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【1246】質問です 班固 2004/8/29(日) 22:21
┣ 【1248】Re:質問です ペテン師 2004/8/30(月) 0:58 多分…
┣ 【1251】三国志のおもしろさ KJ 2004/8/30(月) 18:30
┗ 【1270】Re:質問です 白崎ゆきと 2004/9/5(日) 21:34

【1246】質問です
 班固  - 2004/8/29(日) 22:21 -

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   はじめまして。
突然ですが、何故曹操や孫権は後漢朝廷の味方をしたのでしょう?一国の主を目指して戦う豪族の頭が、黄巾の乱によって弱っている漢朝廷を、流れに乗じて倒してしまおうと考えたりしないものでしょうか?

【1248】Re:質問です
多分…  ペテン師  - 2004/8/30(月) 0:58 -

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   ▼班固さん:
>はじめまして。
>突然ですが、何故曹操や孫権は後漢朝廷の味方をしたのでしょう?一国の主を目指して戦う豪族の頭が、黄巾の乱によって弱っている漢朝廷を、流れに乗じて倒してしまおうと考えたりしないものでしょうか?

曹操や孫堅はその当時はまだまだ弱小や零細と言って良いくらいの実力しか持っていませんでした。
曹操は袁紹の配下の一武将でしかありませんし孫堅に至ってたは前線投入されるだけの使い捨てのコマ程度の勢力です。
それなりにバックボーンのある身分で袁紹や袁術という名門の大姓で多少の憚りをもっていたのが実情です。
いくら形骸化しているとはいっても皇帝を擁立していて戦うには官軍として旗を持つことが出来、反逆者は賊軍としての汚名を被らないといけないのはもとより配下の豪族とかの離反を招くことを覚悟しないといけないのです。
あの袁紹でさえ献帝を曹操が自軍に引き入れて官軍の名乗った時に自分の勢力に近いところに移すように曹操に持ちかけています(奪うために)
袁術に至っては雷薄・周喩・魯粛・陳珪・孫策などといったメンバーが皇帝を名乗る前後から離反したり招きに応じなかったりしています。
それらのことを考えると非常にハイリスクなことだといえるのではないでしょうか
実際、曹操も魏を建国してからも何回も造反されてますし…

【1251】三国志のおもしろさ
 KJ E-MAILWEB  - 2004/8/30(月) 18:30 -

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   ▼班固さん:
>はじめまして。
>突然ですが、何故曹操や孫権は後漢朝廷の味方をしたのでしょう?一国の主を目指して戦う豪族の頭が、黄巾の乱によって弱っている漢朝廷を、流れに乗じて倒してしまおうと考えたりしないものでしょうか?

「後漢朝廷を味方にした」というよりも、そもそも敵味方の区別はしていなかったと思います。彼らはこの世に生を受け、混乱した社会の有様を直視し、理想の社会づくりを目指して、自ら世直し運動を実践していったのだと思います。

為政者に国を治める力が不足していれば、力のあるものが代わりに行うべきだと思います。しかし、そのとき必ずしも新たな王朝を建てる必要はなく、落ちた権威を回復させて為政者を補佐することでも、世直し運動の実践になります。

また、後漢王朝は、政治を補佐する立場の人間がその責任をまっとうしなかったために、社会秩序を維持することができなくなり、政権者として弱ってしまいました。このような状態にあるとき、曹操や孫権らが「後漢を立て直す」のではなく「後漢を倒す」ことを考えていたとしたら、政治を補佐する立場にあってその責任をまっとうしなかったヤカラよりも悪人とみなされてしまいます。

曹操や孫権は皇帝になりたかったのではなく、混乱した世の中を元に戻したい、あるいは、より理想な世の中にしたい、と考えていたのだと思います。曹操が生涯を通じて漢の臣であることにこだわり続けたこと、孫権が魏・蜀に続いてすぐさま皇帝を名乗らなかったこと、それを考えると三国志が単なる国取りゲームではなかったのだと改めて実感できると思います。

【1270】Re:質問です
 白崎ゆきと E-MAIL  - 2004/9/5(日) 21:34 -

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   > 何故曹操や孫権は後漢朝廷の味方をしたのでしょう?一国の主を目指して戦う豪族の頭が、黄巾の乱によって弱っている漢朝廷を、流れに乗じて倒してしまおうと考えたりしないものでしょうか?

その最大の理由は当時の世論にあるでしょうね。
後漢時代は儒学を中心とした学問が盛んになった時代なのですが、後漢朝は光武帝のころより学問が自身の正統性を裏付けるものとなるように画策してきました。

後漢時代も半ばになると官僚を輩出する一族が力を持つようになりますし、官僚には学問を修めたことが求められましたから、当時の有力者の大半が後漢を正統とする思想に多かれ少なかれ染まっていたと思われます。
それでなくとも劉氏は400年にわたって帝位を守ってきた特別な一族ですから、人々に愛着をもたれていたでしょうし、帝位にあるのが当たり前と考えられていたのではないでしょうか。

そのため、時勢に聡い人々にとっては漢朝が立ちゆかなくなっているのが自明であっても、世間にはなかなか認められませんでした。
ペテン師さんのおっしゃるように、漢朝に取って代わることを明確にしめした袁術はあっという間に破滅しましたし。
たとえが悪いかもしれませんが、裸の王様のような状態といったところでしょうか。

そのような状況状態であるがゆえに、群雄たちは口々に「漢を輔(たす)ける」と主張したのです。
何しろ、口で言うだけならタダですからね。
もっとも、袁紹はそこで明確な姿勢を打ち出せなかったことが、曹操に足下を掬われる要因の一つとなりましたが……。

#自分のようにねじ曲がった性格をしていると、こんな風に受けとっちゃいますねぇ……。

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