三国志ファンのためのサポート掲示板 ※共同掲示板。話題は三国志関係。横レス歓迎。初心者モードの質問からマニアックな雑談まで
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【417】自己紹介と質問 2003/11/18(火) 11:38 初心者質問
┗ 【423】Re:自己紹介と質問 むじん 2003/11/19(水) 6:36
┣ 【431】Re:自己紹介と質問 2003/11/20(木) 0:31 感謝♪
┃┗ 【434】補足説明(横レスです) 清岡美津夫 2003/11/20(木) 7:46
┃┗ 【436】Re:補足説明(横レスです) 2003/11/20(木) 15:39 感謝♪
┃┗ 【438】魏略ーっ 清岡美津夫 2003/11/20(木) 23:41 お答え
┃┗ 【445】Re:魏略ーっ 2003/11/23(日) 18:17
┃┗ 【460】華陽国志 清岡美津夫 2003/11/30(日) 12:52 紹介
┃┗ 【466】Re:華陽国志 2003/11/30(日) 20:55
┃┗ 【469】ファン今昔 清岡美津夫 2003/12/2(火) 18:56 雑談
┗ 【440】Re:自己紹介と質問 むじん 2003/11/21(金) 2:50
┗ 【446】ありがとうございます! 2003/11/23(日) 18:43
┗ 【452】Re:ありがとうございます! むじん 2003/11/26(水) 9:17
┗ 【453】Re:ありがとうございます! 2003/11/28(金) 15:48

【417】自己紹介と質問
初心者質問   E-MAIL  - 2003/11/18(火) 11:38 -

引用なし
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   はじめまして、ナツミと言います!
三国志にはゲームではまって今は三国志英傑伝と言う、正史を訳したものを少しずつ読んでいます。中国史は三国志が初めてで何も知らない事ばかりなのでこちらで色々な話が聞けたらと思ってカキコさせて頂きました!

○初心者質問○
 三国志を読んでいて思ったのですが、魏の張コウが死んだときの話、
「撤退する蜀軍を司馬懿に追えと言われ、張コウは反対したが司馬懿が聞き入れなかったためやむなく追撃し、矢を右ひざに受けて死んだ」
とあったのですが、司馬懿はおそらく張コウ以上の軍略家で、孫子を読んでいたならば、逃げる敵を追ってはならないという事を知っていたはずなのに、何故これを追わせしめたのでしょうか・・・。
別の文献で
「張コウと言う名将を死なせた事は司馬懿の大失策である」
とあったのですが、これは司馬懿の失策だったのでしょうか。司馬懿ほどの軍師がそんな失敗をするようにはどうも思えません。

この話しについて、詳しく知っている方、またそれについての考えがある方、聞かせてやって下さい。

【423】Re:自己紹介と質問
 むじん E-MAILWEB  - 2003/11/19(水) 6:36 -

引用なし
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   はじめまして。

>「撤退する蜀軍を司馬懿に追えと言われ、張コウは反対したが司馬懿が聞き入れなかったためやむなく追撃し、矢を右ひざに受けて死んだ」
>とあったのですが、司馬懿はおそらく張コウ以上の軍略家で、孫子を読んでいたならば、逃げる敵を追ってはならないという事を知っていたはずなのに、何故これを追わせしめたのでしょうか・・・。

『孫子』は戦争における理論を書いた書物ですが、実際の戦場では理論通りに運ばないこともよくあります。

たとえば袁尚の留守をついて曹操がギョウを襲撃したとき、諸将は「帰師避くべし」と主張しましたが、曹操は「大道より来たれば避くべし、西山より来たれば擒と成るのみ」と言って迎撃し、その言葉通り、袁尚は大敗しました。

諸葛亮が馬謖を先陣として街亭に派遣したとき、馬謖は山上に砦を構築して張コウを防ごうとしました。『孫子』の説く「高きを好みて下きを悪む」の理論に沿ったものでしたが、張コウは水汲みの道を遮断して包囲し、馬謖は敗北しました。

黄巾の乱に乗じ、涼州の王国が反逆して陳倉城を包囲したとき、皇甫嵩・董卓が陳倉解放を命じられました。王国が逃走しようとしたとき、董卓が「窮寇追うなかれ、帰衆迫るなかれ」と主張するのも聞かず、皇甫嵩は「帰衆にあらず、窮寇にあらず」と言って追撃し、斬首一万以上の戦果を出しました。

