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こんにちは。
あー念のため再確認しておきますと、私が得意なのは妄想くらいでして綿密な分析なんてのはまるでできませんので、その点はよろしくご了承ください。
> 界橋決戦の少し前、コウソンサンは北上してきた青徐の黄巾賊を
>打ち破り、破竹の勢いだったという印象があるのですがいかがでしょう。
> 北上を阻止された賊は、その後エン州辺りをボコボコにした程の連中。
確かに公孫サンは黄巾を撃破していますが、その賊軍の規模が分からないことには評価のしようもないと思います。エン州で鄭遂・劉岱を殺した勢力と同じかどうかも分かりませんし。
> 彼ら程のものを一蹴し、破竹の勢いだったコウソンサン御自慢の白馬
>義従を足止めして、壊滅せしめた麹義の力量は決して侮れないように
>思えるのです。
麹義を揉み潰そうとしたのが騎兵なので、これがいわゆる白馬義従であった可能性はもちろんありますけど、しかしおそらく彼らは本陣を固めていただけで、直接的には麹義と矛を交えてないと思います。いずれにしても単に足止めするくらいなら麹義でなくても難しくないですし、実際に公孫氏の騎兵を打ち崩したのは左右の強弩部隊です。公孫サンが冀州入りしたとき各地の冀州豪族が彼に呼応していますが、それを背後に残しておくことはできないので、戦いになれば先鋒を務めるのはこういう連中だとだいたい相場は決まってます。歩騎4万人を幽州だけで集めることはできないでしょうし。だから彼らの取りまとめ役の冀州刺史が戦死するわけです。もし先鋒が白馬義従ではなくて冀州豪族による構成だったなら、結局烏合の衆に過ぎないわけですから、やはり麹義でなくてもそう難敵でもないと思います。
> 劉虞遺臣らを束ねて幽州にコウソンサンを追い詰めた点については、
>どうも麹義の統率というより、エンショウの政治力が大きいような
>印象を私は持っています。確かに、麹義の奮闘も忘れがたいですが、
>確か、最終的には彼はコケてましたよね。
袁紹の公孫氏経略は記述が少なすぎて実態がよく分からないんですよね。袁煕は関わってないんだろうか。麹義に失態はなかったと思います。
> 積極的にカンフクからエンショウに乗り換えた者として、田豊の
>名も上がるような気がするのですが、いかがでしょう? 彼は、
>硬骨なイメージがありますが、確か、カンフクの配下だったコウブや
>ビンジュンやらを暗殺していたような記憶があるのですがどうだったでしょう。
> 確か、審配も、積極的とは言わないまでも、親エンショウ反カンフク
>だったような記憶があるのですが。
田豊も審配もただ閑却されていただけで韓馥を裏切ったわけではないです。公孫サンが冀州に入ったとき、郡県がみな呼応したとありますが、これは太守や県令が寝返ったのではなく、冀州の地元豪族が太守らを追放して公孫サンの傘下に入ったということです。多分。公孫範が勃海の郡兵を率いて袁紹に敵対したというのも、彼らの支持があればこそなしえたことでしょう。かくして公孫氏の軍は無人の野を行くがごとく界橋に押し寄せたわけですね。界橋決戦の直後(『後漢書』では四年三月とするのですが)、魏郡の郡兵が太守栗成を殺して黒山賊と連繋したというのにも、冀州豪族と袁紹との対立が窺えないものでしょうか。
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