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【3355】徐州大量虐殺と三国志のスタンス スズキ 2009/2/22(日) 16:18 教えて

【3369】Re:荀イクの諫言について むじん 2009/3/7(土) 14:04
┗ 【3370】疑問点の現状整理 スズキ 2009/3/7(土) 19:23 感謝♪
┗ 【3372】Re:疑問点の現状整理 むじん 2009/3/8(日) 18:37
┗ 【3375】Re:疑問点の現状整理 スズキ 2009/3/8(日) 22:05

【3369】Re:荀イクの諫言について
 むじん WEB  - 2009/3/7(土) 14:04 -

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   こんにちは。

流れをさらっと追っていただけなんですが、本題とは離れたところで、ちょっと気になる点がありましたので、ここで申しますが、あまり時系列にこだわると本質を見誤るといいますか、いつまで経っても核心に近づくことができないと思うんですね。ここで着目すべきは虐殺が行われた日付ではなくて「場所」です。

『後漢書』陶謙伝
>初平4年、曹操は陶謙を攻撃して彭城と傅陽を陥落させた。陶謙が撤退してタンに立てこもり、曹操はそれを攻撃しても勝てなかったので引きあげた。道すがら取慮、スイ陵、夏丘をすべて滅ぼした。およそ男女数十万人が殺され、鶏や犬で生きのこるものはなく、泗水はそのために流れをとめた。それ以来、5県の城砦では人影が絶えてしまった。

『三国志』陶謙伝
>初平4年、太祖は陶謙を征討して10あまりの城を陥落させ、彭城まで進軍して大会戦を行った。陶謙軍が敗走して万単位の死者を出し、泗水はそのために流れをとめた。太祖は食糧が欠乏したため軍隊を引きあげた。

上記のとおり虐殺現場となったのは明らかに彭城とその周辺です(『後漢書』が5県と言っているのは彭城、傅陽、取慮、スイ陵、夏丘を指している)。曹操がこの地方に攻めこんだのは初平4年であり、それは「武帝紀」とも一致しています。つまり「武帝紀」が殺戮の記述を興平1年に挿入していることを除けば、諸書の記述は日付も含めてまったく一致しているので、それをことさらに疑う必要はないのです。

『建康実録』という編年史料がありまして、この史料では延康1年と黄初1年を別の年として記述しているんですね(延康1年の途中で禅譲改元があっただけで同じ年を指している)。なので、それ以降『建康実録』の記録はすべて1年づつずれてしまっています(また『後漢紀』という編年史料でも袁術の称帝を建安3年とし以降1年づつずれている)。それでも、そのくらいの年代のずれでは史料内で互いの記述に矛盾は発生しないんです。しかし、場所のずれとなればそうはいかない。虐殺のあった場所ではなかったとされ、なかった場所であったとされれば、なにより現地の人からそれはおかしいと指摘されるでしょう。

核心に近いところに立っていても、アプローチの仕方があまりうまくいってなくて、同じところをぐるぐる回っているように見えましたので、ひとこと申しあげる次第です。


また、曹操による大量虐殺の例として、官渡の戦いの戦後処理において袁軍兵士を穴埋めにした史実が挙げられると思います。こちらは捕虜の虐殺であり被害対象は異なりますが、わたしは徐州における事件とセットで考えていくべきだと思っています。

【3370】疑問点の現状整理
感謝♪  スズキ  - 2009/3/7(土) 19:23 -

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   むじんさん

問題を整理していただいてありがとうざいます。


>ここで着目すべきは虐殺が行われた日付ではなくて「場所」です。

>虐殺現場となったのは明らかに彭城とその周辺です(『後漢書』が5県と言っているのは彭城、傅陽、取慮、スイ陵、夏丘を指している)。曹操がこの地方に攻めこんだのは初平4年であり、それは「武帝紀」とも一致しています。つまり「武帝紀」が殺戮の記述を興平1年に挿入していることを除けば、諸書の記述は日付も含めてまったく一致しているので、それをことさらに疑う必要はないのです。
>
>『建康実録』という編年史料がありまして、この史料では延康1年と黄初1年を別の年として記述しているんですね(延康1年の途中で禅譲改元があっただけで同じ年を指している)。なので、それ以降『建康実録』の記録はすべて1年づつずれてしまっています(また『後漢紀』という編年史料でも袁術の称帝を建安3年とし以降1年づつずれている)。それでも、そのくらいの年代のずれでは史料内で互いの記述に矛盾は発生しないんです。しかし、場所のずれとなればそうはいかない。虐殺のあった場所ではなかったとされ、なかった場所であったとされれば、なにより現地の人からそれはおかしいと指摘されるでしょう。
>


彭城やその周辺での虐殺については、私も異論ありません。また、改元があったりすると、1年ズレたりする事がよくあるので、「年」でアプローチするよりは、「場所」という観点で考えた方がよさそうだって事ですね。確かにそっちの方が混乱も少なそうですね。