戦いはそのときそのとき状況が変わってくるので、理論通りにはならない場合もあり、まさに馬謖はセオリーに固執したため敗北したのでした。

司馬懿と張コウの件ですが、『諸葛亮伝』注の『漢晋春秋』によると、むしろ張コウの方が急進的で、司馬懿が彼らの出撃を押しとどめようとしています。『魏略』の方が面白いエピソードですが、『漢晋春秋』の方が前後の筋道立っているように思います。

【431】Re:自己紹介と質問
感謝♪   E-MAIL  - 2003/11/20(木) 0:31 -

引用なし
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   色々な例を元に詳しく教えて下さってありがとうございました。
孫子や歴史書の言葉も、まだ全然文章でしか理解できていないので多くの事柄を聞かせて頂けてうれしかったです。

>司馬懿と張コウの件ですが、『諸葛亮伝』注の『漢晋春秋』によると、むしろ張コウの方が急進的で、司馬懿が彼らの出撃を押しとどめようとしています。

本によって歴史が異なるという事がとても気になりました。
魏略と、お勧め頂いた漢晋春秋ともに探そうと思います。
返信下さってありがとうござました!

【434】補足説明(横レスです)
 清岡美津夫 E-MAILWEB  - 2003/11/20(木) 7:46 -

引用なし
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   はじめまして。
三国志英傑伝は読んだこと、ないですけど、三国志(ファンの間では「正史」と呼ばれる)の一部、訳した本だということは知ってます。初読みは意外な発見があったりと楽しいんですよねー

▼夏さん:
>「撤退する蜀軍を司馬懿に追えと言われ、張コウは反対したが司馬懿が聞き入れなかったためやむなく追撃し、矢を右ひざに受けて死んだ」

三国志はたいてい、裴松之という人の注釈がセットになって載ってます。それで日本語に訳したやつもその注釈が入ってることがおおいですね。
この注釈というのが、「○○という書物ではこう書いているよ」っていう感じです。
それで夏さんのおっしゃっている「張コウの反対」ってのは三国志の本文ではなくて、三国志魏書の張コウ伝の注釈でして、「魏略」という本から引用してます
それで、むじんさんのおっしゃっている「漢晋春秋」というのは三国志蜀書の諸葛亮伝の注釈にでてくるやつです。
(三国志本文は簡素な文なんで、注釈で補う形ですかね)

なので、このツリーに話題にあがっている書物は、三国志と裴松之の注釈が全部、載った本だと見ることができますよ。
[#T285]
▲全訳本はここを参照にしてくださいね

【436】Re:補足説明(横レスです)
感謝♪   E-MAIL  - 2003/11/20(木) 15:39 -

引用なし
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   ありがとうございます!
三国志は国と国が相互に交じり合った歴史なので、両方の見方をしっかり認識するためにも多くの本を読もうと思うのですが、その中で魏略専門の読みやすい注釈本などないでしょうか・・・
以前ネットで魏略を調べてみても魏志倭人伝・卑弥呼関係ばかり出て魏略が全然引っかかりませんでした。もしかして魏略だけの注釈本はない・・・?

魏略でお勧めがあったらどうか是非教えて下さい!

【438】魏略ーっ
お答え  清岡美津夫 E-MAILWEB  - 2003/11/20(木) 23:41 -

引用なし
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   ▼夏さん:
>ありがとうございます!
>三国志は国と国が相互に交じり合った歴史なので、両方の見方をしっかり認識するためにも多くの本を読もうと思うのですが、その中で魏略専門の読みやすい注釈本などないでしょうか・・・

そうそう、そこなんですよね。三国志のおもしろいところは。少なくとも歴史の視点が三つあるというかなんというか。
歴史書の「三国志」自体、いろんな書物を参考にして作られているみたいなので、同じ出来事でも魏書、蜀書、呉書、それぞれで記述が微妙にちがったりして、おもしろいです。
ちなみに先に話題に上っていた「漢晋春秋」は蜀を正統としている歴史書らしいですよ。後漢・献帝→蜀・劉備という流れだそうで。

>以前ネットで魏略を調べてみても魏志倭人伝・卑弥呼関係ばかり出て魏略が全然引っかかりませんでした。もしかして魏略だけの注釈本はない・・・?

