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傅燮の最期(孫氏からみた三国志38)
060122
<<狄道の攻防戦(孫氏からみた三国志37)


   中平四年(西暦187年)夏四月、前回の続き。
   王國・韓遂の軍十万人強に漢陽郡の冀県の郡城で包囲された傅燮(字、南容)。その城には兵は少なく兵糧もほとんどなかった。
漢陽の攻防戦
▲参考:譚其驤(主編)「中國歴史地圖集 第二冊秦・西漢・東漢時期」(中國地圖出版社出版)但し、矢印の軌跡に根拠はありません


   後漢書の傅燮伝によると、当時、包囲する側に北地郡の胡の騎兵数千がいて、同じく郡を攻撃していた1)。ところがこの北地の胡の騎兵数千はみんな、傅燮への恩を平素から感じていた。北地郡といえば、傅燮の故郷だし、傅燮は漢陽太守になってから異民族政策に力をいれている(<<参照
   そのため、北地の胡はみんな城外で叩頭した。彼らの願いは傅燮を郷里へ帰すことだった。

   その様子をみて、傅燮の子の傅幹が動き出す。
   傅幹は十三歳で当時、城の官舎に居た。傅幹は傅燮が気の強く高義があることを知っており、志を曲げ、まぬがれることをよしとしないことも知っていた。そのため、傅幹は北地の胡の願いを傅燮が受け入れないことをおそれていた。そして次のように傅幹は傅燮を諫める。

「国家は混乱しており、遂に大人(ちちうえ)に朝廷へ受け入れないようにさせました。今、天下はすでに乱れているため、自衛する兵力が不足しており、郷里の羌族・胡族は真っ先に恩徳を被っており、(父上が)(漢陽)郡を棄て(郷里へ)帰るように望んでおり、それが是非、許されるよう願っています。郷里へおもむき、義心のはげしい従者を率い、有道をあらわし天下を救うためにこれをたすけましょう…」

   傅幹が言い終える前に、傅燮は深く思いなげき、傅幹を小字で呼んで次のように言う。

「別成、おまえは私が必ず死ぬと知っているか?   思うに『最良は節義に達し、次は節義を守ること』だ。それに殷の紂王の暴においては伯夷は周の粟を食べず死に、仲尼(孔子)はその賢を称えた。今、朝廷は殷の紂王ほどではなく、私の徳もまた伯夷ほどであろうか?   世が乱れて、浩然の志(正気の志)を養い、禄を食べ、その難を避けることができるのか?   私はこれらを担い、ここで必ず死ぬ。おまえは才知があり、これをはげむのだ、これをはげむのだ…」2)

   傅幹はむせてふたたび言葉を出せず、左右みな泣き崩れた。

   ここで解説。
   先の傅幹の諫めに対し、傅燮は節義を守ることを説いた。「最良は節義に達し、次は節義を守ること」は春秋左氏伝の成公の傳十五年にも同じ記述が見られる3)

   具体的な例として傅燮があげたのが伯夷の故事。史記の伯夷伝やその注によると4)、伯夷、それと弟の叔齊は孤竹君の子ども。この家系は(商)の湯王により孤竹(続漢書郡国志に見える後漢の時代の幽州遼西郡令支県?5))に封じられた家系。ちなみに殷の時代の王は後漢の時代の皇帝のように地上に一人しかいない。孤竹君は叔齊に自らの地位を譲りたがっていたが、いざ孤竹君が亡くなると、叔齊は兄の伯夷に地位を譲ろうとする。伯夷は父の命令だといって逃げ去ってしまう。そして叔齊も父の地位を継承せずその場を去る。結局、中の子(伯夷が長男、叔齊が三男で次男ってこと?)がたてられた。伯夷と叔齊の兄弟は周の西伯昌の元へ身を寄せた。その後、西伯昌が亡くなり、息子の周の武王に受け継がれる。武王は暴虐をつくした(といわれる)殷の紂王を討とうとした。そのとき、伯夷と叔齊は紂王を討たないよう武王を諫める。ところがその願いは聞かれず殷の紂王は周の武王に討たれ、殷の天下から周の天下になった。伯夷と叔齊はこれを恥じて、忠義心から周の粟をまったく食べずに、首陽山に隠れ薇(のえんどう?   わらび?)を食べていて、ついに餓死したとのこと。

   傅燮は今の朝廷が殷の紂王ほど悪くなく、傅燮自身が伯夷ほど徳はないといって、暗に節義を守り、最期まで戦い抜くことを示した。そして別れの言葉のように力強く息子の傅幹を励ます。

   説得しようとしたのは味方の陣営の傅幹だけでなかった。王國は元・酒泉太守の黄衍を使者として傅燮の元へ送り込む。前回、裏切った隴西太守の李相如の二匹目のドジョウを狙って居るんだろうか。  ともかく黄衍は次のように言う。
「成功と失敗のことはもうわかっています。先にことを起こすのは上に霸王の業があり、下に伊呂(伊尹と呂尚)の勳(功労)に成ります。天下が漢の元へ戻らないとき、府君(太守の尊称、傅燮のこと)は吾が属師(なかま)のために仕える気はないのでしょうか?」

