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【3355】徐州大量虐殺と三国志のスタンス スズキ 2009/2/22(日) 16:18 教えて

【3361】Re:陳寿の記述… スズキ 2009/3/1(日) 17:39
┗ 【3363】Re:陳寿の記述… ペテン師 2009/3/2(月) 1:20 追記
┣ 【3364】上の書き込みの文字化け部分 ペテン師 2009/3/2(月) 1:29
┗ 【3367】荀イクの諫言について スズキ 2009/3/6(金) 22:42 雑談
┣ 【3368】文字化け箇所訂正 スズキ 2009/3/6(金) 22:56 追記
┣ 【3369】Re:荀イクの諫言について むじん 2009/3/7(土) 14:04
┃┗ 【3370】疑問点の現状整理 スズキ 2009/3/7(土) 19:23 感謝♪
┃┗ 【3372】Re:疑問点の現状整理 むじん 2009/3/8(日) 18:37
┃┗ 【3375】Re:疑問点の現状整理 スズキ 2009/3/8(日) 22:05
┗ 【3371】Re:荀イクの諫言について ペテン師 2009/3/8(日) 13:03 ひと言
┗ 【3373】Re:荀イクの諫言について スズキ 2009/3/8(日) 21:18 感謝♪
┗ 【3374】文字化け箇所訂正 スズキ 2009/3/8(日) 21:31

【3361】Re:陳寿の記述…
 スズキ  - 2009/3/1(日) 17:39 -

引用なし
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   ▼ペテン師さん:

返信ありがとうございます。


>自分の所で考えて書いたりはしてるけど、ここでは思いっきり割愛して、小出し気味にw

ペテン師さんの考えはどちらに書いていらっしゃいますか?
そちらを見てみていない段階で、1年ずれたという仮説を
私が一方的にどうこういうのは、フェアではない気がしますので(笑)。ただ、見ていない段階での考えも、とりあえず載せないと、話が進まなさそうですので、下に書きます(冷や汗)。


>但し、ボクは陳寿が書くときに1年ずれているのではないかと思っていたりします。
>つまり、この194年の大虐殺は193年の彭城の大会戦をさしているのではないかという事です。


なるほど、二回ある徐州遠征の中身を陳寿は混同していた、という事ですね。
また、「所過多所残戮」は、民衆ではない可能性があると。
そして、それを前提にすると、陳寿や晋王朝にとって特別修正を加えたい箇所でもない、
文字通り「所過多所残戮」を載せればいい、という判断ですね。

確かにその前提があっているなら、筋が通りますね。
陳寿とて人間ですからね、単に勘違いによって、混同していた可能性すらありえますね。

それを支える根拠として、193年と194年の二回の遠征があった点、
そして、陳琳の檄文で虐殺については触れていない事を挙げていますね。


ただ、前提である1年ずれた事の根拠については、若干しっくりこないですね。別に、「所過多所残戮」は、1年ずれてなくても、問題なさそうですし。ただ単に194年の戦果を言いたかっただけ、それでも通りそうだからです。


あと、すいませんが、質問をしていいですか?


>193年の彭城での大会戦で死者数万単位にのぼり、流れがせき止められたという記述があります。
>恐らく陳寿はこれの事を書きたかったのではないかと思うのです。


上の記述は、どこに載ってますか? 
『後漢書』陶謙伝ですか?
『三国志』陶謙伝ですか?
あるいは、他の伝や資料ですか? 魏志武帝紀ではないようですが…。

他に193年の徐州遠征について、武帝紀以上に詳しく書かれた箇所があれば、内容いかんによっては、1年ずれた根拠としてしっくりいく可能性がありますし、逆もありえます。


>また、他の所で見てみると陳琳の檄文でも、武帝紀では2回徐州に攻め込んでいるハズが、檄文では194年の呂布・張邈らの反旗の事には触れていても前年の徐州大会戦の事には一切触れていません。

>これが、曹操主導であれば、泗水の流れをせき止めるぐらいの大虐殺を陳琳が檄文に書かないでいるわけありません。


あと、陳琳の檄文というのは、三国志の董二袁劉伝『袁紹伝』の注釈である、
「魏氏春秋載紹檄州郡文曰」で始まり、「此陳琳之辞」で終わっている箇所の事ですか?

魏氏春秋は確か孫盛著のヤツですよね?孫盛の書の信憑性があるのか、ないのかよくわかりませんよね。人物の悪評を言う時は何か信用できそうですが(笑)。

ただ、陳琳の檄文というのはおもしろいアプローチですね。

a、陳琳の檄文の信憑性を問うた上で、
b、当時の価値観的に、虐殺はどう評価されるのか、

仮に虐殺OKなら、虐殺があっても檄文に載せる意味がなくなり、私のスレの疑問は解決されませんが、虐殺は許されないなら、「檄文に書いてない」=「なかった」と推量する事が可能で、私の疑問は解決します。

