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【2923】明帝曹叡は曹丕の子か? 如墨委面 2007/10/14(日) 13:34 雑談

【2926】Re:明帝曹叡は曹丕の子か? 巫俊(ふしゅん) 2007/10/16(火) 7:54
┗ 【2932】Re:明帝曹叡は曹丕の子か? 委面如墨 2007/10/26(金) 1:15
┗ 【2933】Re:明帝曹叡は曹丕の子か? 巫俊(ふしゅん) 2007/10/26(金) 15:19

【2926】Re:明帝曹叡は曹丕の子か?
 巫俊(ふしゅん)  - 2007/10/16(火) 7:54 -

引用なし
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   ・如墨委面さん

>明帝曹叡は文帝曹丕の子ではなく、袁紹の次男、袁煕の子だという説があるそうですね。
(中略)
>明帝崩御の記事(明帝紀魏志第三)
(中略)
>裴松之は次のように言っています。
(中略)
>この問題は、曹叡は曹丕の子であり、明帝崩御の記事の「時年三十六」は誤りである、とするのが正しいのでしょうが、私は最近、この「曹叡は袁煕の子」説が正しいような気がしています。


思い浮かぶことだけお答えします。
私もこの記事を直接漢文で読んで、これは面白い裴松之の論説だなと思いました。
東洋史関係の年表の権威とされる『東方年表』と、正史の記事を比較して確認しましたが、魏の暦の正確な知識が晋代の士大夫のあいだで不足していて、『三国志』の記事が混乱をきたしている、と考えるべきだと判断しました。

西暦の感覚で魏書を読んでいると、西暦で一年が過ぎる間に魏暦で二年が過ぎた年があったみたいで(?)、それが原因で「曹叡は袁煕の子」説が出てきたと思われます。


裴松之によると、このことは南朝宋の朝廷で騒ぎになっていたらしく、曹叡といえば前代の東晋の太祖宣帝が仕えた皇帝ですから、前代の政治を冷笑する材料として半ば「史実」のように口説に広まっていたと推察されます。

裴松之はその説に組する訳ではなく、歴史の誤解から史書に写された曲説であるとして警鐘を鳴らしていたと思います。
この手の説は確かに魅力的ですが、陰謀説にも似たところがあり、注意が払われるところです。


私個人としては、魏の暦を見直した上で、説の是非を再考察することはアリではないかと思っています。
何より「誰が孕ませたか」ということは、DNA鑑定の無い時代では人間関係をぐらぐら揺らす因であり、ましてや誰が孕ませたかなんて結局分からないのですから、それが皇帝貴顕の家柄の問題であれば歴史が変わります。
中国では政治史の変化が、普通の人の生活を鋭いナイフでえぐったみたいに破壊する傾向が多く、表面的な内容に終始しやすい史書からこの手の猥談を読み解くことは、猥談を楽しむよりも重要であると思います。

まあ猥談だろうと真面目に歴史に組み入れて研究しようとする巫俊だから、こんなことを長々と書くのかもしれませんが(笑)

【2932】Re:明帝曹叡は曹丕の子か?
 委面如墨  - 2007/10/26(金) 1:15 -

引用なし
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   ▼巫俊(ふしゅん)さん:

明帝崩御の記事と裴松之注を再録します。

>>明帝崩御の記事(明帝紀魏志第三)
>>
>>(景初)三年春正月丁亥(一日)…、帝崩于嘉福殿、時年三十六。……
>>
>>の後で、裴松之は次のように言っています。
>>
>>臣松之按:魏武以建安九年八月定[業β],文帝始納甄后,明帝應以十年生,計至此年正月,整三十四年耳.時改正朔,以故年十二月為今年正月,可彊名三十五年,不得三十六也.
>>
>>臣松之が按ずるに
>>魏の武帝(曹操)は建安九年八月に[業β]を平定し、文帝(曹丕)は始めて甄后を娶ったから、明帝は(建安)十年に生まれたことになるが、この年の正月までを計算すると三十四年しかならない。この頃、改暦があり、故年の十二月を今年の正月にしているので、これを計算に入れても三十五年にしかならず、三十六歳にはならない。