   伊尹は殷の湯王に仕え夏王朝を倒し、呂尚は周の武王に仕え殷王朝を倒した。つまり、黄衍は漢王朝の命運がつきつつある今、傅燮が王國に仕え漢王朝を倒すよう示唆していた。

   それに対し、傅燮は剣に手をかけ叱りちらして次のように言う

「剖符(割り符)の臣なのに、返って賊の為にと諭されるとは!」

   傅幹との対話でわかるように、忠義心を大事にする傅燮にとって敵側についた黄衍に説得される状況は我慢できなかったんだろう。

   傅燮はついに指図し、左右の兵を進ませ(城からうって出て?)、戦陣で戦没した

   傅燮は壯節侯がおくられた。息子の傅幹はその後の歴史に名が見え、生き延びたことがわかる。

   さて、漢陽郡の郡城(冀県)が王國・韓遂の軍に攻め落とされ、上記の地図からわかるように、王國・韓遂の軍にとって三輔(長安のある京兆尹左馮翊右扶風)は目と鼻の先となった。
   三年前、同じように涼州刺史の左昌が漢陽郡の冀県で辺章・韓遂の軍に包囲されたが、その後、包囲をときさらに三輔へ進軍した。そのとき皇甫嵩と陶謙の軍あるいは董卓と皇甫嵩の軍が三輔を守っており、それ以上進軍されることはなかった。(<<西方からの進軍<<斬司徒、天下乃安。
   その後、張温、董卓(それに孫堅も)が三輔を守っていたときは辺章・韓遂に勝った上、涼州の中まで追撃したほどだった。といってもその後、返り討ちにあったが(<<張温&董卓vs辺章&韓遂)。

   しかし、今度は主要な軍が三輔を守っておらず、王國・韓遂の軍は三輔へ侵入し略奪をしていた。中平三年の冬に張温は京師に戻されていたのでおそらく軍も戻されていたのだろう(<<動き出した西方)。

   どの時期かはわからないが(この進軍がある程度、おさまってから?)、その後、後漢書蓋勳伝によると涼州刺史は楊雍という人がなり、彼は上表し蓋勳を漢陽太守に守らせた6)。おそらく耿鄙の次の涼州刺史が楊雍で、傅燮の次の事実上の漢陽太守が蓋勳かと。

   後漢紀によると、これらの賊の侵略を理由に張温は太尉をやめさせられ、代わりに司徒の崔烈が太尉になった7)。崔烈は以前、涼州をすてたがっていて、傅燮の激しい言葉で止められた人だけど(<<斬司徒、天下乃安。)、涼州はおろか三輔にまで賊に攻められた今、その関係で太尉になるだなんて、何か皮肉めいたものを感じる。
   また後漢書本紀によると次の月の五月には空位になった司徒に司空の許相がおさまり、さらに空位になった司空には光祿勳の沛國出身の丁宮がおさまった8)

   さて、三輔に王國・韓遂の軍が進軍し略奪をしている中、京師からすぐに討伐軍が派遣されるのが自然だったが、実は他の地域で少なくとも二つの乱がおこっていて、そちらにまで手がまわらなかったのかもしれない。
   というわけで次回以降は涼州の乱を離れ、それらの乱について触れていく。




