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【1899】周瑜の命日について YHK 2005/8/8(月) 12:36 初心者質問

【1920】資治通鑑では。 清岡美津夫 2005/8/13(土) 19:29 ひと言
┣ 【1923】Re:資治通鑑では。 孫ぽこ 2005/8/14(日) 21:52
┗ 【1940】Re:資治通鑑では。 NAGAICHI Naoto 2005/8/21(日) 4:50
┗ 【1948】三国演義の嘉靖本 清岡美津夫 2005/8/25(木) 11:54
┗ 【2213】三国演義の葉逢春本 清岡美津夫 2006/2/5(日) 23:43 追記
┗ 【2231】Re:三国演義の葉逢春本 清岡美津夫 2006/2/19(日) 12:12 解決

【1920】資治通鑑では。
ひと言  清岡美津夫 E-MAILWEB  - 2005/8/13(土) 19:29 -

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   こんばんわ、清岡です。
とりあえず三国演義を当たってみたんですが、見あたらないですね。
資治通鑑を見てみると、210年12月の項目に周瑜死去の話がありました。
(日付は書かれてません)
ここらへんの根拠は資治通鑑の考異や胡三省の注に書いているんでしょうかね。

【1923】Re:資治通鑑では。
 孫ぽこ WEB  - 2005/8/14(日) 21:52 -

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   ▼清岡美津夫さん:
>こんばんわ、清岡です。
>とりあえず三国演義を当たってみたんですが、見あたらないですね。
>資治通鑑を見てみると、210年12月の項目に周瑜死去の話がありました。
>(日付は書かれてません)
>ここらへんの根拠は資治通鑑の考異や胡三省の注に書いているんでしょうかね。

資治通鑑にありましたか。
その根拠が知りたい所ですねぇ。もし12月死去だとしたら、魯粛の江陵立ち退きは周瑜死去直後って事になりますね。うーむ。

【1940】Re:資治通鑑では。
 NAGAICHI Naoto WEB  - 2005/8/21(日) 4:50 -

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   井波律子訳『三国志演義4』(ちくま文庫)の第五十七回によると、
「建安十五年(210)冬、十二月三日」とあるのは、嘉靖本演義のようですね。
毛宗岡本にはないってことかな。

正史の呉主伝を信じるなら、魯粛が漢昌郡太守となり、陸口に駐屯したのは建安十五年のこと。

通鑑の記事は次の順に並んでますが、時間順の根拠はよく分かりません。
十五年冬、曹操の銅雀台建設。
十二月己亥、曹操「漢征西将軍曹侯の墓」発言(ちなみにこの歳の十二月己亥は存在しない月日)。
京口会見。
周瑜の死。
魯粛が奮武校尉、周瑜に代わって兵を領す。程普が南郡太守となる。
魯粛が漢昌郡太守となり、陸口に駐屯。

通鑑考異は、「江表伝に按ずるに、周瑜と孫策が同年で、孫策は建安五年に二十六歳で死に、周瑜はときに三十六歳だったので、今年(建安十五年)にあると知れる」としか書いてません。
胡三省注は巴丘の地理を考察してるだけなので、今回の話題とは無関係と思います。

以上、役に立たない情報ですが、ご笑納ください。

【1948】三国演義の嘉靖本
 清岡美津夫 E-MAILWEB  - 2005/8/25(木) 11:54 -

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   こんにちわ、清岡です。

▼NAGAICHI Naotoさん:
>井波律子訳『三国志演義4』(ちくま文庫)の第五十七回によると、
>「建安十五年(210)冬、十二月三日」とあるのは、嘉靖本演義のようですね。
>毛宗岡本にはないってことかな。

なるほど、三国演義の嘉靖本の方に書かれているのですね。
もっとたどれるかもしれませんが、これほど知られた命日なので、妙に納得してしまいました。
どうもありがとうございます。

>正史の呉主伝を信じるなら、魯粛が漢昌郡太守となり、陸口に駐屯したのは建安十五年のこと。
>
>通鑑の記事は次の順に並んでますが、時間順の根拠はよく分かりません。
>十五年冬、曹操の銅雀台建設。
>十二月己亥、曹操「漢征西将軍曹侯の墓」発言(ちなみにこの歳の十二月己亥は存在しない月日)。
>京口会見。
>周瑜の死。
>魯粛が奮武校尉、周瑜に代わって兵を領す。程普が南郡太守となる。
>魯粛が漢昌郡太守となり、陸口に駐屯。
>
>通鑑考異は、「江表伝に按ずるに、周瑜と孫策が同年で、孫策は建安五年に二十六歳で死に、周瑜はときに三十六歳だったので、今年(建安十五年)にあると知れる」としか書いてません。
>胡三省注は巴丘の地理を考察してるだけなので、今回の話題とは無関係と思います。
>
>以上、役に立たない情報ですが、ご笑納ください。

なるほど通鑑考異には月日までは書かれていないのですね。
こちらも見てくださってありがとうございます。
大体、どの月ぐらいか(あるいは出来事の順序)は別の史書をあたった方がよいですかね。

【2213】三国演義の葉逢春本
追記  清岡美津夫 E-MAILWEB  - 2006/2/5(日) 23:43 -

引用なし
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   ▼清岡美津夫:
>▼NAGAICHI Naotoさん:
>>井波律子訳『三国志演義4』(ちくま文庫)の第五十七回によると、
>>「建安十五年(210)冬、十二月三日」とあるのは、嘉靖本演義のようですね。
>>毛宗岡本にはないってことかな。
>
>なるほど、三国演義の嘉靖本の方に書かれているのですね。
>もっとたどれるかもしれませんが、これほど知られた命日なので、妙に納得してしまいました。
>どうもありがとうございます。

嘉靖本を見つけだすために、ネットで「祭天地桃園結義」と検索したら、代わりに葉逢春本のDigital Imagesを見つけました。
※葉逢春本については清岡は詳しくないので、フォローよろしくです。

・BabelStone
http://www.babelstone.co.uk/index.html
※ここの→「Ye Fengchun Edition」→「Table of Contents」

で、早速、周瑜の亡くなるところ(諸葛亮三氣周瑜)を探していたのですが、亡くなるページが「NOT PHOTOGRAPHED」とでてきました(汗)
それでも周瑜が孫権にあてた遺書に今の三国演義(中央研究院のやつです。毛宗岡本?)にはない「至建安十五年冬十二月朔周瑜謹書」の文字を見つけました。
建安十五年冬十二月朔(一日)に書かれたってことですね。

【2231】Re:三国演義の葉逢春本
解決  清岡美津夫 E-MAILWEB  - 2006/2/19(日) 12:12 -

引用なし
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   さっき書店によってきたんですが、三国演義の葉逢春本が関西大学出版部から「三國志通俗演義史傳」(上下巻)というタイトルで出ています。それは葉逢春本の写し(挿絵もある)と活字なんですが(訳ではありません)、該当部分を確認しました。

而亡壽年三十六時建安十五年冬十二月初三日也

とばっちり書いておりました

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