この裴松之注は、意味がとりにくいのですが、次のようなことだろうと思います。

文帝が甄后を娶ったのは建安九年だから、明帝は建安十年の生まれということになる。明帝は、青龍五年三月を景初元年四月とする(一ヶ月ずらした)改暦を行っているが、この改暦がなかったものとすると、明帝は景初二年十二月に崩御したことになる。しかし、これで計算した、建安十年から景初二年までの正味の年数は、三十四年にしかならない。改暦を計算に入れた見掛けの年数で計算しても三十五年である。魏志のいう「時年三十六」にはならない。

裴松之の言っているのはこれだけです。分析結果を記述しているだけで、意見を述べているわけではありません。建安十年生まれか、年三十六か、どちらかが間違っているのだろうというニュアンスは感じられますが………

>私もこの記事を直接漢文で読んで、これは面白い裴松之の論説だなと思いました。
>東洋史関係の年表の権威とされる『東方年表』と、正史の記事を比較して確認しましたが、魏の暦の正確な知識が晋代の士大夫のあいだで不足していて、『三国志』の記事が混乱をきたしている、と考えるべきだと判断しました。

どうも私は“権威”といわれているものが信用できなくて(笑)
それはさておき、ここで問題になるのは、三十六という歳が、どこから出てきたかでしょう。つまり、魏朝の記録によったにか、それとも、晋代に陳寿が三国志を記述するときに計算したものかということになりますが……

魏朝の記録によったのであれば、この部分の『三国志』の記事が混乱をきたしているとしても、その原因を「魏の暦の正確な知識が晋代の士大夫のあいだで不足し」ていたことに持っていく訳にはいかないと思います。
しかし、この数字は魏朝の記録でなく晋代に計算されたものということも考えにくい。皇帝の崩御の歳を魏朝が記録に留めなかったということは、なさそうに思えます。といって、記録はあったが、それを陳寿なり当時の士太夫なりが計算しなおして改変した、というのも変ですね。

>裴松之によると、このことは南朝宋の朝廷で騒ぎになっていたらしく、曹叡といえば前代の東晋の太祖宣帝が仕えた皇帝ですから、前代の政治を冷笑する材料として半ば「史実」のように口説に広まっていたと推察されます。

南朝宋の朝廷でそのようなことがあったかも知れませんが……
裴松之は、この明帝崩御の項の注以外に「南朝宋の朝廷で騒ぎになっていた」ことをどこかに書いているのでしょうか???

>裴松之はその説に組する訳ではなく、歴史の誤解から史書に写された曲説であるとして警鐘を鳴らしていたと思います。
>この手の説は確かに魅力的ですが、陰謀説にも似たところがあり、注意が払われるところです。

前述のように、裴松之は、この注で、単に「明帝が建安十年生まれなら、年三十六にはならない」と書いているだけです。これだけから「歴史の誤解から史書に写された曲説であるとして警鐘を鳴らしていた」と読み取るのは無理じゃないかと思います。逆に、裴松之は、曹叡が曹丕の子でないことを示唆している、と読み取る人もいると思いますね。

>私個人としては、魏の暦を見直した上で、説の是非を再考察することはアリではないかと思っています。
>何より「誰が孕ませたか」ということは、DNA鑑定の無い時代では人間関係をぐらぐら揺らす因であり、ましてや誰が孕ませたかなんて結局分からないのですから、それが皇帝貴顕の家柄の問題であれば歴史が変わります。
>中国では政治史の変化が、普通の人の生活を鋭いナイフでえぐったみたいに破壊する傾向が多く、表面的な内容に終始しやすい史書からこの手の猥談を読み解くことは、猥談を楽しむよりも重要であると思います。

この問題を、明帝曹叡は三十六歳で崩御したという魏志の記載が“正しい”ものとして考えて見ました。
この場合、明帝が生まれたのは建安九年になりますから、曹叡の母が、魏志の記載通り、甄后だったとすると、どう計算しても、曹叡の父は袁煕ということになってしまいます。まあ、甄后が浮気をして他の男の種を宿していたというようなことがなければですけれども……(冷汗)
しかし、曹叡の母が、甄后でなかったとしたらどうでしょう。つまり、曹丕には、別に正史に記載されていない女がいて、その女が建安九年に曹叡を生んだ。そして、事情(その女の死など)があって、曹叡は甄后の子として育てられた、と考えるのです。これなら、曹丕の子としても辻褄は合います。

