終了━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
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【3835】Re:なぜ曹操は渡河を試みたのか(赤壁)
 MK  - 2015/6/30(火) 19:41 -

引用なし
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   >2つ目は、早く渡河をしてしまわないと、対岸の防御力を高められてしまい、ますます渡河しづらくなってしまうから。劉備軍と孫権軍の結びつきが強まる前に、という考えもあったのかなと考えます。

そういう考えはあったと思います。実際江陵への急行は成功しました。
又、年齢による焦りもあったと思います。


「武帝紀」には、
公は赤壁に到着し、劉備と戦ったが負けいくさとなった。そのとき疫病が大流行し、官吏士卒の多数が死んだ。そこで軍をひきあげて帰還した。
と簡潔に記されているのみです。

演義の派手なストーリーはハ陽湖の戦い(朱元璋vs陳友諒)がモデルだと言われています。
赤壁の戦いは実際にはさほど規模が大きくなかったと思います。

荊州は7つの郡:南陽郡、南郡、江夏郡、未開発の南方4郡からなっておりましたが、
劉表亡き後の荊州争奪戦の一環として赤壁の戦いを捉えるのが宜しいかと思われます。
荊州には戦乱を避けて避難していたよそからの移住者と、地元出身者との間で意識の違いがありました。
魏は、劉砲鮃濾「気札献腑Ε茱シ襪抜楚綢亟澆瑠莨襪鮖拉曚靴泙后」
文聘の士官により、最大の人口を有する南陽郡の住民を安堵させました。
地元の豪族にとってはそもそも劉表自身(エン州山陽郡出身)がよそからの移住者で、良く統治してくれる為政者なら誰でも抵抗はありません。

但し、曹操は徐州での大虐殺で評判を落とし、魯粛、糜竺、諸葛亮をはじめとする徐州出身者に限っては無条件に敵視されています。
徐州出身者と、劉キを支持していた勢力は劉備を支援します。
劉キと関羽は漢水系の水軍を編成して要衝 夏口に向かうことに成功します。
劉備、趙雲、張飛、諸葛亮らは江陵へ向かい、守備兵と長江系の水軍を傘下に収めようと試みますが、
曹操軍の軽装騎兵が急行し、道中蹴散らされ失敗します。
(もし曹操が急がなければ、劉備軍は江陵を拠点にできたはずでした。)

曹操はさらに夏口の南東に位置する、銅貨幣などの生産地である湖北省銅緑山を支配下にする事を欲します。
そのためには長江を渡らなければなりません。

賈ク伝には、
今はまだ危ないが、数年、農産に励んで軍備の増強に努めさえすれば、
そのときにはもう、軍を出すまでもなく、向こうのほうから降伏して来ざるを得ないだろうと進言したことが記されています。
(参考までに、曹操は屯田制度を確立し、兵糧を安定的に生産する体制が優れていました。)

賈&#35425;は客観的に正確な状況を把握する能力に優れているので、
たとえ疫病が蔓延しなくても、曹操にとってそもそも不利な情勢だったのでしょう。

江陵確保に失敗しこれから荊州南部を経営して勢力を充実させたい劉備勢力にとって、
長江南部まで進出され、貨幣生産地まで奪われるのは致命的です。

恐らく曹操自身が長江を渡る戦いを指揮したと思われますが、負けて撤退しました。ただ、さほどの大軍は投入していなかったと思いますし、
疫病が流行さえしなければ、複数の路から侵攻する作戦を立てられたでしょう。
また、余り長く都を空けておくと反乱等が生じるという事情もあったかもしれません。留守を任せられる器量に一番すぐれた息子が死んでいます。

疫病が大流行した船は、人を載せるには使えないのでひとまとめに隔離されたでしょう。その中には官吏士卒の重病人が放置されたかもしれません。
焼かれるがままになったことでしょう。
また、南郡、江夏郡北部の住民で飢え死にしたものも多かったでしょうから、
赤壁の戦い後には相当数の遺体が散乱した凄惨な状況になったことでしょう。


