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▼青木朋さん:
>いつもお世話になっております。
>(先日、上記のタイトルの投稿があり、レスがつくのを私も楽しみにしていたのですが、どうやら質問者が削除してしまわれたようなので、あらためて私が投稿します。)
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>1.司馬師と司馬昭がいつから魏に仕官し始めたのか、晋書本紀以外の情報をご存知の方がいらっしゃったらお教えください。
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> 司馬師は『晋書』景帝紀に「魏景初中,拜散騎常侍」とあります。景初年間(237〜239)に散騎常侍で起家したのでしょうか。散騎常侍(三品)は起家官としては高位すぎるのでは? 三十歳で初出仕? などビミョーに疑問なのですが。
> 司馬昭は文帝紀に「魏景初二年、封新城郷侯。正始初、為洛陽典農中郎將。」とあります。典農中郎將は、手元の資料では六品なのですが、兄に比べこの格差は・・・?
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>2.一般に、中央の役職に就いた人の子供は、自らが仕官するまでどこでどのように暮らすのでしょう? やはり故郷の自宅で勉強に励むのでしょうか? 例えば、司馬懿の息子である司馬師ならば、温県の邸宅で近所の先生にでもついて勉強していたのかということです。(司馬懿の場合はあちこち移動していて「中央」と言うのは難しいかもしれませんが。)それとも、洛陽に住んだのでしょうか?
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>情報ありましたらぜひご教授ください。
はじめまして。MM2と申します。
とりあえず1について。
>魏景初中,拜散騎常侍,累遷中護軍.(『晋書』景帝紀)
むじん書院様の『三國職官表』によると散騎常侍は三品、中護軍は四品となっています。
これでは三品官から昇進して四品官になった事になり、意味が通じません。
また『九品官人法の研究』(宮崎市定著)に魏代の数名の起家官表があり、その郷品が一〜二品と思われる者達の
殆どの起家官が散騎侍郎・散騎黄門侍郎であることから、ここは散騎侍郎の誤りではないかと思います。
あともう一点。
司馬師は青龍年間(233-237)に妻夏侯氏を亡くし、次に呉質の娘を娶るも離婚し、更に羊氏を娶ったようです。
このあたりの私生活のトラブルで一旦辞職していたのかもしれません。
司馬尚についてはざっと晋書に目を通した感じでは分かりませんでした。何か分かればまた書き込みます。
では。
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