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気になるアイツ(臧旻)
020629
<<気になるアイツ(公孫伯珪)

   今まで、「気になるアイツ」の題名に掲げられる人名はすべて「姓+字」表記だったけど、今回はなんと「姓+名」表記!

   と、言いつつ、単にこの人の字が史書で見られなかっただけ、あしからず1)

   さて、この人だけど、三国志呉書孫破虜討逆伝(文台さんの伝入り)を読んでいると唐突に遭遇する。

刺史臧旻列上功状、詔書除堅鹽涜丞、數歳徙くい丞、又徙下ひ丞。2)

この文の前は、会稽の妖賊(許昭あるいは許昌)退治に文台さんが参加したと書いていて、この文で、文台さんの戦功を刺史の臧旻さんが中央へ報告し、それで、文台さんは鹽涜丞に就任、続いて、数年、くい丞、さらに下ひ丞になったってこと。
   まあ、文台さんの経歴はここではおいといて、初めてみたとき、私は唐突に現れた臧旻って何者?   ってかなり気になっていた。(まさに気になるアイツ・笑)
   まず臧旻の「刺史」っていう役職のこと。給料、「六百石」で、着任した州の中にある郡の御史という役職や郡を監督する役目らしい。
   なるほど、そんな偉いさんの目に文台さんの活躍がとまったということか♪

   三国志ではこの記述以外に臧旻が出てこないかと、目を皿のようにして探すと、

臧洪字子源、廣陵射陽人也。父旻、歴匈奴中郎將・中山・太原太守、所在有名。3)

というような記述を臧洪傳で見かける。どうやら、臧洪の父親らしく、子が有名なので、ついでに出すといった感じ。ついで故に、最後のほうの役職だけ書いとけって感じ。気になった刺史時代のことは書いていない。
   仕方ないから、別の書物をあたる。謝承後漢書によると、

旻有幹事才、達於從政、為漢良吏。初從徐州從事、辟司徒府、除盧奴令、冀州舉尤異、遷揚州刺吏、丹陽太守。是時邊方有警、羌胡出寇、三府舉能、遷旻匈奴中郎將。4)

とあるように、徐州の從事→司徒府の役人→盧奴令→揚州刺吏→丹陽太守→匈奴中郎將と役職をかえているとのこと。こちらは先の史書と違って、匈奴中郎將までのいきさつが書いてある。と順々に出世していて、ちゃんと、文台さんと関わったときの揚州刺吏が書かれている。その前の盧奴令(県令のこと)の給料が「二百石」で、その後の丹陽太守(郡太守のこと)が「二千石」だから、順調な出世をしているようだ。
   で、もう少し史書をあさってみると、三国志以外にも後漢書に臧洪傳に

熹平元年、會稽妖賊許昭起兵句章、自稱「大將軍」、立其父生為越王、攻破城邑、衆以萬數。拜旻揚州刺史。5)

というように、気になった部分、そのものズバリが書かれている。
   それによると、熹平元年に会稽郡(揚州に属す)の妖賊・許昭が句章というところで兵を起こし、自称「大将軍」(ちなみに三国志では「陽明皇帝」)で、父親の許生を越王につけ、城邑を攻め落とし、反乱軍は数万人が集まったとのこと。そこで、中央政府は臧旻を反乱の起こっている揚州の刺史にした………はぁ、なるほど、体よく、臧旻は刺史という役職をエサに反乱鎮圧を任されたの……かな?6)


1)   字が史書で見られない事って結構、あるような気がする。私の中での有名人、呉景さんもないですし。字がないのは、「姓+字」表記中心の「孫氏三代」を書いてて、こまるところ。トホホ   <<戻る

2)   三國志卷四十六呉書一(孫破虜討逆伝)の最初の段落。これより一つ前の文で熹平元年とあるけど、他の史書を見ると、熹平三年のような気が……   <<戻る

3)   三國志卷七魏書七(呂布臧洪傳)の臧洪傳の方。父親のことなので、最初のほう。しかし、ほんと、ちょっとだけだな…   <<戻る

4)   八家後漢書の一つ、謝承後漢書卷二臧旻傳より。普通、後漢書といえば、范曄著の後漢書を指すが、これはそれとは同名別書。確か、謝承後漢書の方が先に書かれたけど、あまり現存していないので、范曄後漢書が正史になったような覚えがある(うろ覚え)   <<戻る

5)   後漢書卷五十八虞傅蓋臧列傳第四十八(范曄)より。「最初からこれを書いておけば、気になるところがすぐわかったんじゃない?」とかいわれそうだけど、まあ、それは文の構成上。   <<戻る

6)   私の知っているだけでも、交州の賊の反乱に朱儁(字、公偉)が交州刺史にされているし、豫州の黄巾賊に王允(字、子師)が豫州刺史にされているから、この時代の中国の常套手段なのかもしれない。   <<戻る

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