▼R・Fさん:
>▼酒井さん:
>
>浅学ではありますが、個人的な所見を述べさせていただきます。
>
>
>一言で云うと、曹操は勝ちすぎて引き時を誤った、と言うことではないでしょうか。
>
>本来、208年に始まった遠征は、対劉表への装備であって、孫呉向きではありません。玄武池の水練も、水上戦闘の為ではなく、南に撤退する劉表軍を船で速やかに追撃、あるいは渡河するためのものであろうと、私は考えています。
>
>後知恵かもしれませんが、酒井さんの云われる通り、一旦引いて孫呉への圧力を掛けながら、軍を孫呉向けの装備で再編してから、再度南下するのが正解であったかもしれません。
>実際、同じことを賈クが進言しています。それ以前にも同じような戦力比であった官渡の戦いの前に、袁紹の参謀である田豊が同様に持久戦を進言しています。云わば、曹操は袁紹と同じ轍を踏んだわけです。
>
>では。曹操はなぜ袁紹と同じ轍を踏んだのか。ここからは私の持論ですが、理由は二人とも同じで、何年も待つだけの時間的な猶予がなかったからでしょう。この時、曹操は54歳です。当時天命を知ると言われる50歳を越えています。確かに曹操は66歳まで生きて、60歳を過ぎても戦場に出ていましたが、それは結果論です。数年後、自分は生きていられるのか、健康で居られるか、その場合に自分同様に大軍を指揮できる有能な将軍は居るのか、そいつの能力と人格は本当に信頼できるのか、と言うのは切実な問題であったでしょう。
>
>良く「赤壁の戦い」は曹操の驕りであった、と云われます。私は「驕り」ではなく「焦り」であったと考えています。数か月、場合によっては何年も続くかもしれないと考えていた劉表との戦いが、降伏によりあっけなく終結。蜀の劉璋も帰順の使者を寄越してきた。残るは、張魯、馬超のタカの知れた群小軍閥のみ。孫呉を屈服させれば、念願の天下の制覇は成る。出征前は、劉表を片づけても、劉璋、孫呉、張魯、馬超と10年単位の時間が掛かると考えていたのが、突然天下が目の前に転がってきた。「なまじゴールが見えて来たので、焦った」というのが、私の推測です。
>後に、張魯を下した曹操は、配下にこのまま蜀攻めをしないかと進言されるのですが、軍は蜀攻めを想定していない為、また赤壁と違って蜀を攻略できても天下制覇が成るわけではないので、曹操は拙速な博打を避けて、あっさり撤退しています。
>
>まぁ、一概にこの「赤壁」での判断が間違いであったとは言えないわけです。
>疫病が流行るには、幾つかの条件があります。風土、兵の疲労、衛生面の問題です。孫呉が相手である限り、風土は避けられず、遠征している限り疲労は蓄積されます。大軍が駐屯して衛生面が悪化すれば(具体的には、兵の排泄物がその地の浄化能力の限界を越えるという意味です。現代でも大震災後に必ず出てくるトイレの衛生問題です)病は拡大する一方です。
>これを収めるには、大軍である遠征軍を一旦撤退させるしかありません。そうなると、軍の再編や再遠征の準備には年単位の時間が必要になります。当然、相手にも準備期間を与えることになります。
>孫呉戦の装備は不足していても、降伏したばかりの荊州兵の戦意は当てにならなくとも、河を渡って橋頭堡を確保。位攻め(圧倒的な兵力差)で相手を圧倒して、屈服させれば、と考えるのはあながち間違いとは言えないわけです。
>
>やや時間はかかるが確実な勝利を選ぶか、やや博打ではあるが短期決戦を選ぶか。残り時間との兼ね合いで、曹操は後者を選び、そして博打に敗れた、ということではないでしょうか。
>
>>こんにちは。久々に投稿させていただきます。
>>
>>とても基本的な質問で恐縮ですが、皆様の考えをお聞かせいただければと思います。
>>
>>荊州が曹操の手に渡った後、呉を制圧せんとする曹操軍は長江の渡河を試み烏林に集結します。
>>結果として孫権・劉備軍に撃退され、荊州も手放さざるを得なくなってしまったわけですが、ここでひとつ疑問があります。
>>
>>当時、曹操軍内では疫病が流行っていたといいます。また、渡河するタイミングで強力な水軍を擁する呉軍に叩かれることは容易に想像がつきます。
>>よって、荊州にて疫病が鎮まるのを待ち、渡河をする際に呉軍と渡り合える水軍を調練し、軍を整えてから渡河しても良かったんじゃないかと思います。
>>なぜ曹操は、荊州奪取直後の渡河を試みたのでしょうか。
>>
>>個人的には以下の理由があったのかなと思います。
>>1つは、呉の水軍と対峙しても勝てる自信があったこと(疫病の蔓延を差し引いても)。根拠は兵士の多さと荊州の水軍を手中に収めていたことです。
>>2つ目は、早く渡河をしてしまわないと、対岸の防御力を高められてしまい、ますます渡河しづらくなってしまうから。劉備軍と孫権軍の結びつきが強まる前に、という考えもあったのかなと考えます。
>>曹操としては、北方地域の反乱も当時は懸念事項だったと思います。荊州の周辺から劉備・孫権軍の影響を一掃し、さっさと荊州の守りを盤石して帰りたかったということも考えられる気がします。
>>
>>
>>と、どれも妄想の域を出ないのですが、皆様はどのようにお考えになりますか。
>>疑問の答えとなる定説があったら申し訳ないです。
>>
>>
>>曹操軍が渡河しようとせず荊州に留まったとしても、孫権と劉備にとっては大きな脅威なわけで、結果論ですが赤壁とは別に動いていた孫権の合肥組は退散しているわけですから、そうやって「出てきたところを叩く」戦法で圧力を与えつつ外交で孫権を降参させることだってできたんじゃないか、と思ってしまいます。。
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【3834】Re:『三國志 周瑜傳』出版
 蒼井悠人  - 2015/6/20(土) 17:18 -