いずれにしても、当時の価値観を知る手がかりがあれば、私の疑問解決は進展しそうですが…。


それと、ちょっと話の本題とずれそうですが、下記の箇所についてもちょっとだけ。

>
>しかし、個人的にはコノ大会戦は曹操の力ではなく、袁紹陣営の力だと思っています。
>というのも、武帝紀や陶謙伝には『陶謙の陣営を10余城攻め落とした』という記述はあるのですが、魏の武将を見ていると、一体どの城を落としたのかということもわからなければ、この時参加して各城を陥落さして大金星を挙げて官爵を貰った人間が曹操陣営からは1人もいないのです。(記憶間違いでなければ…)


おっしゃる通りだと思います。

徐晃伝に、「朱霊が袁紹の援軍として曹操に与力し、袁紹の他の将軍は帰還したが、朱霊だけはそのまま曹操に従った」という風な記述があったと思います。つまり、朱霊が袁紹の援軍として派遣された事、朱霊以外にも、袁紹から派遣された軍があったような記述がありますから、徐州征討戦において、袁紹がかなり力をかした事は明白です。

これは憶測の域を脱しませんが、徐州遠征は、袁紹の部下の誰か(仮に沮授とする)が総大将で、曹操は朱霊などとほぼ同格の一軍の将として、陶謙と戦ったのかもしれませんね。更にひどい憶測ですが、張郃とかもいたかもしれませんね。


ペテン師さんの考えを見ていない段階では、こんな感じでしょうか。

【3363】Re:陳寿の記述…
追記  ペテン師  - 2009/3/2(月) 1:20 -

引用なし
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   ▼スズキさん:


>>193年の彭城での大会戦で死者数万単位にのぼり、流れがせき止められたという記述があります。
>>恐らく陳寿はこれの事を書きたかったのではないかと思うのです。
>
>
>上の記述は、どこに載ってますか? 
>『後漢書』陶謙伝ですか?
>『三国志』陶謙伝ですか?
>あるいは、他の伝や資料ですか? 魏志武帝紀ではないようですが…。
>


三国志『陶謙伝』からの抜粋です


>あと、陳琳の檄文というのは、三国志の董二袁劉伝『袁紹伝』の注釈である、
>「魏氏春秋載紹檄州郡文曰」で始まり、「此陳琳之辞」で終わっている箇所の事ですか?


そうです三国志の『袁紹伝』なかの『魏氏春秋』からです。


>a、陳琳の檄文の信憑性を問うた上で、
>b、当時の価値観的に、虐殺はどう評価されるのか、
>
>仮に虐殺OKなら、虐殺があっても檄文に載せる意味がなくなり、私のスレの疑問は解決されませんが、虐殺は許されないなら、「檄文に書いてない」=「なかった」と推量する事が可能で、私の疑問は解決します。
>
>いずれにしても、当時の価値観を知る手がかりがあれば、私の疑問解決は進展しそうですが…。
>


1年ずれているのではないかという思いに行き当たったのは


三国志『陶謙伝』の中にある
193年の彭城の大会戦の記事だけではないんです。
一番わかりやすのいので書きましたが、その他の記述から見ても193年の方が妥当だろうという結論に至ったからです。


1つ目には徐州侵攻期間です
最初の時は秋から翌年の春までの侵攻です。
翌春まで短くて4ヶ月(足掛けだと5ヶ月)、最長で9ヶ月の長期的侵攻という点が1つあります。


翌年の夏の徐州侵攻は夏に侵攻していますが、下手したら夏の間に呂布が反旗を翻している可能性があるのです。
秋には濮陽に呂布が移動しています。


これらの事を見ても194年の徐州侵攻期間があまりにも短期間ですぎて大虐殺は容易なことではないと思うのが1つ


2つ目には彭城の大会戦のことをより詳しく書いている箇所ですが、三国志『荀仕繊戮里覆Cヒ2箇所あります。(こっちの方が本命ですw)

1部抜粋でかきますと
『陶謙が死んでしまったとはいえ、徐州は簡単には滅ぼせません。向うは、先年の敗戦に懲りておりますから、恐れおののいて誰かと同盟し、内外相呼応して当りましょう。将軍がコレを攻撃しても攻め落とせず、略奪しようにも収穫がなければ、十日もたたないうちに、10万の軍勢は戦いをまじえる前に、自分が苦しむ事になりますぞ。 先の徐州討伐の際、厳格な処分を実施されておりますから罰されたものの子弟や父兄の恥辱を思い、必ず各人自分から守りにつき、降伏する気持ちなど持たないでありましょう。 例えコレを撃破したとしても保持し続けることは不可能ですぞ』


というくだりがあります

この文章の少しあとにスズキさんが気になっている部分の大虐殺の記事『曹瞞伝』というのがあります。

曹操伝では194年のことになっている大虐殺の記事も、荀仕舛任マ193年の記事になっており、それを補う形で裴松之が入れている『曹瞞伝』の記事も彭城の大会戦のこととして虐殺の記事を書いています。

このことから1年ずれている可能性が高いと見ています。


スズキさんからすれば『魏氏春秋』も『曹瞞伝』も信憑性の問題があるかもしれませんが、逆に考えれば魏に属してないから何所何所に攻め込んだとかも場所を明記出来るのではないでしょうか…どんな記事でも取捨選択するのは我々読み手ですがね。


