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【2614】Re:戦いには七つの方法がある云々と、小橋について
 ひよこ  - 2006/12/3(日) 14:41 -

引用なし
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   こんにちわ。通りすがりです。
一つ目は確か司馬懿だったと思います。
wikiの司馬懿のページにはこうあります。
以下抜粋

238年、遼東に拠っていた公孫淵が反乱を起こし、司馬懿は征討を命じられる。このとき明帝は、公孫淵はどのような策を取るか司馬懿に尋ね、司馬懿はこう答えている。「城を捨てて逃げるが上策、遼水に拠って我が大軍に抗するは次策、襄平に籠もるなら生捕りになるだけです。知恵者がいれば、あるいは(公孫淵が)城を捨てることも有るでしょうが、あれはそんな策を考えつける人物ではありません。」

遼東では長雨が続いたため、遠征がさらに長引くおそれがあった。廷臣たちは遠征の中止を曹叡に訴えたが、曹叡は「司馬公は機に応じて戦略を立てることのできる人物だ。彼に任せておけば間違いはない」と言い、取り合わなかった。 魏の征討に対し、公孫淵は孫権に援軍を求めた。そのとき、孫権はこんな書簡を送っている。「司馬公は用兵に優れ、自在に使うこと神の如しという。そんな人物を相手にせねばならないとは、あなたもお気の毒だ」と。公孫淵はこの後、司馬懿が下策と評した籠城を行って大敗した。人質を差し出して助命を嘆願しに来た公孫淵の使者へ、司馬懿は興味深い発言を残している。「戦には五つの要点がある。戦意があるときに闘い、戦えなければ守り、守れなければ逃げる。あとは降るか死ぬかだ。貴様らは降伏しようともしなかったな。ならば残るは死あるのみよ。人質など無用」

こうして司馬懿は公孫淵父子やその高官たちを斬り、遼東の制圧に成功したが、凄まじいのはその後の処置である。中原の戦乱から避難してきた人々が大量に暮らしていた遼東は、いつまた反魏の温床になるかわからないということで、司馬懿は15歳以上の成年男子を皆殺しにし、その首で「首観(観は楼閣の意)」を築いたという。「晉書」では「王朝の始祖たる人物が、徒に大量の血を流したことが、ひいては子々孫々に報いとなって降りかかったのだ」と批判している。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B8%E9%A6%AC%E6%87%BF

もう一つの方はわかりません…ごめんなさい。基本的に中国史は北方専門なのでorz
それにしても司馬懿も凄い発言しますよね(笑

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【2612】戦いには七つの方法がある云々と、小橋について 2006/12/2(土) 14:45 初心者質問
┗ 【2614】Re:戦いには七つの方法がある云々と、小橋に... ひよこ 2006/12/3(日) 14:41
┗ 【2616】皖城攻めの理由 ゲソ 2006/12/4(月) 10:06
┗ 【2617】Re:皖城攻めの理由 孫ぽこ 2006/12/4(月) 20:14

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