引用なし
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   iOS端末對應になりました。
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【3833】『三國志 周瑜傳』出版
 蒼井悠人 WEB  - 2015/6/16(火) 18:32 -

引用なし
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   先日『三國志 周瑜傳』を出版致しました。

しかしながら、誠に申し譯ないのですが、現在iOS端末(iPhone・iPad)には對應してをりません。いま原因を調査していただいてゐるところです。

ただし、Kindle、PC、Mac、もしくはAndroid端末をお持ちの方はアプリを入手してもらへれば、購入して讀んでいただくことができると思ひます。詳しくは下記商品ページにてご確認ください。

それではどうぞよろしくお願ひ致します。

『三國志 周瑜傳』(投稿エラーを防ぐためにURLは切り離してゐます)

http://www.amazon.co.jp/%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%BF%97%E3%80%80%E5%91%A8%E7%9

1%9C%E4%BC%9D-%E8%92%BC%E4%BA%95%E6%82%A0%E4%BA%BA-

ebook/dp/B00ZO5LQW2/ref=sr_1_1?s=digital-text&ie=UTF8&qid=1434446417&sr=1-1
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【3832】8月の計画
 清岡美津夫 WEB  - 2015/5/20(水) 0:13 -

引用なし
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   こんばんわ

今のところ、

8月1日土曜日 8/1北九州 兀突骨で酒池肉林?!
http://cte.main.jp/kanpetit/20150801/kprof.cgi

8月8日土曜日 横浜中華街関帝廟 関帝誕に行くプチオフ会

8月15日土曜日 京都の古書市でブックハンティングプチオフ会

となります。

▼清岡美津夫さん:
>こんばんわ。
>
>[#3798]
>↑ここで書きましたように、昨年「関プチ5 全国ツアー」を企画し、
>今年も同様のプチオフ会企画を進めます。
>ここを総合ツリーとしますね。
>
>http://cte.main.jp/kanpetit/
>↑総合ページはこちらになります。
>個々のプチオフ会の案はここに情報をあげていきますが、それら以外の三国志ネタをからめたプチオフ会のネタがありましたら、ここで返信にて教えて下さると幸いです。
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【3831】関プチ2015
話題提供  清岡美津夫 WEB  - 2015/5/20(水) 0:03 -

引用なし
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   こんばんわ。

[#3798]
↑ここで書きましたように、昨年「関プチ5 全国ツアー」を企画し、
今年も同様のプチオフ会企画を進めます。
ここを総合ツリーとしますね。

http://cte.main.jp/kanpetit/
↑総合ページはこちらになります。
個々のプチオフ会の案はここに情報をあげていきますが、それら以外の三国志ネタをからめたプチオフ会のネタがありましたら、ここで返信にて教えて下さると幸いです。
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【3830】Re:なぜ曹操は渡河を試みたのか(赤壁)
多分…  R・F  - 2015/5/12(火) 0:18 -