で、以上を踏まえた上で、私が以前質問した三点の現状を整理しますと…


1、「所過多所残戮」の文意はどういう意味でしょうか?
→ほぼ解決。

むしろ彭城やその周辺の虐殺の方をつめた方が良さそう、という事でこの質問自体、あまり意味がなくなってきました。また、これらの文字だけでは(真相はともかくとして)、民衆虐殺を意味すると判断できないので、そういう意味でも解決といえます。他の箇所では、対象が「男女」や「民」と断定してあったり、「董卓の乱の流民」を匂わす記述があると比較して、「所過多所残戮」は文字自体からしても民衆を含んだ表現とはいえないですし。


2、魏武帝紀以外に、大量虐殺の根拠となりそうな典拠は他にありますか?
→三国志や後漢書にいくつかあり。ある程度解決したものと思われる。

対象を民衆と断定していないが、大量虐殺に関連する箇所の記述あり
・三国志武帝紀本文
・三国志陶謙伝本文
・三国志荀イク伝本文
・後漢書荀イク伝本文(注釈にもそれらしき記述がない模様)

対象を民衆と断定している
・三国志武帝紀注釈(孫盛曰:「夫伐罪弔民…」)
・三国志陶謙伝注釈(呉書曰:「…多殺人民…」)
・三国志荀イク伝注釈(曹マン伝云「…坑殺男女数万口於泗水…」)
・後漢書陶謙伝本文(「…凡殺男女数十万人,鶏犬無余,泗水為之不流…」)

このほかに典拠はどれくらいあるのかは、よくわかりませんが、ひとまず上に挙げた典拠については、もう少し時間をかけて信憑性を考えていかないといけなそうですね。そうすれば、対象を判断できるかもしれません。


3、晋朝や陳寿はどういう風に三国志をどういう風に描こうとしていたか?
→解決不能?

私自身がこんな質問しておいて、ナンですが、解決不能かもしれません。私は割と陳寿は事実重視かなって思ったりするんですが、荀イクの孔融との袁紹陣営評価の箇所にあるように、多少の修正はあるんじゃないかなって思っています。もしかしたら、徐州における大量虐殺も何らかの修正がかかっているのか、と思い質問でのですが、今のところ解決不能です。虐殺の価値観について、目覚ましい進展があれば、突破口の一つになりうるかもしれませんが…。


いずれにしても、ペテン師さん、ノブナガさん、むじんさんが貴重なお時間を割いてご意見をいただいたおかげで、私にはなかった視点が加わったので、非常に感謝しております。


>また、曹操による大量虐殺の例として、官渡の戦いの戦後処理において袁軍兵士を穴埋めにした史実が挙げられると思います。こちらは捕虜の虐殺であり被害対象は異なりますが、わたしは徐州における事件とセットで考えていくべきだと思っています


官渡の件と徐州の件をセットで考えるとは、今までになかった視点がありそうな感じですね。

お手数をおかけして申し訳ないのですが、もしよろしければ、
むじんさんのご意見をうかがってもよろしいでしょうか?

【3372】Re:疑問点の現状整理
 むじん WEB  - 2009/3/8(日) 18:37 -

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   こんにちは。

>3、晋朝や陳寿はどういう風に三国志をどういう風に描こうとしていたか?
>→解決不能?
>
>私自身がこんな質問しておいて、ナンですが、解決不能かもしれません。私は割と陳寿は事実重視かなって思ったりするんですが、荀イクの孔融との袁紹陣営評価の箇所にあるように、多少の修正はあるんじゃないかなって思っています。もしかしたら、徐州における大量虐殺も何らかの修正がかかっているのか、と思い質問でのですが、今のところ解決不能です。虐殺の価値観について、目覚ましい進展があれば、突破口の一つになりうるかもしれませんが…。

このあたりのことは、陳寿その人がどういう志向を持っていたかと考えるよりも、陳寿が依拠した先行史料がどのような性質のものであったかを想像した方がよい結果になりそうな気がします。もっともそのような史料はほとんど現存してないので、裴注などで断片的に伝わっているものから推測を重ねるしかないのですが、たとえば王沈の『魏書』だけを裴注から抽出して、それだけを通して読む。次に魚豢の『魏略』だけを読む。そうしていくと、陳寿の本文を見ても「ここは『魏書』を使ってるな、こっちは『魏略』だな」という具合に、確定はできないまでも雰囲気としてはかなりつかめてきます。

趙翼は「『三国志』には遠慮が多い」と批判していますが、わたしの感触としてはむしろ、晋の目を意識してないな、という印象が強くあります。もちろん高貴郷公の敗死などは曖昧にぼかされてはいますが、そこまで深刻でないものに関しては、意外にあっさりと書かれているものもあります。

>官渡の件と徐州の件をセットで考えるとは、今までになかった視点がありそうな感じですね。
>
>お手数をおかけして申し訳ないのですが、もしよろしければ、
>むじんさんのご意見をうかがってもよろしいでしょうか?

