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辺境の事例ですが・・・
籾山明著『漢帝国と辺境社会』中公新書 1999、
に、河西地方(武威郡から敦煌郡にかけての地域)の関所についての記事があります。それによると(P74〜P76):
河西にあった関としては、次の四つが知られているそうです。
エチナ河流域:
居延懸索関
所在地は推定されているが確定に至っていない。
肩水金関
学術的な調査がなされている。
疏勒河流域:
玉門関
所在地について議論がある。
いまだに決着が付いていない。
陽関
所在地は諸説ほぼ一致している。
十分な調査は行われていない。
肩水金関については、復元図と構造の説明があります。
抜粋要約すると
建物は、大きく分けて、関城(全体をとり囲む城壁、長城)、塢(居住区)、烽火台の三つの部分から成っている。
北側が関城で、関門が開いている。
門の両側には楼櫓が向かい合って建っている。
楼櫓の基底部は左右とも、六・五メートル×五メートル、
間を通る道の幅は五メートル、
楼櫓上には門楼があったものと推定されている。
関門を入った西南に塢がある。
塢内の西南の一角に烽火台がそびえている。
塢壁の規模は
北側で三十六・五メートル
東側は残長二十五メートル
東南のかどに入口があり、壁の内外に小部屋が並ぶ。その一部は厩だった。
烽火台は、全体の大きさ十三メートル×十二・五メートル。
望楼と塢からなる。
出土遺物から推定すると、内部は倉庫や執務室だったようである。
P76 に「符」(通行証)の写真があります。
あと、同書 P171 に玉門関の「致」(短距離旅行者用のパスポート)の記事があります。
委面如墨
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