あと、上記の記事でも大虐殺に対する価値観は反感と抵抗を招く事として容認できる問題ではないと捉えることが出来ます。

また、『郭嘉伝』の中の孫策に対する文章として『孫策は江東を併呑して、英雄豪傑を多く殺しました。これらの者は部下に死力を尽くさせる者たちでした。それなのに孫策は軽く考えて警戒していません。たとえ百万の軍勢を持っていたとしても野原の中を一人で行くのと変わりありません。もし刺客が襲ったならばたった一人で充分相手になれましょう。私の観察に寄れば、必ず匹夫の勇にかかって死ぬでしょう』
というくだりがあります。

こちらは大虐殺ではないですが、それでも、食客や子弟などに恨みを買うという事を指摘しています。


こんなお答えでよろしいでしょうか???

長い文章は打つのがめんどくさいなー

【3364】上の書き込みの文字化け部分
 ペテン師  - 2009/3/2(月) 1:29 -

引用なし
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   文字化けしているのは『荀イク伝』のことです。

念のために


あまり突っ込まないでねw


それにしてもボクみたいな書き込みでスズキさんの考察に進展があるのでしょうかね〜?
なんか惑わすだけのような気もする…ごめんなさいねー

先謝っときます(泣)

【3367】荀イクの諫言について
雑談  スズキ  - 2009/3/6(金) 22:42 -

引用なし
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   ペテン師さん

丁寧に答えていただいて、本当にありがとうございます。
荀イク伝の荀イクの諫言から「徐州大量殺戮」の時期を導きだすというのは、興味深いですね。


遠征の年数割り出しに関してだけ触れさせてください。
年数割り出しと私の疑問点は関係ないかもしれませんが…。


>1年ずれているのではないかという思いに行き当たったのは
>193年の彭城の大会戦の記事だけではないんです。

>1つ目には徐州侵攻期間です

>2つ目には彭城の大会戦のことをより詳しく書いている箇所ですが、1部抜粋でかきますと
>『陶謙が死んでしまったとはいえ、徐州は簡単には滅ぼせません。向うは、先年の敗戦に懲りておりますから、恐れおののいて誰かと同盟し、内外相呼応して当りましょう。将軍がコレを攻撃しても攻め落とせず、略奪しようにも収穫がなければ、十日もたたないうちに、10万の軍勢は戦いをまじえる前に、自分が苦しむ事になりますぞ。 先の徐州討伐の際、厳格な処分を実施されておりますから罰されたものの子弟や父兄の恥辱を思い、必ず各人自分から守りにつき、降伏する気持ちなど持たないでありましょう。 例えコレを撃破したとしても保持し続けることは不可能ですぞ』
>


これを見て、なるほどなーと思っいました。
そのあと、ふと武帝紀やら荀イク伝を見ていたら、
気になったところがあったので、以下に抜粋します。


○武帝紀本文より(本文に載っている順)
本初四年
「秋、陶謙征討、十余城陥落」

興平元年
「春、太祖徐州より帰還」、「夏、再び陶謙征討、五城陥落」、
「襄賁攻略。通過した地域では多数の者を虐殺した」、
「太祖帰還。呂布と戦い青州兵が崩される」、
「再び呂布と戦い、百余日対峙し両軍引き揚げる」、
「秋九月太祖帰還」、「冬十月太祖東阿へ」、「この年の飢饉の記述と陶謙死」、

興平二年
「春、定陶襲撃」、「夏、李封・薛蘭撃破」、「定陶陥落」、「八月、雍丘包囲」


○荀イク伝本文より(本文に載っている順)
初平二年
「袁紹の下を去る」

初平三年
「太祖の司馬として随行」
(明年、太祖領兗州牧、後為鎮東將軍、讃鎔併頁v呂箸△襪里如⊇虔浸闇C販狄筺ヒ

初平四年
*荀イク伝には記載事項なし

興平元年
「太祖陶謙遠征」

興平二年
「飢饉の記述」
の順に記載されている。その次の記載が荀擦鈴欷世任△襦」

<荀イクの諫言>
「李封・薛蘭撃破」、「呂布・陳宮がまだ健在」、「陶謙の死」、
「陶謙の先の敗北」、「前の討伐で厳格な処罰をした」と諫言に記載がある。

そして、諫言後の本文は、
「太祖は麦を取り込んだ」、「呂布を敗走させた」、「兗州を平定した」とある。

そして注釈として、
「男女数万人を泗水に投げて殺害」、「取慮・スイ陵・夏丘の諸県を攻撃」、
「鶏や犬まで絶えた」、「荒れ果てた村里に通りかかる人もいなかった」
と続き、そのあとの本文は「建安元年」という始まり方をしている。


これらから察するに、荀イクの発言の時期は興平二年だと予想されます。
興平2年といえば、195年のはずなので(暦は正直、自信なし…)、
諫言内の内容は194年を指す可能性があります。
ただ、原文ではそれぞれ、「往年之敗」、「前討徐州」
という表現をしているので、1年前とは限りませんが…。


