|
仁さん、こんにちは。
>呉書の孫堅伝の方で、董卓討伐軍の最中、袁術が孫堅を疑って兵糧を送らなくなり、孫堅は前線から駆け付けて袁術に誠意を訴えてまた戻っていったとありますが、その時期がいつぐらいにあたるのか教えて下さい。
これは陽人の戦いがあったのが初平二年二月、董卓の長安入りが四月ですから、その間のことです。補給が断たれたとき孫堅は陽人にいたと明記されています。陽人のあと大谷や洛陽でも戦闘がありましたので、それも早い時期でしょう。
>※歴史群像シリーズの文中で(今どれだったか確認してますが)[各隹]陽入りしたが、兵糧不足で仕方なく撤退したと書かれていたところがあり、
洛陽が解放されれば河内や酸棗の諸将と合流できるのですから、これはかなり無理があるお話です。むしろ孫堅の留守をついて周グが予州入りしたからではないかと私は思います。
>もしよろしければ、孫堅と袁術の立場から起こる確執やその可能性なども書いて頂けると助かります。
袁術と孫堅の間には最後まで確執らしい確執はなかったように思います。「江表伝」では孫堅が洛陽入りをはたせば制御できなくなると誣告されたからだとしていますが、これは袁術が自分で部下に与えた権力を自分で恐れるという無茶な話で、なかなか採用しがたいものがあります。このころ董卓が孫堅を買収しようとしているので、そのため警戒されたとみた方がいいのではないでしょうか。
|
|