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▼スズキさん:
むじんさんが綺麗にまとめてくれたので一安心ですw
ボクはむじんさんやスズキさんみたいに後漢書や三国志の漢文を読んで照らし合わせているわけでなく、熟考・熟読しているわけでもなく、筑摩の三国志だけで書き込みしているので史料と知識に乏しいのでお役に立てたのか微妙です
しかし、むじんさんやノブナガさんからも意見を頂き、今まで捕らえる事の出来なかった部分は少なからず補えたのではないかと思います。此処からはスズキさん自身が自分で考えなければいけない部分になると思いますので頑張ってください。
あと193年の徐州征伐に関する記事で小さな文言でしか書かれていませんが、さんかしているであろう人物を挙げておきますのでご参照ください。
1.朱霊の三軍を率いていた
2.于禁の広威陥落
3.曹仁の彭城の会戦に合流
※曹仁は合流以前から袁術や陶謙の領内を侵していた記事がチコッとありますね・
4臧覇・孫観・孫康・尹礼などが陶謙の統治の時期に開陽に駐屯している
※但し、いつからいつまでかは不明
☆ツッコミ部分☆
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>○武帝紀本文より(本文に載っている順)
>本初四年
>「秋、陶謙征討、十余城陥落」
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多分打ち間違いでしょうけど本初の年号は146年の本初元年しかあらず、約50年も前の暦です
>興平二年
>「春、定陶襲撃」、「夏、李封・薛蘭撃破」、「定陶陥落」、「八月、雍丘包囲」
>
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><荀イクの諫言>
>「李封・薛蘭撃破」、「呂布・陳宮がまだ健在」、「陶謙の死」、
これらの記事は194年の記事です。
尚『李封・薛蘭撃破』の記事は195年だけではありません。
>「陶謙の先の敗北」、「前の討伐で厳格な処罰をした」と諫言に記載がある。
これらの記事は193年の記事です。
荀イクは『陶謙の死』『李封・薛蘭撃破』『呂布の健在』という記事の後に『往年の敗』『前討の徐州』という記事になっており、前の文章からの繋がりからいっても此処だけずれると言うことはないです。
それと、『李封・薛蘭撃破』も194年の記事です。興平2年の記事とは別物ですので困惑しないでくださいね。(これらの事も史書を読めば書かれています)
ところでスズキさんは筑摩文庫の三国志はお持ちでしょうか?
もしないならお持ちになることをお勧めしますよ。
というのも今回の事に関しても、気になる人物の記事を探す時に三国志8巻の人物検索ページから記載箇所を探し出して読む事も可能です。
漢文で読まれているので不要と思うかもしれませんが、時間のロスや考える上での必要人物箇所を探すのには役に立ちます。
荀イクの記事にも見落としがなければ行き着いたはずです。
また、『李封・薛蘭撃破』の記事も195年だけでない事にも行き着いてたはずです。
小さな事ですけど、素となる大きな記事に付随する人物の小さな記事を探すのには役に立ちますよ。
ではでは、頑張ってください
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