基本的にペテン師さんに考え方は間違えではないと考えていますが、
荀イク伝の文脈からは、194年を指す可能性も同様に高いように思えるのです。
というのも、荀イク伝では、初平四年の徐州遠征には触れていない
(初平三年の後、いきなり興平元年の遠征の記述になっている)からです。
となると興平元年の事を言っているとも取れます。


と、194年に大量虐殺があったと思っている人の代弁をしてみる…。
反論というより、こういう風に考える人もいるんじゃないか、
というぐらいの雑談以上の他意はなので、あまり気にしないでください。
暦とか、あるいはもっと基本的なところで間違いがあったら、
恐れ入りますが、ツッコミをお願いいたします。

【3368】文字化け箇所訂正
追記  スズキ  - 2009/3/6(金) 22:56 -

引用なし
パスワード
   引き続きすみません。
漢字が文字化けしていしまったようですので、訂正いたします。


>初平三年
>「太祖の司馬として随行」
>(明年、太祖領兗州牧、後為鎮東將軍、讃鎔併頁�呂箸△襪里如⊇虔浸闇�販狄筺ヒ
>

三行目の括弧内を以下のように訂正します

明年、太祖領兗州牧、後為鎮東將軍、讃鎔併頁�呂箸△襪里如⊇虔浸闇�販狄筺ヒ(×)
明年、太祖領エン州牧、後為鎮東将軍、イク常以司馬従、と本文にあるので、初平三年と類推(○)


>興平二年
>「飢饉の記述」
>の順に記載されている。その次の記載が荀擦鈴欷世任△襦」
>

ここも三行目を以下のように訂正します

の順に記載されている。その次の記載が荀擦鈴欷世任△襦」(×)
の順に記載されている。その次の記載が荀イクの諫言です(○)


>そして、諫言後の本文は、
>「太祖は麦を取り込んだ」、「呂布を敗走させた」、「兗州を平定した」とある。
>

ここの二行目を以下のように訂正します

「太祖は麦を取り込んだ」、「呂布を敗走させた」、「兗州を平定した」とある(×)
「太祖は麦を取り込んだ」、「呂布を敗走させた」、「エン州を平定した」とある(○)


訂正箇所は以上です。荀イクの諱の「イク」、エン州の「エン」、が文字化けした模様です。


お騒がせしてすみませんでした。

【3369】Re:荀イクの諫言について
 むじん WEB  - 2009/3/7(土) 14:04 -

引用なし
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   こんにちは。

流れをさらっと追っていただけなんですが、本題とは離れたところで、ちょっと気になる点がありましたので、ここで申しますが、あまり時系列にこだわると本質を見誤るといいますか、いつまで経っても核心に近づくことができないと思うんですね。ここで着目すべきは虐殺が行われた日付ではなくて「場所」です。

『後漢書』陶謙伝
>初平4年、曹操は陶謙を攻撃して彭城と傅陽を陥落させた。陶謙が撤退してタンに立てこもり、曹操はそれを攻撃しても勝てなかったので引きあげた。道すがら取慮、スイ陵、夏丘をすべて滅ぼした。およそ男女数十万人が殺され、鶏や犬で生きのこるものはなく、泗水はそのために流れをとめた。それ以来、5県の城砦では人影が絶えてしまった。

『三国志』陶謙伝
>初平4年、太祖は陶謙を征討して10あまりの城を陥落させ、彭城まで進軍して大会戦を行った。陶謙軍が敗走して万単位の死者を出し、泗水はそのために流れをとめた。太祖は食糧が欠乏したため軍隊を引きあげた。

上記のとおり虐殺現場となったのは明らかに彭城とその周辺です(『後漢書』が5県と言っているのは彭城、傅陽、取慮、スイ陵、夏丘を指している)。曹操がこの地方に攻めこんだのは初平4年であり、それは「武帝紀」とも一致しています。つまり「武帝紀」が殺戮の記述を興平1年に挿入していることを除けば、諸書の記述は日付も含めてまったく一致しているので、それをことさらに疑う必要はないのです。

『建康実録』という編年史料がありまして、この史料では延康1年と黄初1年を別の年として記述しているんですね(延康1年の途中で禅譲改元があっただけで同じ年を指している)。なので、それ以降『建康実録』の記録はすべて1年づつずれてしまっています(また『後漢紀』という編年史料でも袁術の称帝を建安3年とし以降1年づつずれている)。それでも、そのくらいの年代のずれでは史料内で互いの記述に矛盾は発生しないんです。しかし、場所のずれとなればそうはいかない。虐殺のあった場所ではなかったとされ、なかった場所であったとされれば、なにより現地の人からそれはおかしいと指摘されるでしょう。

核心に近いところに立っていても、アプローチの仕方があまりうまくいってなくて、同じところをぐるぐる回っているように見えましたので、ひとこと申しあげる次第です。


また、曹操による大量虐殺の例として、官渡の戦いの戦後処理において袁軍兵士を穴埋めにした史実が挙げられると思います。こちらは捕虜の虐殺であり被害対象は異なりますが、わたしは徐州における事件とセットで考えていくべきだと思っています。