引用なし
パスワード
   ▼酒井さん:

浅学ではありますが、個人的な所見を述べさせていただきます。


一言で云うと、曹操は勝ちすぎて引き時を誤った、と言うことではないでしょうか。

本来、208年に始まった遠征は、対劉表への装備であって、孫呉向きではありません。玄武池の水練も、水上戦闘の為ではなく、南に撤退する劉表軍を船で速やかに追撃、あるいは渡河するためのものであろうと、私は考えています。

後知恵かもしれませんが、酒井さんの云われる通り、一旦引いて孫呉への圧力を掛けながら、軍を孫呉向けの装備で再編してから、再度南下するのが正解であったかもしれません。
実際、同じことを賈クが進言しています。それ以前にも同じような戦力比であった官渡の戦いの前に、袁紹の参謀である田豊が同様に持久戦を進言しています。云わば、曹操は袁紹と同じ轍を踏んだわけです。

では。曹操はなぜ袁紹と同じ轍を踏んだのか。ここからは私の持論ですが、理由は二人とも同じで、何年も待つだけの時間的な猶予がなかったからでしょう。この時、曹操は54歳です。当時天命を知ると言われる50歳を越えています。確かに曹操は66歳まで生きて、60歳を過ぎても戦場に出ていましたが、それは結果論です。数年後、自分は生きていられるのか、健康で居られるか、その場合に自分同様に大軍を指揮できる有能な将軍は居るのか、そいつの能力と人格は本当に信頼できるのか、と言うのは切実な問題であったでしょう。

良く「赤壁の戦い」は曹操の驕りであった、と云われます。私は「驕り」ではなく「焦り」であったと考えています。数か月、場合によっては何年も続くかもしれないと考えていた劉表との戦いが、降伏によりあっけなく終結。蜀の劉璋も帰順の使者を寄越してきた。残るは、張魯、馬超のタカの知れた群小軍閥のみ。孫呉を屈服させれば、念願の天下の制覇は成る。出征前は、劉表を片づけても、劉璋、孫呉、張魯、馬超と10年単位の時間が掛かると考えていたのが、突然天下が目の前に転がってきた。「なまじゴールが見えて来たので、焦った」というのが、私の推測です。
後に、張魯を下した曹操は、配下にこのまま蜀攻めをしないかと進言されるのですが、軍は蜀攻めを想定していない為、また赤壁と違って蜀を攻略できても天下制覇が成るわけではないので、曹操は拙速な博打を避けて、あっさり撤退しています。

まぁ、一概にこの「赤壁」での判断が間違いであったとは言えないわけです。
疫病が流行るには、幾つかの条件があります。風土、兵の疲労、衛生面の問題です。孫呉が相手である限り、風土は避けられず、遠征している限り疲労は蓄積されます。大軍が駐屯して衛生面が悪化すれば(具体的には、兵の排泄物がその地の浄化能力の限界を越えるという意味です。現代でも大震災後に必ず出てくるトイレの衛生問題です)病は拡大する一方です。
これを収めるには、大軍である遠征軍を一旦撤退させるしかありません。そうなると、軍の再編や再遠征の準備には年単位の時間が必要になります。当然、相手にも準備期間を与えることになります。
孫呉戦の装備は不足していても、降伏したばかりの荊州兵の戦意は当てにならなくとも、河を渡って橋頭堡を確保。位攻め(圧倒的な兵力差)で相手を圧倒して、屈服させれば、と考えるのはあながち間違いとは言えないわけです。

やや時間はかかるが確実な勝利を選ぶか、やや博打ではあるが短期決戦を選ぶか。残り時間との兼ね合いで、曹操は後者を選び、そして博打に敗れた、ということではないでしょうか。

