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>とはいえ他にも色々な諸事情や思惑があって、皖城攻めにはもっと多くの理由があるのかもしれません。このあたり、他の方々の意見もお聞きしたい所ではありますが…。
あうw
すいません。拙サイトでも書いた事なのですが参考までに。
私は皖城攻めの目的は、【荊州制圧のために戦略上押さえなくてはならない所だったから】だと思っています。
孫策は先だって周瑜・呂範・程普らを江夏・零陵・桂陽の太守にしています。ただの名誉職だろうとあまり注目していなかったのですが、当時、長沙では張羨が反乱を起こしているのと、孫策伝注江表伝においても皖城攻略から続く黄祖討伐の行軍を【孫策は黄祖を討伐するための軍を起こしていた】と書かれている点から、皖城攻めの時点で孫策の主眼は荊州・江夏攻略にあったのではないかと思えます。
つまり、簡単に言うと孫策は張羨の反乱に注目して、荊州南部を制圧しようとしたが、そのためには廬江の劉勲の動きを封じる必要があり、皖城攻めはその前フリではないか?と思っています。そう考えると、皖城を落としたにも拘わらず、李術という孫策軍の中にはどうも在籍していたとは思えない将を廬江太守に据えたのは、廬江を制圧して支配する事に孫策の主眼はなかったからだと言えそうな気がします。廬江は長江北岸になりますからね。むしろ荊州南岸を支配する事に孫策の目的はあったのではないか?と。
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