【3370】疑問点の現状整理
感謝♪  スズキ  - 2009/3/7(土) 19:23 -

引用なし
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   むじんさん

問題を整理していただいてありがとうざいます。


>ここで着目すべきは虐殺が行われた日付ではなくて「場所」です。

>虐殺現場となったのは明らかに彭城とその周辺です(『後漢書』が5県と言っているのは彭城、傅陽、取慮、スイ陵、夏丘を指している)。曹操がこの地方に攻めこんだのは初平4年であり、それは「武帝紀」とも一致しています。つまり「武帝紀」が殺戮の記述を興平1年に挿入していることを除けば、諸書の記述は日付も含めてまったく一致しているので、それをことさらに疑う必要はないのです。
>
>『建康実録』という編年史料がありまして、この史料では延康1年と黄初1年を別の年として記述しているんですね(延康1年の途中で禅譲改元があっただけで同じ年を指している)。なので、それ以降『建康実録』の記録はすべて1年づつずれてしまっています(また『後漢紀』という編年史料でも袁術の称帝を建安3年とし以降1年づつずれている)。それでも、そのくらいの年代のずれでは史料内で互いの記述に矛盾は発生しないんです。しかし、場所のずれとなればそうはいかない。虐殺のあった場所ではなかったとされ、なかった場所であったとされれば、なにより現地の人からそれはおかしいと指摘されるでしょう。
>


彭城やその周辺での虐殺については、私も異論ありません。また、改元があったりすると、1年ズレたりする事がよくあるので、「年」でアプローチするよりは、「場所」という観点で考えた方がよさそうだって事ですね。確かにそっちの方が混乱も少なそうですね。


で、以上を踏まえた上で、私が以前質問した三点の現状を整理しますと…


1、「所過多所残戮」の文意はどういう意味でしょうか?
→ほぼ解決。

むしろ彭城やその周辺の虐殺の方をつめた方が良さそう、という事でこの質問自体、あまり意味がなくなってきました。また、これらの文字だけでは(真相はともかくとして)、民衆虐殺を意味すると判断できないので、そういう意味でも解決といえます。他の箇所では、対象が「男女」や「民」と断定してあったり、「董卓の乱の流民」を匂わす記述があると比較して、「所過多所残戮」は文字自体からしても民衆を含んだ表現とはいえないですし。


2、魏武帝紀以外に、大量虐殺の根拠となりそうな典拠は他にありますか?
→三国志や後漢書にいくつかあり。ある程度解決したものと思われる。

対象を民衆と断定していないが、大量虐殺に関連する箇所の記述あり
・三国志武帝紀本文
・三国志陶謙伝本文
・三国志荀イク伝本文
・後漢書荀イク伝本文(注釈にもそれらしき記述がない模様)

対象を民衆と断定している
・三国志武帝紀注釈(孫盛曰:「夫伐罪弔民…」)
・三国志陶謙伝注釈(呉書曰:「…多殺人民…」)
・三国志荀イク伝注釈(曹マン伝云「…坑殺男女数万口於泗水…」)
・後漢書陶謙伝本文(「…凡殺男女数十万人,鶏犬無余,泗水為之不流…」)

このほかに典拠はどれくらいあるのかは、よくわかりませんが、ひとまず上に挙げた典拠については、もう少し時間をかけて信憑性を考えていかないといけなそうですね。そうすれば、対象を判断できるかもしれません。


3、晋朝や陳寿はどういう風に三国志をどういう風に描こうとしていたか?
→解決不能?

私自身がこんな質問しておいて、ナンですが、解決不能かもしれません。私は割と陳寿は事実重視かなって思ったりするんですが、荀イクの孔融との袁紹陣営評価の箇所にあるように、多少の修正はあるんじゃないかなって思っています。もしかしたら、徐州における大量虐殺も何らかの修正がかかっているのか、と思い質問でのですが、今のところ解決不能です。虐殺の価値観について、目覚ましい進展があれば、突破口の一つになりうるかもしれませんが…。


いずれにしても、ペテン師さん、ノブナガさん、むじんさんが貴重なお時間を割いてご意見をいただいたおかげで、私にはなかった視点が加わったので、非常に感謝しております。


>また、曹操による大量虐殺の例として、官渡の戦いの戦後処理において袁軍兵士を穴埋めにした史実が挙げられると思います。こちらは捕虜の虐殺であり被害対象は異なりますが、わたしは徐州における事件とセットで考えていくべきだと思っています


官渡の件と徐州の件をセットで考えるとは、今までになかった視点がありそうな感じですね。

お手数をおかけして申し訳ないのですが、もしよろしければ、
むじんさんのご意見をうかがってもよろしいでしょうか?