実は本どころか「魏略」自体、一部しか現存してないんです(涙)
(多分、その手の本はないです。あと「漢晋春秋」も現存してなさそうです)
多分、三国志の注(注釈)に引かれている分しか残っていないのでしょうね。

筑摩の三国志訳本の付録「裴松之注引用書目」によると、「魏略」には「内容が雑多で何もかも記載しようとするという批判」(唐の劉知幾の「史通」より)があるらしいですけど、逆にいうと、いろんなエピソードが載っているってことなんで、現存すれば、かなり三国志の人物のいろんな面がかいま見えたと思います。

卑弥呼関係がでてくるのは魏志倭人伝というか三国志魏書東夷伝の注釈で、魏略が引用されている関係でしょうね。

【440】Re:自己紹介と質問
 むじん E-MAILWEB  - 2003/11/21(金) 2:50 -

引用なし
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   補足説明です。

>たとえば袁尚の留守をついて曹操がギョウを襲撃したとき、諸将は「帰師避くべし」と主張しましたが、曹操は「大道より来たれば避くべし、西山より来たれば擒と成るのみ」と言って迎撃し、その言葉通り、袁尚は大敗しました。
これは文意不明ですね。「袁尚の留守をついて曹操がギョウを襲撃したとき、ギョウを救うべく袁尚が引き返してきたので…」と読んでください。

>諸葛亮が馬謖を先陣として街亭に派遣したとき、馬謖は山上に砦を構築して張コウを防ごうとしました。『孫子』の説く「高きを好みて下きを悪む」の理論に沿ったものでしたが、張コウは水汲みの道を遮断して包囲し、馬謖は敗北しました。
馬謖の失敗としてよく取り上げられるシーンですが、そもそもこの作戦目的がなんだったのかはっきりさせないと、本当に失敗しているのかどうか不明のままです。言い換えると、馬謖が山麓に布陣して張コウを防ぎきったとして、どうしてそれが成功なのかがいまいち分からない…。

>黄巾の乱に乗じ、涼州の王国が反逆して陳倉城を包囲したとき、皇甫嵩・董卓が陳倉解放を命じられました。王国が逃走しようとしたとき、董卓が「窮寇追うなかれ、帰衆迫るなかれ」と主張するのも聞かず、皇甫嵩は「帰衆にあらず、窮寇にあらず」と言って追撃し、斬首一万以上の戦果を出しました。
このとき計略が外れたので、恥ずかしく思った董卓は皇甫嵩を逆恨みするように…(^^;

以下、おまけ。

>司馬懿と張コウの件ですが、『諸葛亮伝』注の『漢晋春秋』によると、むしろ張コウの方が急進的で、司馬懿が彼らの出撃を押しとどめようとしています。『魏略』の方が面白いエピソードですが、『漢晋春秋』の方が前後の筋道立っているように思います。
『三国志集解』に面白いことが書いてあります。
まず『太平御覧』を引用して曰く…。
>> 夏六月、諸葛亮は食糧が底をついたので撤退した。青封木門まで来たところで軍を止め、大きな木があったので皮を削り、「張コウ、この樹の下に死す」と書きました。そして左右の山に伏兵を設けます。張コウが追いかけてきて、その木を見た瞬間、諸葛亮の伏兵が一斉に矢を放ち、張コウは死んでしまいました…。
こりゃホウ涓の最期とおんなじですがな。

つづいて『資治通鑑』に注釈を施した胡三省の解釈。
>>司馬懿は心底諸葛亮を恐れていたし、それに張コウが二度も諸葛亮を防ぎ、関中で名声を挙げていたので、彼の計略を聞き入れたくなかったのだ…。
司馬懿の気持ちをそんな風に決めつけられても…。

【445】Re:魏略ーっ
  E-MAIL  - 2003/11/23(日) 18:17 -

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   >実は本どころか「魏略」自体、一部しか現存してないんです(涙)

そうなんですか!
す、すみません、すごいショック・・・
小説やドラマなどで多く取り上げられる三国志なので、とても身近に感じていたのですが、やはり三国志は1800年も昔の話なのだ、と感じてしまいます。
でもこれからも教えて頂いた本など探して地道に知識を増やしていきたいです!
レスありがとうございました。

【446】ありがとうございます!
  E-MAIL  - 2003/11/23(日) 18:43 -

引用なし
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   補足説明ありがとうございます!
とっても分かりやすかったです

>>> 夏六月、諸葛亮は食糧が底をついたので撤退した。青封木門まで来たところで軍を止め、大きな木があったので皮を削り、「張コウ、この樹の下に死す」と書きました。そして左右の山に伏兵を設けます。張コウが追いかけてきて、その木を見た瞬間、諸葛亮の伏兵が一斉に矢を放ち、張コウは死んでしまいました…。
>こりゃホウ涓の最期とおんなじですがな。