まあ、はっきり言って、本当のところは分かるはずがありません。しかし、こんなことを考えながら、文帝紀や明帝紀を読み直してみるのも面白いです。


確か、秦の始皇帝の出生にも似たような話がありましたね。


                   委面如墨

【2933】Re:明帝曹叡は曹丕の子か?
 巫俊(ふしゅん)  - 2007/10/26(金) 15:19 -

引用なし
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   >この裴松之注は、意味がとりにくいのですが、次のようなことだろうと思います。
>
>文帝が甄后を娶ったのは建安九年だから、明帝は建安十年の生まれということになる。明帝は、青龍五年三月を景初元年四月とする(一ヶ月ずらした)改暦を行っているが、この改暦がなかったものとすると、明帝は景初二年十二月に崩御したことになる。しかし、これで計算した、建安十年から景初二年までの正味の年数は、三十四年にしかならない。改暦を計算に入れた見掛けの年数で計算しても三十五年である。魏志のいう「時年三十六」にはならない。
>
>裴松之の言っているのはこれだけです。分析結果を記述しているだけで、意見を述べているわけではありません。建安十年生まれか、年三十六か、どちらかが間違っているのだろうというニュアンスは感じられますが………

意味がとりにくい、
言い方をかえれば意図がとりにくいと表現してもいいと思います。
裴松之のコメントした意図が、ですね。
私は曹叡の種(Y染色体)が業βの陥落以前に甄后の子宮に入ったという立場に、裴松之が立っていたとは思っていません。
「三十六歳にはならない。」と言っているコメントが裴松之の結論であると思います。

確かに「ただの分析結果」を記述しただけと考えることもできるでしょう。
文章は口承できない内容を書き留めるツールに過ぎませんから、文章を読み取る受け手の判断で裴松之の意図の判断も変わってくるでしょう。

私としては、裴松之が魏朝の国体を「批判」したとは考えられないんです。
三十六歳説が何を意味するか分かっておられますか?
天子の血の系譜にいちゃもんをつけているんですよ。
そのいちゃもんが真実であったとしても、それは血の系譜の論理からすればいちゃもんなんです。

私も反権威的な人間なものですから、仮に委面如墨さんが権威くそくらえ、曹操の孫じゃないじゃん、とかおっしゃったとしても別に構わないのですが、朝命を蒙って正史に注を加筆し『三国志注』を皇帝に献上した裴松之に、その覚悟があったとは思えないですね。


>どうも私は“権威”といわれているものが信用できなくて(笑)
>それはさておき、ここで問題になるのは、三十六という歳が、どこから出てきたかでしょう。つまり、魏朝の記録によったにか、それとも、晋代に陳寿が三国志を記述するときに計算したものかということになりますが……
>
>魏朝の記録によったのであれば、この部分の『三国志』の記事が混乱をきたしているとしても、その原因を「魏の暦の正確な知識が晋代の士大夫のあいだで不足し」ていたことに持っていく訳にはいかないと思います。

ですから、魏朝の記録によったとしましてですよ、それを訂正したり三十六歳の記録との矛盾を回避できなかったとしたら、それは「魏の暦の正確な知識が晋代の士大夫のあいだで不足し」ていたことで通るじゃじゃないですか。
「晋代の士大夫のあいだ」であって「晋代の士大夫すべて」とは言ってないですからね。
王朝の暦数と皇帝の歳数が矛盾する、そうした事態に出会ったのが張華であれ陳寿であれ、矛盾に出会っておいて加筆訂正しなかったのであれば、暦の正確な知識が無いものと思われても仕方のないことです。

>しかし、この数字は魏朝の記録でなく晋代に計算されたものということも考えにくい。皇帝の崩御の歳を魏朝が記録に留めなかったということは、なさそうに思えます。といって、記録はあったが、それを陳寿なり当時の士太夫なりが計算しなおして改変した、というのも変ですね。

崩御の歳は記録されていますよ。○○元年とか××二年とかいう形式ですけどね。


>南朝宋の朝廷でそのようなことがあったかも知れませんが……
>裴松之は、この明帝崩御の項の注以外に「南朝宋の朝廷で騒ぎになっていた」ことをどこかに書いているのでしょうか???

どこかに書いてある訳では無いですが、私の判断です。
先日のレスは「思い浮かぶ」ことだけを書いたので日本語の使い方が適当でしたね。すいません。

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