【3371】Re:荀イクの諫言について
ひと言  ペテン師  - 2009/3/8(日) 13:03 -

引用なし
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   ▼スズキさん:

むじんさんが綺麗にまとめてくれたので一安心ですw
ボクはむじんさんやスズキさんみたいに後漢書や三国志の漢文を読んで照らし合わせているわけでなく、熟考・熟読しているわけでもなく、筑摩の三国志だけで書き込みしているので史料と知識に乏しいのでお役に立てたのか微妙です


しかし、むじんさんやノブナガさんからも意見を頂き、今まで捕らえる事の出来なかった部分は少なからず補えたのではないかと思います。此処からはスズキさん自身が自分で考えなければいけない部分になると思いますので頑張ってください。


あと193年の徐州征伐に関する記事で小さな文言でしか書かれていませんが、さんかしているであろう人物を挙げておきますのでご参照ください。


1.朱霊の三軍を率いていた
2.于禁の広威陥落
3.曹仁の彭城の会戦に合流
※曹仁は合流以前から袁術や陶謙の領内を侵していた記事がチコッとありますね・

4臧覇・孫観・孫康・尹礼などが陶謙の統治の時期に開陽に駐屯している
※但し、いつからいつまでかは不明


☆ツッコミ部分☆
>
>
>○武帝紀本文より(本文に載っている順)
>本初四年
>「秋、陶謙征討、十余城陥落」
>

多分打ち間違いでしょうけど本初の年号は146年の本初元年しかあらず、約50年も前の暦です


>興平二年
>「春、定陶襲撃」、「夏、李封・薛蘭撃破」、「定陶陥落」、「八月、雍丘包囲」
>
>
>
><荀イクの諫言>
>「李封・薛蘭撃破」、「呂布・陳宮がまだ健在」、「陶謙の死」、


これらの記事は194年の記事です。
尚『李封・薛蘭撃破』の記事は195年だけではありません。


>「陶謙の先の敗北」、「前の討伐で厳格な処罰をした」と諫言に記載がある。


これらの記事は193年の記事です。
荀イクは『陶謙の死』『李封・薛蘭撃破』『呂布の健在』という記事の後に『往年の敗』『前討の徐州』という記事になっており、前の文章からの繋がりからいっても此処だけずれると言うことはないです。
それと、『李封・薛蘭撃破』も194年の記事です。興平2年の記事とは別物ですので困惑しないでくださいね。(これらの事も史書を読めば書かれています)


ところでスズキさんは筑摩文庫の三国志はお持ちでしょうか?

もしないならお持ちになることをお勧めしますよ。
というのも今回の事に関しても、気になる人物の記事を探す時に三国志8巻の人物検索ページから記載箇所を探し出して読む事も可能です。
漢文で読まれているので不要と思うかもしれませんが、時間のロスや考える上での必要人物箇所を探すのには役に立ちます。


荀イクの記事にも見落としがなければ行き着いたはずです。
また、『李封・薛蘭撃破』の記事も195年だけでない事にも行き着いてたはずです。

小さな事ですけど、素となる大きな記事に付随する人物の小さな記事を探すのには役に立ちますよ。


ではでは、頑張ってください

【3372】Re:疑問点の現状整理
 むじん WEB  - 2009/3/8(日) 18:37 -

引用なし
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   こんにちは。

>3、晋朝や陳寿はどういう風に三国志をどういう風に描こうとしていたか?
>→解決不能?
>
>私自身がこんな質問しておいて、ナンですが、解決不能かもしれません。私は割と陳寿は事実重視かなって思ったりするんですが、荀イクの孔融との袁紹陣営評価の箇所にあるように、多少の修正はあるんじゃないかなって思っています。もしかしたら、徐州における大量虐殺も何らかの修正がかかっているのか、と思い質問でのですが、今のところ解決不能です。虐殺の価値観について、目覚ましい進展があれば、突破口の一つになりうるかもしれませんが…。

このあたりのことは、陳寿その人がどういう志向を持っていたかと考えるよりも、陳寿が依拠した先行史料がどのような性質のものであったかを想像した方がよい結果になりそうな気がします。もっともそのような史料はほとんど現存してないので、裴注などで断片的に伝わっているものから推測を重ねるしかないのですが、たとえば王沈の『魏書』だけを裴注から抽出して、それだけを通して読む。次に魚豢の『魏略』だけを読む。そうしていくと、陳寿の本文を見ても「ここは『魏書』を使ってるな、こっちは『魏略』だな」という具合に、確定はできないまでも雰囲気としてはかなりつかめてきます。

趙翼は「『三国志』には遠慮が多い」と批判していますが、わたしの感触としてはむしろ、晋の目を意識してないな、という印象が強くあります。もちろん高貴郷公の敗死などは曖昧にぼかされてはいますが、そこまで深刻でないものに関しては、意外にあっさりと書かれているものもあります。

>官渡の件と徐州の件をセットで考えるとは、今までになかった視点がありそうな感じですね。
>
>お手数をおかけして申し訳ないのですが、もしよろしければ、
>むじんさんのご意見をうかがってもよろしいでしょうか?

