三国志ファンのためのサポート掲示板 ※共同掲示板。話題は三国志関係。横レス歓迎。初心者モードの質問からマニアックな雑談まで
  新規投稿 ┃ツリー ┃スレッド ┃一覧 ┃トピック ┃番号順 ┃検索 ┃設定 ┃ルール ┃外部カレンダ ┃フロント  
443 / 662 ツリー ←次へ前へ→

【1788】三国時代に定年があったのかどうか げんりゅう 2005/6/25(土) 17:33 教えて
┣ 【1817】孫資、劉放之匹 清岡美津夫 2005/7/5(火) 22:35 ひと言
┗ 【1818】Re:三国時代に定年があったのかどうか 左平(仮名) 2005/7/9(土) 19:38 ひと言
┗ 【1821】Re:三国時代に定年があったのかどうか げんりゅう 2005/7/11(月) 3:30

【1788】三国時代に定年があったのかどうか
教えて  げんりゅう WEB  - 2005/6/25(土) 17:33 -

引用なし
パスワード
   ただいま趣味で、曹操挙兵の功労者である衛茲の一族についてペラペラ本をめくっていたのですが、その衛茲の子衛臻の記述を見ていて、ちくまの『正史三国志』巻1「斉王紀」の297頁に、

「(略)孫資が、(略)劉放が、(略)衛臻が、それぞれ退官し、諸侯の爵位のまま私邸に帰り、特進の位を授かった。」

とありました。
原文では「遜位」という言葉が退官にあたるようで、『新字源』によると遜位とは「位を去る、位をゆずる」とあり彼らは自ら官を退いたようですが、何故彼らは一斉に退いたのでしょうか?
当時の情勢に嫌気がさしてなのであれば特進といった厚遇もないような気がするので、現代のように定年があったのかなぁと思い巡らしているのですが。ご教授よろしくお願いします。

【1817】孫資、劉放之匹
ひと言  清岡美津夫 E-MAILWEB  - 2005/7/5(火) 22:35 -

引用なし
パスワード
   こんばんわ、清岡です。
劉放と孫資に関しては三国志魏書の劉放伝に同じ事項が載っていて、

七年、復封子一人亭侯、各年老遜位、以列侯朝朔望、位特進。

とあって、一応、理由は老年によるものになってますね(この後、復帰しますが)。
表向き、定年ってあるんでしょうかね?(もっともこの二人だから裏の意味をくみ取れそうですね)
「遜位」は私の手元の「字通CD-ROM版」でも意味は「位を譲る」となっています。例文は後漢書本紀の献帝が皇帝の位をゆずる文です。

【1818】Re:三国時代に定年があったのかどうか
ひと言  左平(仮名)  - 2005/7/9(土) 19:38 -

引用なし
パスワード
   ▼げんりゅうさん:
>現代のように定年があったのかなぁと思い巡らしているのですが。ご教授よろしくお願いします。

どの程度お役に立つかは分かりませんが、宮城谷氏の「子産」の中で、苗賁皇の年齢について考察するくだりとして、「−大夫は七十にして事を致す。と『礼記』にあるように〜」と書かれてます。
「事を致す」というのは「致仕」という言葉に置き換えられますが、この「致仕」
に官職を辞するという意味がありますので、礼としては、七十が引退の一つの目安と言えそうですね。

なお、中央研究院のサイトで『礼記』を検索しましたら、巻一の「曲礼(※サイトではは正字で『曲禮』と書かれてます)」に先の言葉がありました。

【1821】Re:三国時代に定年があったのかどうか
 げんりゅう WEB  - 2005/7/11(月) 3:30 -

引用なし
パスワード
   清岡美津夫さん、左平(仮名)さん、ご教授ありがとうございました!
70歳が引退・定年だとすると、現代と通じそうな気がして興味深いですね。他の人物の年齢と比較すれば何か新発見があるかもしれません。人物の年齢を調べるのも楽な作業ではないとは思いますが・・・地道にやっていけたらいいなと思っています。


話は戻りますが最初の書き込みで、自分で「当時の情勢に嫌気がさしてなのであれば特進といった厚遇もないような気がするので」と言っていたのですが、「劉放伝」にある『世語』と『孫資別伝』を見ると、どうもただ単に定年のようなものだけではないのかなと思いました。

劉放と孫資が曹芳の後釜として曹爽を推挙するも、その曹爽の政治に孫資は不満を持っていることが『孫資別伝』では読み取れます。
情勢にも不満を持っていたみたいですね。そうすると孫資がまず退官し、同じく曹爽を推挙していた劉放も責任を感じ退官したのではないかと。
孫資と劉放はよくペアで記述されているので同じ理由で退官したのではないかなと考えます。

また孫資・劉放・衛臻の子らは「三豫」としてまとめて呼ばれていたことを考えると、孫資ら3人が記述はないものの親密な関係であったのではないかと想起されます。
そうすると衛臻も合わせその3人は、意を同じくして退官したのかもしれません。

さらに曹爽が弟のために嫁を求めたことに対して拒否しているのに、「衛臻伝」の注を見ると、衛臻の子が司馬懿の子である司馬亮の妻になっていることが確認でき、衛氏と司馬氏が血縁関係であったことがわかります。
この女子が同一人物とは思いませんが、少なからず衛臻が司馬氏派であったことは間違いないようです。
孫資らが退官した次年に司馬懿がクーデターを起こしている点、何か伏線があるような気がします・・・。

  新規投稿 ┃ツリー ┃スレッド ┃一覧 ┃トピック ┃番号順 ┃検索 ┃設定 ┃ルール ┃外部カレンダ ┃フロント  
443 / 662 ツリー ←次へ前へ→
ページ:  ┃  記事番号:   
503,456
(SS)C-BOARD v3.8 is Free