張コウの進軍は、やはりそれが即ち死を意味していたのでしょうか。
だから諸葛亮も、彼の死を予言するような事を記した、と感じました。

>つづいて『資治通鑑』に注釈を施した胡三省の解釈。
>>>司馬懿は心底諸葛亮を恐れていたし、それに張コウが二度も諸葛亮を防ぎ、関中で名声を挙げていたので、彼の計略を聞き入れたくなかったのだ…。
>司馬懿の気持ちをそんな風に決めつけられても…。

司馬懿がそんな私情を挟むような理由で張コウを進軍させる、と言うことは考えられるんでしょうか、
司馬懿が味方を斬った例は私も曹爽や孟達を知っているんですが、どちらの場合も魏に仇なす人間だから、と言う理由でしたよね
もし張コウの時もこれと同じで、何らかの理由があって味方を斬りざるをえなかった、という風に考えるとしても、その理由はいったいなんだったのでしょう。

張コウが生前、曹爽らのように国内を乱すような行いをしたという話は書かれていませんでしたし(そもそも内政にはほとんど触れていない?)対蜀に対しても献身したという風にしか書かれていませんでした。
やはり、もし司馬懿が張コウを殺すために進軍命令を出したと考える場合、その理由は今回書いて下さった「資治通鑑に注釈を施した胡三省の解釈」と同じように、司馬懿の私情、私怨によったものと考えるしかないのでしょうか。

【452】Re:ありがとうございます!
 むじん E-MAILWEB  - 2003/11/26(水) 9:17 -

引用なし
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   こんにちは。

>>こりゃホウ涓の最期とおんなじですがな。
>張コウの進軍は、やはりそれが即ち死を意味していたのでしょうか。
>だから諸葛亮も、彼の死を予言するような事を記した、と感じました。
実はこの話、孫子の子孫である孫ピンがホウ涓を殺したときと同じ筋立てなんですよ。どうも登場人物を入れ替えただけでストーリーを盗用したんじゃないか、と…。それに、このとき諸葛亮は作戦がうまくいってなかったから、こんなことする余裕はなかったはずなんですね。張コウ一人殺したところで北伐作戦が成功するわけじゃないので。
【私説十八史略】http://plaza26.mbn.or.jp/~pata/s18_013.html

>張コウが生前、曹爽らのように国内を乱すような行いをしたという話は書かれていませんでしたし(そもそも内政にはほとんど触れていない?)対蜀に対しても献身したという風にしか書かれていませんでした。
>やはり、もし司馬懿が張コウを殺すために進軍命令を出したと考える場合、その理由は今回書いて下さった「資治通鑑に注釈を施した胡三省の解釈」と同じように、司馬懿の私情、私怨によったものと考えるしかないのでしょうか。
司馬懿は冷徹な軍略家のように見えて、意外と私情をはさむことも多いようです。予言書に「牛氏が馬氏の後を継ぐ」とあったので部下の牛金を毒殺したり、杜恕が司馬懿の弟を狂ったように身勝手と批判したので仲が悪くなり、おかげで杜恕の子杜預は出世が遅れたりしました。でも張コウに嫉妬したからといって戦場で恨みを晴らすようなことはしなかったと思うなぁ。

【453】Re:ありがとうございます!
  E-MAIL  - 2003/11/28(金) 15:48 -

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   >実はこの話、孫子の子孫である孫ピンがホウ涓を殺したときと同じ筋立てなんですよ。どうも登場人物を入れ替えただけでストーリーを盗用したんじゃないか、と…。それに、このとき諸葛亮は作戦がうまくいってなかったから、こんなことする余裕はなかったはずなんですね。

たしかにストーリーは面白いですが史実らしくはないですよね、
(源氏物語の真木柱の君みたい・・・ではないか)

>司馬懿は冷徹な軍略家のように見えて、意外と私情をはさむことも多いようです。予言書に「牛氏が馬氏の後を継ぐ」とあったので部下の牛金を毒殺したり、杜恕が司馬懿の弟を狂ったように身勝手と批判したので仲が悪くなり、おかげで杜恕の子杜預は出世が遅れたりしました。

すごいですね!
自分の子供に「謙虚に生きるのがよい」と教えていたと読んだことがあったので、温厚な人だったのかと思ったのですが、曹爽を撃った時は一族女どもも逃がすことなく討ち取った、とか公孫淵を打ち破った時も男子千余人を殺した死体で巨大な塚を作り、大臣から役人を皆殺し、将軍畢盛以下二千余人の武官を誅殺して見せしめとしたとか、とてつもない事実が書かれていて、驚いてしまいました。
曹操が案じていた「狼顧の相」はまさにその通りだったという事でしょうか