わたし自身が、もし曹操の大量殺戮を議題にするとすればセットで考えていくべきだろうな、と漠然と思っているまでで、まだ核心めいたことまでつかんでいるわけではないのですが、たとえば徐州事件では、陶謙を包囲して食糧欠乏のため引きあげる途中(攻めのぼる途中でもそうでしたが)で事件が起こされていますし、いっぽう官渡の戦いでも食糧欠乏に苦しみぬいた末の逆転勝利のさなかで起こっています。どちらも食糧欠乏という共通のキーワードが挿入されているので、もしかしたらそのような状況が事件のトリガーになっているのではないかなと想像しております。

といっても、人を殺してその肉を食ったとかいう話ではなく、徐州の場合は「鶏や犬がいなくなった」との記述もありますが、民間から食糧調達(つまり略奪)する過程で、民間人の抵抗に遭うなどした結果、そのはずみで全軍規模の虐殺事件が起こしてしまったのではないか、などと想像しているんです。

また、官渡の事件についても、最終的に数千人まで追い詰められ、それでも食糧を欠いていた曹軍が、数万人規模の袁軍捕虜を給養できず、始末に困ったあげく殺してしまったのではないか、という気がしています。

いずれも裏付けのない想像の段階ですが、ほかの事件との類推からそのように思っているわけです。しかし、これを曹操個人の資質だとか、あるいは古代中国人の民族性だとか、そういう視点であれこれ詮索してしまうと、それ以上に雲をつかむような話になり、ちょっとつまらないと申しますか、あまり本質的でないところで袋小路に迷いこんでしまいそうな感じがします。

【3373】Re:荀イクの諫言について
感謝♪  スズキ  - 2009/3/8(日) 21:18 -

引用なし
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   ペテン師さん

>
>ところでスズキさんは筑摩文庫の三国志はお持ちでしょうか?


持ってないです。
一度は目を通してはいますが、うる覚えです。
また、今回、こういったスレッドを立てさせてもらったあとに、
関連箇所については、補足的な意味で少し拝見しました。

当初は買おうかと思っていたのですが、
近所の図書館に常備されているので、買いませんでした。
おっしゃるとおり、于禁伝など他伝で関連箇所を探す時間が省けそうですし、
今更ながら購入を真剣に検討しています(汗)。


>>○武帝紀本文より(本文に載っている順)
>>本初四年
>>「秋、陶謙征討、十余城陥落」
>>
>
>多分打ち間違いでしょうけど本初の年号は146年の本初元年しかあらず、約50年も前の暦です


あちゃー、これはまずいですね…。初平ですね。間違え方が最悪ですね、実際ある年号と間違えるなんて…(汗)。

>
>>興平二年
>>「春、定陶襲撃」、「夏、李封・薛蘭撃破」、「定陶陥落」、「八月、雍丘包囲」
>>
>><荀イクの諫言>
>>「李封・薛蘭撃破」、「呂布・陳宮がまだ健在」、「陶謙の死」、
>
>
>これらの記事は194年の記事です。
>尚『李封・薛蘭撃破』の記事は195年だけではありません。
>
>
>>「陶謙の先の敗北」、「前の討伐で厳格な処罰をした」と諫言に記載がある。
>
>
>これらの記事は193年の記事です。
>荀イクは『陶謙の死』『李封・薛蘭撃破』『呂布の健在』という記事の後に『往年の敗』『前討の徐州』という記事になっており、前の文章からの繋がりからいっても此処だけずれると言うことはないです。
>それと、『李封・薛蘭撃破』も194年の記事です。興平2年の記事とは別物ですので困惑しないでくださいね。(これらの事も史書を読めば書かれています)
>
>荀イクの記事にも見落としがなければ行き着いたはずです。
>また、『李封・薛蘭撃破』の記事も195年だけでない事にも行き着いてたはずです。
>


そうですかー。
「陶謙死,太祖欲遂取徐州,還乃定布.斯ゥ:」という並びで、荀イクの諫言が始まるので、荀イクの諫言は194年かもしれませんね…。「前討徐州, 威罰實行」が、1年前をさせば、尚更完璧ですね。

私が、195年と判断してしまったのは、諫言の一つ前の文章である「太祖自徐州還擊布濮陽,布東走.二年夏,太祖軍乘氏,大饑,人相食」、の「二年夏」が目に入ったのと、諫言後の「太祖乃止.大收麥,復與布戰,分兵平諸縣.布敗走,兗州遂平」という、兗州を平定した文章があったためです。

文脈的には、194年の可能性の方が高そうなのは確かですね。何か立証できれば別ですが、現段階で195年と言い張るのは妄信ですね…。


むじんさんのおっしゃっていた、改元や西暦と資料の関係と、
ペテン師さんのご指摘の点、了解いたしました。


もう少し、自分で詰めてみます。

【3374】文字化け箇所訂正
 スズキ  - 2009/3/8(日) 21:31 -

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   皆様

たびたびすみません、文字化けをさせてしまって。


>「陶謙死,太祖欲遂取徐州,還乃定布.斯ゥ:」という並びで、荀イクの諫言が始まるので、荀イクの諫言は194年かもしれませんね…。「前討徐州, 威罰實行」が、1年前をさせば、尚更完璧ですね。
>