1)   後漢書の傅燮伝の記述。本文のネタバレあり。今回はほとんどこの記述から。脚注060104-1)の続き。
『時北〔地〕胡騎數千隨賊攻郡、皆夙懷燮恩、共於城外叩頭、求送燮歸郷里。子幹年十三、從在官舍。知燮性剛、有高義、恐不能屈志以免、進諫曰:「國家昏亂、遂令大人不容於朝。今天下已叛、而兵不足自守、郷里羌胡先被恩徳、欲令棄郡而歸、願必許之。徐至郷里、率視`徒、見有道而輔之、以濟天下。」言未終、燮慨然而歎、呼幹小字曰:「別成、汝知吾必死邪?蓋『聖達節、次守節』。且殷紂之暴、伯夷不食周粟而死、仲尼稱其賢。今朝廷不甚殷紂、吾徳亦豈絶伯夷?世亂不能養浩然之志、食祿又欲避其難乎?吾行何之、必死於此。汝有才智、勉之勉之。主簿楊會、吾之程嬰也。」幹哽咽不能復言、左右皆泣下。王國使故酒泉太守黄衍説燮曰:「成敗之事、已可知矣。先起、上有霸王之業、下成伊呂之勳。天下非復漢有、府君寧有意為吾屬師乎?」燮案劍叱衍曰:「若剖符之臣、反為賊説邪!」遂麾左右進兵、臨陣戰歿。謚曰壯節侯。』(「後漢書卷五十八 虞傅蓋臧列傳第四十八」より)
2)   後漢紀を参照の部分。後漢書本紀だと今回のエピソードは中平四年(西暦187年)夏四月の出来事だけど、後漢紀だと、一年以上後の出来事になっており、耿鄙がなくなったのもひっくるめて、中平五年(西暦188年)夏五月の出来事になっている。「孫氏からみた三国志」ではここらへんは後漢書によっている。あと次に示すように後漢書傅燮伝1)に見られる「主簿楊會、吾之程嬰也。」という記述は後漢紀にはなく、また脈絡なく出てくる文なので「孫氏からみた三国志」では削っている。
『國遂圍漢陽太守傅燮。時北〔地〕胡騎數千在城外、皆叩頭流涕、欲令燮棄郡歸郷里。燮子幹進曰:「國家昏亂、賢人斥逐、大人以正不容於朝。今天下以叛、兵不足守、郷里羌胡被大人恩者、欲令棄郡而歸。願大人計之、徐歸郷里、率賢士大夫子弟而輔之。」言未終、燮歎曰:「汝知吾必死邪!蓋聖達節。次守節。且殷紂之暴、伯夷不食周粟而死、仲尼以為賢。今朝廷不甚殷紂、吾コ不及伯夷、吾行何之乎?」王國使故酒泉太守黄衍説燮曰:「天下事已可知矣。先起者、上有霸王之業、下成伊呂之勳。天下非復漢有、府君寧有意為吾屬師乎?」燮按劍叱之曰:「若非國家剖符之臣邪!求利焉逃其難。且諸侯死社稷者、正也。」遂麾左右出戰、臨陣而死。上甚悼惜之、策謚曰壯節侯。』(「後漢孝靈皇帝紀下卷第二十五」より)
3)   春秋左氏伝の記述。「子臧辞曰前志有之曰聖達節次守節下失節為君非吾節也」(春秋左氏伝成公傳十五年より)。ちゃんとよく読んでいないんでどういうシチュエーションで出てきたかわからない。
4)   史記伯夷伝あたり。ここの脚注では伯夷伝の一部だけ紹介。ちなみに史記の列伝の一番目に伯夷伝が来る。本文のここらへんテキトーなので詳しく知りたい人は別のサイトでどうぞ。
『孔子曰:「伯夷・叔齊、不念舊惡、怨是用希。」「求仁得仁、又何怨乎?」余悲伯夷之意、睹軼詩可異焉。其傳曰:伯夷・叔齊、孤竹君之二子也。父欲立叔齊,及父卒,叔齊讓伯夷。伯夷曰:「父命也。」遂逃去。叔齊亦不肯立而逃之。國人立其中子。於是伯夷・叔齊聞西伯昌善養老、盍往歸焉。及至、西伯卒、武王載木主、號為文王、東伐紂。伯夷・叔齊叩馬而諫曰:「父死不葬、爰及干戈、可謂孝乎?以臣弑君、可謂仁乎?」左右欲兵之。太公曰:「此義人也。」扶而去之。武王已平殷亂、天下宗周、而伯夷・叔齊恥之、義不食周粟、隱於首陽山、采薇而食之。及餓且死、作歌。其辭曰:「登彼西山兮、采其薇矣。以暴易暴兮、不知其非矣。神農・虞・夏忽焉沒兮、我安適歸矣?于嗟徂兮、命之衰矣!」遂餓死於首陽山。』(「史記卷六十一伯夷列傳第一」より)
5)   続漢書郡国志の記述。というか注に「伯夷・叔齊本國。」ってかいてあるな。「令支有孤竹城。」(「続漢書志第二十三   郡國五」より)
6)   蓋勳のこと。後漢書傅燮伝と後漢書蓋勳伝はとなりあった同じ列伝で同じ涼州の乱について書いてあるんだけど、「パラレルワールド?」と思っちゃうほど、両者に記述の重なるところが少ない。もうちょっと蓋勳伝で年月の記述を多くしてほしかったな。脚注041229-6)の続き。
『後刺史楊雍即表勳領漢陽太守。』(「後漢書卷五十八 虞傅蓋臧列傳第四十八」より)
7)   後漢紀の記述。なぜ後漢書本紀の同じところの記述と違い、後漢紀では張温の免官の理由が書かれている。
『(中平四年)夏四月、太尉張温以寇賊未平罷。司徒崔烈為太尉。
五月、司空許相為司徒、光祿勳丁宮為司空。』(「後漢孝靈皇帝紀下卷第二十五」より)
8)   後漢書本紀の記述。耿鄙と傅燮の話以外の官職の移動は後漢紀でも同じようなことがかいてある7)
『(中平四年)夏四月、涼州刺史耿鄙討金城賊韓遂、鄙兵大敗、遂寇漢陽、漢陽太守傅燮戰沒。扶風人馬騰・漢陽人王國並叛、寇三輔。
太尉張温免、司徒崔烈為太尉。五月、司空許相為司徒、光祿勳沛國丁宮為司空。』(「後漢孝靈皇帝紀下卷第二十五」より)
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