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誰も書かないので浅学者ペテが個人的な考えを入れながらちびっとかいときます
このまま下げてしまうにはあまりに惜しいですw
個人的考えですが、徐州の大虐殺はあったんだと思います。
但し、ボクは陳寿が書くときに1年ずれているのではないかと思っていたりします。
つまり、この194年の大虐殺は193年の彭城の大会戦をさしているのではないかという事です。
193年の彭城での大会戦で死者数万単位にのぼり、流れがせき止められたという記述があります。
恐らく陳寿はこれの事を書きたかったのではないかと思うのです。
※民衆を虐殺ではなく、193年の大会戦での激戦を制したというのを誇張した結果がこの『大量虐殺』というイメージに直結したかったのではないかと思います
しかし、個人的にはコノ大会戦は曹操の力ではなく、袁紹陣営の力だと思っています。
というのも、武帝紀や陶謙伝には『陶謙の陣営を10余城攻め落とした』という記述はあるのですが、魏の武将を見ていると、一体どの城を落としたのかということもわからなければ、この時参加して各城を陥落さして大金星を挙げて官爵を貰った人間が曹操陣営からは1人もいないのです。(記憶間違いでなければ…)
個人的には袁紹主導の戦いで曹操は陥落後の事後処理や後方支援程度の後詰程度の事しかしてなかったのではないかと思います。
また、他の所で見てみると陳琳の檄文でも、武帝紀では2回徐州に攻め込んでいるハズが、檄文では194年の呂布・張邈らの反旗の事には触れていても前年の徐州大会戦の事には一切触れていません。
これが、曹操主導であれば、泗水の流れをせき止めるぐらいの大虐殺を陳琳が檄文に書かないでいるわけありません。
袁紹陣営として曹操を悪し様に書こうとしているはずの檄文の中でコレだけ外すというのもおかしな話ではないでしょうか
以上をもちまして
徐州の大虐殺についてへっぽこペテン師の個人的な見解を終わります
自分の所で考えて書いたりはしてるけど、ここでは思いっきり割愛して、小出し気味にw
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