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▼スズキさん:
>>193年の彭城での大会戦で死者数万単位にのぼり、流れがせき止められたという記述があります。
>>恐らく陳寿はこれの事を書きたかったのではないかと思うのです。
>
>
>上の記述は、どこに載ってますか?
>『後漢書』陶謙伝ですか?
>『三国志』陶謙伝ですか?
>あるいは、他の伝や資料ですか? 魏志武帝紀ではないようですが…。
>
三国志『陶謙伝』からの抜粋です
>あと、陳琳の檄文というのは、三国志の董二袁劉伝『袁紹伝』の注釈である、
>「魏氏春秋載紹檄州郡文曰」で始まり、「此陳琳之辞」で終わっている箇所の事ですか?
そうです三国志の『袁紹伝』なかの『魏氏春秋』からです。
>a、陳琳の檄文の信憑性を問うた上で、
>b、当時の価値観的に、虐殺はどう評価されるのか、
>
>仮に虐殺OKなら、虐殺があっても檄文に載せる意味がなくなり、私のスレの疑問は解決されませんが、虐殺は許されないなら、「檄文に書いてない」=「なかった」と推量する事が可能で、私の疑問は解決します。
>
>いずれにしても、当時の価値観を知る手がかりがあれば、私の疑問解決は進展しそうですが…。
>
1年ずれているのではないかという思いに行き当たったのは
三国志『陶謙伝』の中にある
193年の彭城の大会戦の記事だけではないんです。
一番わかりやすのいので書きましたが、その他の記述から見ても193年の方が妥当だろうという結論に至ったからです。
1つ目には徐州侵攻期間です
最初の時は秋から翌年の春までの侵攻です。
翌春まで短くて4ヶ月(足掛けだと5ヶ月)、最長で9ヶ月の長期的侵攻という点が1つあります。
翌年の夏の徐州侵攻は夏に侵攻していますが、下手したら夏の間に呂布が反旗を翻している可能性があるのです。
秋には濮陽に呂布が移動しています。
これらの事を見ても194年の徐州侵攻期間があまりにも短期間ですぎて大虐殺は容易なことではないと思うのが1つ
2つ目には彭城の大会戦のことをより詳しく書いている箇所ですが、三国志『荀仕繊戮里覆Cヒ2箇所あります。(こっちの方が本命ですw)
1部抜粋でかきますと
『陶謙が死んでしまったとはいえ、徐州は簡単には滅ぼせません。向うは、先年の敗戦に懲りておりますから、恐れおののいて誰かと同盟し、内外相呼応して当りましょう。将軍がコレを攻撃しても攻め落とせず、略奪しようにも収穫がなければ、十日もたたないうちに、10万の軍勢は戦いをまじえる前に、自分が苦しむ事になりますぞ。 先の徐州討伐の際、厳格な処分を実施されておりますから罰されたものの子弟や父兄の恥辱を思い、必ず各人自分から守りにつき、降伏する気持ちなど持たないでありましょう。 例えコレを撃破したとしても保持し続けることは不可能ですぞ』
というくだりがあります
この文章の少しあとにスズキさんが気になっている部分の大虐殺の記事『曹瞞伝』というのがあります。
曹操伝では194年のことになっている大虐殺の記事も、荀仕舛任マ193年の記事になっており、それを補う形で裴松之が入れている『曹瞞伝』の記事も彭城の大会戦のこととして虐殺の記事を書いています。
このことから1年ずれている可能性が高いと見ています。
スズキさんからすれば『魏氏春秋』も『曹瞞伝』も信憑性の問題があるかもしれませんが、逆に考えれば魏に属してないから何所何所に攻め込んだとかも場所を明記出来るのではないでしょうか…どんな記事でも取捨選択するのは我々読み手ですがね。
あと、上記の記事でも大虐殺に対する価値観は反感と抵抗を招く事として容認できる問題ではないと捉えることが出来ます。
また、『郭嘉伝』の中の孫策に対する文章として『孫策は江東を併呑して、英雄豪傑を多く殺しました。これらの者は部下に死力を尽くさせる者たちでした。それなのに孫策は軽く考えて警戒していません。たとえ百万の軍勢を持っていたとしても野原の中を一人で行くのと変わりありません。もし刺客が襲ったならばたった一人で充分相手になれましょう。私の観察に寄れば、必ず匹夫の勇にかかって死ぬでしょう』
というくだりがあります。
こちらは大虐殺ではないですが、それでも、食客や子弟などに恨みを買うという事を指摘しています。
こんなお答えでよろしいでしょうか???
長い文章は打つのがめんどくさいなー
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