わたし自身が、もし曹操の大量殺戮を議題にするとすればセットで考えていくべきだろうな、と漠然と思っているまでで、まだ核心めいたことまでつかんでいるわけではないのですが、たとえば徐州事件では、陶謙を包囲して食糧欠乏のため引きあげる途中(攻めのぼる途中でもそうでしたが)で事件が起こされていますし、いっぽう官渡の戦いでも食糧欠乏に苦しみぬいた末の逆転勝利のさなかで起こっています。どちらも食糧欠乏という共通のキーワードが挿入されているので、もしかしたらそのような状況が事件のトリガーになっているのではないかなと想像しております。

といっても、人を殺してその肉を食ったとかいう話ではなく、徐州の場合は「鶏や犬がいなくなった」との記述もありますが、民間から食糧調達(つまり略奪)する過程で、民間人の抵抗に遭うなどした結果、そのはずみで全軍規模の虐殺事件が起こしてしまったのではないか、などと想像しているんです。

また、官渡の事件についても、最終的に数千人まで追い詰められ、それでも食糧を欠いていた曹軍が、数万人規模の袁軍捕虜を給養できず、始末に困ったあげく殺してしまったのではないか、という気がしています。

いずれも裏付けのない想像の段階ですが、ほかの事件との類推からそのように思っているわけです。しかし、これを曹操個人の資質だとか、あるいは古代中国人の民族性だとか、そういう視点であれこれ詮索してしまうと、それ以上に雲をつかむような話になり、ちょっとつまらないと申しますか、あまり本質的でないところで袋小路に迷いこんでしまいそうな感じがします。

【3375】Re:疑問点の現状整理
 スズキ  - 2009/3/8(日) 22:05 -

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   むじんさん

迅速なレスポンス、ありがとうございます。


>>3、晋朝や陳寿はどういう風に三国志をどういう風に描こうとしていたか?
>>→解決不能?
>
>このあたりのことは、陳寿その人がどういう志向を持っていたかと考えるよりも、陳寿が依拠した先行史料がどのような性質のものであったかを想像した方がよい結果になりそうな気がします。もっともそのような史料はほとんど現存してないので、裴注などで断片的に伝わっているものから推測を重ねるしかないのですが、たとえば王沈の『魏書』だけを裴注から抽出して、それだけを通して読む。次に魚豢の『魏略』だけを読む。そうしていくと、陳寿の本文を見ても「ここは『魏書』を使ってるな、こっちは『魏略』だな」という具合に、確定はできないまでも雰囲気としてはかなりつかめてきます。
>
>趙翼は「『三国志』には遠慮が多い」と批判していますが、わたしの感触としてはむしろ、晋の目を意識してないな、という印象が強くあります。もちろん高貴郷公の敗死などは曖昧にぼかされてはいますが、そこまで深刻でないものに関しては、意外にあっさりと書かれているものもあります。


なるほど、『魏書』や『魏略』に関する話、大変興味深いですね。
一つ一つ見て、そこから雰囲気や傾向のような類いが導きだせればよさそうですね。裏付けのない想像ですが、曹操が打倒した勢力は悪くかかれる。一方、魏を極端には誉めてない、というぐらいに考えています。その想像に固執しすぎず、虚心になって、一つ一つ見ていこうと思います。


>
>わたし自身が、もし曹操の大量殺戮を議題にするとすればセットで考えていくべきだろうな、と漠然と思っているまでで、まだ核心めいたことまでつかんでいるわけではないのですが、たとえば徐州事件では、陶謙を包囲して食糧欠乏のため引きあげる途中(攻めのぼる途中でもそうでしたが)で事件が起こされていますし、いっぽう官渡の戦いでも食糧欠乏に苦しみぬいた末の逆転勝利のさなかで起こっています。どちらも食糧欠乏という共通のキーワードが挿入されているので、もしかしたらそのような状況が事件のトリガーになっているのではないかなと想像しております。
>
>といっても、人を殺してその肉を食ったとかいう話ではなく、徐州の場合は「鶏や犬がいなくなった」との記述もありますが、民間から食糧調達(つまり略奪)する過程で、民間人の抵抗に遭うなどした結果、そのはずみで全軍規模の虐殺事件が起こしてしまったのではないか、などと想像しているんです。
>
>また、官渡の事件についても、最終的に数千人まで追い詰められ、それでも食糧を欠いていた曹軍が、数万人規模の袁軍捕虜を給養できず、始末に困ったあげく殺してしまったのではないか、という気がしています。


食糧というキーワードですね。
この時代、飢えや兵糧の欠乏の話題はいくつもありましたからね、ウェイトはどの程度かはわかりませんが、食糧問題の影響は必ずあったでしょうね。勿論私も立証できません…。


>いずれも裏付けのない想像の段階ですが、ほかの事件との類推からそのように思っているわけです。しかし、これを曹操個人の資質だとか、あるいは古代中国人の民族性だとか、そういう視点であれこれ詮索してしまうと、それ以上に雲をつかむような話になり、ちょっとつまらないと申しますか、あまり本質的でないところで袋小路に迷いこんでしまいそうな感じがします。


ごもっともです。
端的に示せないもの、形に現れないもの、あやふやなもので判断するのはダメですね。容易い事ではありませんが、行動ベースや現象ベース、事実ベースで突き詰めれればな、と考えています。そう考えると、陳寿のスタンスを聞いたのも、聞き方がまずかったかもしれません。


むじんさん、
いろんな角度からご意見いただいて、本当にありがとうございます。

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