【460】華陽国志
紹介  清岡美津夫 E-MAILWEB  - 2003/11/30(日) 12:52 -

引用なし
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   ▼夏さん:
>>実は本どころか「魏略」自体、一部しか現存してないんです(涙)
>
>そうなんですか!
>す、すみません、すごいショック・・・

そうでしょうね。。。。
私も昔、韋昭撰「呉書」(三国志の呉書じゃなくて)が断片的しか残っていないって知ったときはショックでした(孫堅プッシュな文を読みたかった…)
孫[月賓]兵法みたいに、どこからか、出土されることをひそかに期待しておきましょう。


>小説やドラマなどで多く取り上げられる三国志なので、とても身近に感じていたのですが、やはり三国志は1800年も昔の話なのだ、と感じてしまいます。
>でもこれからも教えて頂いた本など探して地道に知識を増やしていきたいです!
>レスありがとうございました。

まぁ、想像する余地があるから、惹かれるのかもしれませんね。
(それでいろんな人が創作するおかげで楽しんでます♪)

そういや、残っているやつで魏サイドや呉サイドの史書は思いつかないんですが、蜀サイドのやつはあって、「華陽国志」といいます(というか、巴蜀の地方史らしいんですが)。本も訳サイトもありますよ。解説本はどうだったかわからないですが。
[#379]
▲参照。

【466】Re:華陽国志
  E-MAIL  - 2003/11/30(日) 20:55 -

引用なし
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   >そうでしょうね。。。。
>私も昔、韋昭撰「呉書」(三国志の呉書じゃなくて)が断片的しか残っていないって知ったときはショックでした(孫堅プッシュな文を読みたかった…)

孫堅様素敵ですよね、私も大好きです!全然詳しくはないんですが・・・
無双と言うゲームで孫堅を知りました、我が家ではパパと呼んでます。笑


>そういや、残っているやつで魏サイドや呉サイドの史書は思いつかないんですが、蜀サイドのやつはあって、「華陽国志」といいます(というか、巴蜀の地方史らしいんですが)。本も訳サイトもありますよ。解説本はどうだったかわからないですが。

呉と魏は好きなのですが蜀には何故か興味が・・・
蜀は人気ですよね!三国志演義が出た当時も、国民にすごい指示を受けたと、テレビで見ました。劇か何かで上演されたのでしょうか、
蜀と魏の戦いで、蜀が勝てば観客は大喜びし、魏が勝てば大泣したとか。
今の日本でもやっぱり蜀の方が人気なんでしょうかね

【469】ファン今昔
雑談  清岡美津夫 E-MAILWEB  - 2003/12/2(火) 18:56 -

引用なし
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   ▼夏さん:
>>そうでしょうね。。。。
>>私も昔、韋昭撰「呉書」(三国志の呉書じゃなくて)が断片的しか残っていないって知ったときはショックでした(孫堅プッシュな文を読みたかった…)
>
>孫堅様素敵ですよね、私も大好きです!全然詳しくはないんですが・・・
>無双と言うゲームで孫堅を知りました、我が家ではパパと呼んでます。笑

おっおっ、知ってますか?!
無双から孫堅を知ったって方が結構、いらっしゃるようで嬉しいですね。


http://www.geocities.co.jp/Playtown-Toys/9739/papaunion.htm
▲同盟もありますし(無双、蒼天含む)

>呉と魏は好きなのですが蜀には何故か興味が・・・
>蜀は人気ですよね!三国志演義が出た当時も、国民にすごい指示を受けたと、テレビで見ました。劇か何かで上演されたのでしょうか、
>蜀と魏の戦いで、蜀が勝てば観客は大喜びし、魏が勝てば大泣したとか。
>今の日本でもやっぱり蜀の方が人気なんでしょうかね

いつの時代か忘れましたけど、講談のことでしょうね、きっと。蜀=善玉、魏=悪玉の構図って。

私見ですけど、今の日本は一昔前まで、蜀に人気があるのが当たり前といった状況だったと思いますよ。
魏や呉サイドから描く作品(小説やマンガ)がほとんどなかったからなので、自然なことなのかなぁ、と思ってます。
今は蜀サイド以外の作品は結構あって、知名度もありますしね。
(例、魏サイドマンガ:蒼天航路  呉サイド小説:かぜ江)

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