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こんにちは。
流れをさらっと追っていただけなんですが、本題とは離れたところで、ちょっと気になる点がありましたので、ここで申しますが、あまり時系列にこだわると本質を見誤るといいますか、いつまで経っても核心に近づくことができないと思うんですね。ここで着目すべきは虐殺が行われた日付ではなくて「場所」です。
『後漢書』陶謙伝
>初平4年、曹操は陶謙を攻撃して彭城と傅陽を陥落させた。陶謙が撤退してタンに立てこもり、曹操はそれを攻撃しても勝てなかったので引きあげた。道すがら取慮、スイ陵、夏丘をすべて滅ぼした。およそ男女数十万人が殺され、鶏や犬で生きのこるものはなく、泗水はそのために流れをとめた。それ以来、5県の城砦では人影が絶えてしまった。
『三国志』陶謙伝
>初平4年、太祖は陶謙を征討して10あまりの城を陥落させ、彭城まで進軍して大会戦を行った。陶謙軍が敗走して万単位の死者を出し、泗水はそのために流れをとめた。太祖は食糧が欠乏したため軍隊を引きあげた。
上記のとおり虐殺現場となったのは明らかに彭城とその周辺です(『後漢書』が5県と言っているのは彭城、傅陽、取慮、スイ陵、夏丘を指している)。曹操がこの地方に攻めこんだのは初平4年であり、それは「武帝紀」とも一致しています。つまり「武帝紀」が殺戮の記述を興平1年に挿入していることを除けば、諸書の記述は日付も含めてまったく一致しているので、それをことさらに疑う必要はないのです。
『建康実録』という編年史料がありまして、この史料では延康1年と黄初1年を別の年として記述しているんですね(延康1年の途中で禅譲改元があっただけで同じ年を指している)。なので、それ以降『建康実録』の記録はすべて1年づつずれてしまっています(また『後漢紀』という編年史料でも袁術の称帝を建安3年とし以降1年づつずれている)。それでも、そのくらいの年代のずれでは史料内で互いの記述に矛盾は発生しないんです。しかし、場所のずれとなればそうはいかない。虐殺のあった場所ではなかったとされ、なかった場所であったとされれば、なにより現地の人からそれはおかしいと指摘されるでしょう。
核心に近いところに立っていても、アプローチの仕方があまりうまくいってなくて、同じところをぐるぐる回っているように見えましたので、ひとこと申しあげる次第です。
また、曹操による大量虐殺の例として、官渡の戦いの戦後処理において袁軍兵士を穴埋めにした史実が挙げられると思います。こちらは捕虜の虐殺であり被害対象は異なりますが、わたしは徐州における事件とセットで考えていくべきだと思っています。
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