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【2612】戦いには七つの方法がある云々と、小橋について 2006/12/2(土) 14:45 初心者質問
┗ 【2614】Re:戦いには七つの方法がある云々と、小橋に... ひよこ 2006/12/3(日) 14:41
┗ 【2616】皖城攻めの理由 ゲソ 2006/12/4(月) 10:06
┗ 【2617】Re:皖城攻めの理由 孫ぽこ 2006/12/4(月) 20:14

【2612】戦いには七つの方法がある云々と、小橋に...
初心者質問    - 2006/12/2(土) 14:45 -

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   初めまして。いつもROM専ですけれど、読んでいるだけで凄く勉強になります。
二つ疑問が出たので、質問させていただきます。

一つ目は、
捕虜になった相手が命乞いすると「戦いには七つの方法があるが、まず云々…それが出来ないのだから死ね」 と 切り捨てたのは誰だったでしょうか。確か魏の人だったような気がしたのですが、あいまいです。
その七つの方法、というのも知っている方が居ましたら詳しく教えていただけると嬉しいです。

もう一つは、
周瑜の妻、小橋についてです。
正史には皖城攻めの時に手に入れたとありますが、皖城を攻撃した理由は何でしょうか。ただ単に反抗勢力として攻略したのか、勢力を進出させるための足がかりとして攻略したのか、謀反の疑いがあったから潰したのか…宜しくお願いします。

【2614】Re:戦いには七つの方法がある云々と、小橋...
 ひよこ  - 2006/12/3(日) 14:41 -

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   こんにちわ。通りすがりです。
一つ目は確か司馬懿だったと思います。
wikiの司馬懿のページにはこうあります。
以下抜粋

238年、遼東に拠っていた公孫淵が反乱を起こし、司馬懿は征討を命じられる。このとき明帝は、公孫淵はどのような策を取るか司馬懿に尋ね、司馬懿はこう答えている。「城を捨てて逃げるが上策、遼水に拠って我が大軍に抗するは次策、襄平に籠もるなら生捕りになるだけです。知恵者がいれば、あるいは(公孫淵が)城を捨てることも有るでしょうが、あれはそんな策を考えつける人物ではありません。」

遼東では長雨が続いたため、遠征がさらに長引くおそれがあった。廷臣たちは遠征の中止を曹叡に訴えたが、曹叡は「司馬公は機に応じて戦略を立てることのできる人物だ。彼に任せておけば間違いはない」と言い、取り合わなかった。 魏の征討に対し、公孫淵は孫権に援軍を求めた。そのとき、孫権はこんな書簡を送っている。「司馬公は用兵に優れ、自在に使うこと神の如しという。そんな人物を相手にせねばならないとは、あなたもお気の毒だ」と。公孫淵はこの後、司馬懿が下策と評した籠城を行って大敗した。人質を差し出して助命を嘆願しに来た公孫淵の使者へ、司馬懿は興味深い発言を残している。「戦には五つの要点がある。戦意があるときに闘い、戦えなければ守り、守れなければ逃げる。あとは降るか死ぬかだ。貴様らは降伏しようともしなかったな。ならば残るは死あるのみよ。人質など無用」

こうして司馬懿は公孫淵父子やその高官たちを斬り、遼東の制圧に成功したが、凄まじいのはその後の処置である。中原の戦乱から避難してきた人々が大量に暮らしていた遼東は、いつまた反魏の温床になるかわからないということで、司馬懿は15歳以上の成年男子を皆殺しにし、その首で「首観(観は楼閣の意)」を築いたという。「晉書」では「王朝の始祖たる人物が、徒に大量の血を流したことが、ひいては子々孫々に報いとなって降りかかったのだ」と批判している。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B8%E9%A6%AC%E6%87%BF

もう一つの方はわかりません…ごめんなさい。基本的に中国史は北方専門なのでorz
それにしても司馬懿も凄い発言しますよね(笑

【2616】皖城攻めの理由
 ゲソ E-MAILWEB  - 2006/12/4(月) 10:06 -

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   当時の皖城は劉勲の居城でした。劉勲とは袁術系の群雄です。
かつて孫策が袁術の命令で廬江を陥落させた事がありました。
当初「廬江を落したら孫策を後任にしてやろう」という約束だったのですが、
それを反故にされて後任につけられたのが袁術子飼いの劉勲でした。
さらに劉勲は袁術の死後に彼の残党を吸収し、独立して江東の一大勢力になっていました。
一部の袁術残党は孫策に降る予定だったのを強引に攻め取って吸収したので、
まぁ孫策自身からすれば「俺のものを何でも横取りしていく、目の上のたんこぶ」
くらいに思っていたのでしょう。単に江東統一の点から言っても、もはや無視できない勢力です。その後孫策は偽りの同盟を劉勲と交わし、本拠を留守にさせておいてから一気に急行するという戦術を取って皖城を落しています。

愚考するに皖城を攻める事は彼の復讐でもあり、戦略上の必要性でもあったという事になるでしょうか。

とはいえ他にも色々な諸事情や思惑があって、皖城攻めにはもっと多くの理由があるのかもしれません。このあたり、他の方々の意見もお聞きしたい所ではありますが…。

【2617】Re:皖城攻めの理由
 孫ぽこ WEB  - 2006/12/4(月) 20:14 -

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   >とはいえ他にも色々な諸事情や思惑があって、皖城攻めにはもっと多くの理由があるのかもしれません。このあたり、他の方々の意見もお聞きしたい所ではありますが…。

あうw
すいません。拙サイトでも書いた事なのですが参考までに。

私は皖城攻めの目的は、【荊州制圧のために戦略上押さえなくてはならない所だったから】だと思っています。

孫策は先だって周瑜・呂範・程普らを江夏・零陵・桂陽の太守にしています。ただの名誉職だろうとあまり注目していなかったのですが、当時、長沙では張羨が反乱を起こしているのと、孫策伝注江表伝においても皖城攻略から続く黄祖討伐の行軍を【孫策は黄祖を討伐するための軍を起こしていた】と書かれている点から、皖城攻めの時点で孫策の主眼は荊州・江夏攻略にあったのではないかと思えます。

つまり、簡単に言うと孫策は張羨の反乱に注目して、荊州南部を制圧しようとしたが、そのためには廬江の劉勲の動きを封じる必要があり、皖城攻めはその前フリではないか?と思っています。そう考えると、皖城を落としたにも拘わらず、李術という孫策軍の中にはどうも在籍していたとは思えない将を廬江太守に据えたのは、廬江を制圧して支配する事に孫策の主眼はなかったからだと言えそうな気がします。廬江は長江北岸になりますからね。むしろ荊州南岸を支配する事に孫策の目的はあったのではないか?と。

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