「陶謙死,太祖欲遂取徐州,還乃定布.斯ゥ:」という並びで(×)
「陶謙死,太祖欲遂取徐州,還乃定布.イク曰:」という並びで(○)


>私が、195年と判断してしまったのは、諫言の一つ前の文章である「太祖自徐州還擊布濮陽,布東走.二年夏,太祖軍乘氏,大饑,人相食」、の「二年夏」が目に入ったのと、諫言後の「太祖乃止.大收麥,復與布戰,分兵平諸縣.布敗走,兗州遂平」という、兗州を平定した文章があったためです。


「太祖自徐州還擊布濮陽,布東走.二年夏,太祖軍乘氏,大饑,人相食」、の「二年夏」が(×)

「太祖自徐州還撃布濮陽,布東走.二年夏,太祖軍乘氏,大饑,人相食 」、の「二年夏」が(○)


諫言後の「太祖乃止.大收麥,復與布戰,分兵平諸縣.布敗走,兗州遂平」という、兗州を平定した文章があったためです。(×)

諫言後の「太祖乃止.大收麥,復與布戰,分兵平諸縣.布敗走,エン州遂平」という、エン州を平定した文章があったためです。(○)


以上、失礼しました。

【3375】Re:疑問点の現状整理
 スズキ  - 2009/3/8(日) 22:05 -

引用なし
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   むじんさん

迅速なレスポンス、ありがとうございます。


>>3、晋朝や陳寿はどういう風に三国志をどういう風に描こうとしていたか?
>>→解決不能?
>
>このあたりのことは、陳寿その人がどういう志向を持っていたかと考えるよりも、陳寿が依拠した先行史料がどのような性質のものであったかを想像した方がよい結果になりそうな気がします。もっともそのような史料はほとんど現存してないので、裴注などで断片的に伝わっているものから推測を重ねるしかないのですが、たとえば王沈の『魏書』だけを裴注から抽出して、それだけを通して読む。次に魚豢の『魏略』だけを読む。そうしていくと、陳寿の本文を見ても「ここは『魏書』を使ってるな、こっちは『魏略』だな」という具合に、確定はできないまでも雰囲気としてはかなりつかめてきます。
>
>趙翼は「『三国志』には遠慮が多い」と批判していますが、わたしの感触としてはむしろ、晋の目を意識してないな、という印象が強くあります。もちろん高貴郷公の敗死などは曖昧にぼかされてはいますが、そこまで深刻でないものに関しては、意外にあっさりと書かれているものもあります。


なるほど、『魏書』や『魏略』に関する話、大変興味深いですね。
一つ一つ見て、そこから雰囲気や傾向のような類いが導きだせればよさそうですね。裏付けのない想像ですが、曹操が打倒した勢力は悪くかかれる。一方、魏を極端には誉めてない、というぐらいに考えています。その想像に固執しすぎず、虚心になって、一つ一つ見ていこうと思います。


>
>わたし自身が、もし曹操の大量殺戮を議題にするとすればセットで考えていくべきだろうな、と漠然と思っているまでで、まだ核心めいたことまでつかんでいるわけではないのですが、たとえば徐州事件では、陶謙を包囲して食糧欠乏のため引きあげる途中(攻めのぼる途中でもそうでしたが)で事件が起こされていますし、いっぽう官渡の戦いでも食糧欠乏に苦しみぬいた末の逆転勝利のさなかで起こっています。どちらも食糧欠乏という共通のキーワードが挿入されているので、もしかしたらそのような状況が事件のトリガーになっているのではないかなと想像しております。
>
>といっても、人を殺してその肉を食ったとかいう話ではなく、徐州の場合は「鶏や犬がいなくなった」との記述もありますが、民間から食糧調達(つまり略奪)する過程で、民間人の抵抗に遭うなどした結果、そのはずみで全軍規模の虐殺事件が起こしてしまったのではないか、などと想像しているんです。
>
>また、官渡の事件についても、最終的に数千人まで追い詰められ、それでも食糧を欠いていた曹軍が、数万人規模の袁軍捕虜を給養できず、始末に困ったあげく殺してしまったのではないか、という気がしています。


食糧というキーワードですね。
この時代、飢えや兵糧の欠乏の話題はいくつもありましたからね、ウェイトはどの程度かはわかりませんが、食糧問題の影響は必ずあったでしょうね。勿論私も立証できません…。


>いずれも裏付けのない想像の段階ですが、ほかの事件との類推からそのように思っているわけです。しかし、これを曹操個人の資質だとか、あるいは古代中国人の民族性だとか、そういう視点であれこれ詮索してしまうと、それ以上に雲をつかむような話になり、ちょっとつまらないと申しますか、あまり本質的でないところで袋小路に迷いこんでしまいそうな感じがします。


ごもっともです。
端的に示せないもの、形に現れないもの、あやふやなもので判断するのはダメですね。容易い事ではありませんが、行動ベースや現象ベース、事実ベースで突き詰めれればな、と考えています。そう考えると、陳寿のスタンスを聞いたのも、聞き方がまずかったかもしれません。


むじんさん、
いろんな角度からご意見いただいて、本当にありがとうございます。

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