>こんにちは。久々に投稿させていただきます。
>
>とても基本的な質問で恐縮ですが、皆様の考えをお聞かせいただければと思います。
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>荊州が曹操の手に渡った後、呉を制圧せんとする曹操軍は長江の渡河を試み烏林に集結します。
>結果として孫権・劉備軍に撃退され、荊州も手放さざるを得なくなってしまったわけですが、ここでひとつ疑問があります。
>
>当時、曹操軍内では疫病が流行っていたといいます。また、渡河するタイミングで強力な水軍を擁する呉軍に叩かれることは容易に想像がつきます。
>よって、荊州にて疫病が鎮まるのを待ち、渡河をする際に呉軍と渡り合える水軍を調練し、軍を整えてから渡河しても良かったんじゃないかと思います。
>なぜ曹操は、荊州奪取直後の渡河を試みたのでしょうか。
>
>個人的には以下の理由があったのかなと思います。
>1つは、呉の水軍と対峙しても勝てる自信があったこと(疫病の蔓延を差し引いても)。根拠は兵士の多さと荊州の水軍を手中に収めていたことです。
>2つ目は、早く渡河をしてしまわないと、対岸の防御力を高められてしまい、ますます渡河しづらくなってしまうから。劉備軍と孫権軍の結びつきが強まる前に、という考えもあったのかなと考えます。
>曹操としては、北方地域の反乱も当時は懸念事項だったと思います。荊州の周辺から劉備・孫権軍の影響を一掃し、さっさと荊州の守りを盤石して帰りたかったということも考えられる気がします。
>
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>と、どれも妄想の域を出ないのですが、皆様はどのようにお考えになりますか。
>疑問の答えとなる定説があったら申し訳ないです。
>
>
>曹操軍が渡河しようとせず荊州に留まったとしても、孫権と劉備にとっては大きな脅威なわけで、結果論ですが赤壁とは別に動いていた孫権の合肥組は退散しているわけですから、そうやって「出てきたところを叩く」戦法で圧力を与えつつ外交で孫権を降参させることだってできたんじゃないか、と思ってしまいます。。
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【3829】なぜ曹操は渡河を試みたのか(赤壁)
 酒井  - 2015/4/4(土) 8:36 -

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   こんにちは。久々に投稿させていただきます。

とても基本的な質問で恐縮ですが、皆様の考えをお聞かせいただければと思います。

荊州が曹操の手に渡った後、呉を制圧せんとする曹操軍は長江の渡河を試み烏林に集結します。
結果として孫権・劉備軍に撃退され、荊州も手放さざるを得なくなってしまったわけですが、ここでひとつ疑問があります。

当時、曹操軍内では疫病が流行っていたといいます。また、渡河するタイミングで強力な水軍を擁する呉軍に叩かれることは容易に想像がつきます。
よって、荊州にて疫病が鎮まるのを待ち、渡河をする際に呉軍と渡り合える水軍を調練し、軍を整えてから渡河しても良かったんじゃないかと思います。
なぜ曹操は、荊州奪取直後の渡河を試みたのでしょうか。

個人的には以下の理由があったのかなと思います。
1つは、呉の水軍と対峙しても勝てる自信があったこと(疫病の蔓延を差し引いても)。根拠は兵士の多さと荊州の水軍を手中に収めていたことです。
2つ目は、早く渡河をしてしまわないと、対岸の防御力を高められてしまい、ますます渡河しづらくなってしまうから。劉備軍と孫権軍の結びつきが強まる前に、という考えもあったのかなと考えます。
曹操としては、北方地域の反乱も当時は懸念事項だったと思います。荊州の周辺から劉備・孫権軍の影響を一掃し、さっさと荊州の守りを盤石して帰りたかったということも考えられる気がします。


と、どれも妄想の域を出ないのですが、皆様はどのようにお考えになりますか。
疑問の答えとなる定説があったら申し訳ないです。


曹操軍が渡河しようとせず荊州に留まったとしても、孫権と劉備にとっては大きな脅威なわけで、結果論ですが赤壁とは別に動いていた孫権の合肥組は退散しているわけですから、そうやって「出てきたところを叩く」戦法で圧力を与えつつ外交で孫権を降参させることだってできたんじゃないか、と思ってしまいます。。
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【3828】三国志を題材にした演劇公演のご紹介です
 サンケイホールブリーゼ E-MAIL  - 2014/12/27(土) 17:48 -

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   管理者様

初めて投稿いたします。不適切でしたら削除お願いいたします。

私は大阪の劇場「サンケイホールブリーゼ」の大光(だいこう)と申します。このたび三国志を題材にした演劇公演を上演することになり、ぜひご紹介させていただけないでしょうか。

舞台「リインカーネーション・リバイバル」

2012年に西田大輔が描くオリジナル三国志として、アーティスト米倉利紀に加え、舞台「戦国BASARA」シリーズの中村誠治郎・広瀬友祐ら人気俳優を迎え東京で上演。翌13年には再演及び、次作「リバース」で二ヶ月連続公演を果たし追加公演含め全ステージ完売しました。“長坂の戦い”(リインカーネーション)、“赤壁の戦い”(リインカーネーション・リバース)を、シリーズタイトルの「転生」をテーマにファンタジックな要素を加えて描いた新感覚三国志です。今作品「リインカーネーション・リバイバル」では三国志時代の幕開けとなる“黄巾の乱”を描く。シリーズの“始まり”を紐解く物語となっています。

2015年1月10日(土)18:30
       11日(日)13:00・18:30
サンケイホールブリーゼ(大阪市北区梅田2−4−9)
指定席7,500円(税込)

ご予約・お問い合わせ
ブリーゼチケットセンター 06−6341−8888(11〜18時)

公演HPは http://officeendless.com/sp/revi/
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【3827】Re:魏晋の役人(獄吏)について質問です
感謝♪  ろこ  - 2014/10/9(木) 3:46 -

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   ▼清岡美津夫さん:
はじめまして。返信が遅くなってしまって申し訳ありません。
最近ここにこなかったもので…;;

オフ会お疲れ様です&情報ありがとうございました!
さっそく辿ってみます。出典元も探してみますね。
最近再び調べ始めたところでしたので、とても参考になりました。

ありがとうございました!
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【3826】Re:魏晋の役人(獄吏)について質問です
紹介  清岡美津夫 WEB  - 2014/9/16(火) 1:06 -

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   [#T3797]

昨日、上記のオフ会でここのツリーについてR・Fさんと話していて思い出したのですが、
直接的な答えでないにしろ、下記のツリーが参考になるかと思います。

[#T1359]

出典が明記されているため、自力で裏をとったり辿ったりしやすいですので。
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【3825】最強三国志ゲーム降臨!!
 ばんたけ  - 2014/9/9(火) 9:37 -

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   凄すぎる三国志ゲームアプリが出ました!!その名も【三国魂(ソウル)】グラフィックがチョー綺麗です!無課金でもメッチャ遊べます!ゲームスタート時に招待コード(303021J)を入力するとイイモノもらえます!https://itunes.apple.com/jp/app/san-guo-hun-wu-liao-ben-ge/id875222431?mt=8
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【3824】Re:大興寺以外に行きたい京都の三国志名所...
追記  清岡美津夫 WEB  - 2014/9/5(金) 20:32 -

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   ▼清岡美津夫さん:
>>また南座のある京都・四条駅から徒歩10〜15分のところに「三国志」という中華料理屋がありますので、もし南座に行くのであれば、昼食はこちらで摂るのはいかがでしょうか。
>>http://tabelog.com/kyoto/A2601/A260301/26021964/
>
>それも候補の一つでしたが、私自身、行ったことがないため、三国ネタがどの程度かわからず、ネットで見た感じでは宇治の四川麻婆豆腐・坦々麺専門店「三国志」より少なそうですかね。少人数でのオフ会の時に改めて行きたいと思いました。

USHISUKEさんからのタレコミ情報によると残念ながら同じ中華料理店で「和福順」という店名になっていたそうです(汗)
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【3823】Re:大興寺以外に行きたい京都の三国志名所...
感謝♪  清岡美津夫 WEB  - 2014/9/5(金) 7:11 -

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   ▼教団さん:
>こんにちは、歌舞伎十八番の「羽子板」について南座に問い合わせました。
>
>サイトに「劇場入口を入って右手に展示している」とありますが、劇場自体に入る段階で料金(観劇代)が発生してしまうため、残念ながらそれを無料で見るのは無理とのことでした。
>
>候補としては外れてしまいますね…

こんにちわ、問い合わせていただいてありがとうございます!
結果はみれなくて残念ですが、その分、時間に余裕ができそうでランチを楽しみましょう。
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【3822】Re:大興寺以外に行きたい京都の三国志名所...
 教団 E-MAIL  - 2014/9/4(木) 14:32 -

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   こんにちは、歌舞伎十八番の「羽子板」について南座に問い合わせました。

サイトに「劇場入口を入って右手に展示している」とありますが、劇場自体に入る段階で料金(観劇代)が発生してしまうため、残念ながらそれを無料で見るのは無理とのことでした。

候補としては外れてしまいますね…
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