三国志ファンのためのサポート掲示板 ※共同掲示板。話題は三国志関係。横レス歓迎。初心者モードの質問からマニアックな雑談まで
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【3753】Re:英雄記と後漢書について
 1208  - 2013/5/16(木) 13:07 -

引用なし
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   >「肯く」が「同意する」の意味だとして、「深い考えに肯くものではない」とあるのですから、「熟慮せず」と同義ではないでしょうか?
>そもそも「不肯」は「肯へて〜せず」でいいような気がしますが。
>
>それから、三国志裴注に引く英雄記と、後漢書とが同一記述でないといけない理由は何もないので、違っていても不思議ではないでしょう。
>後漢書の方でも英雄記を引用しているのであれば話は別ですが。
>(すみません、この点に関して後漢書で確認することをしていません。)

すいません。私も肯えてせずでいいんじゃないかなーと思いましたのでつい聞いちゃいました

それと後漢書の例の記述は多分英雄記を採用しています

後漢書
>順為人清白有威嚴,少言辭,將衆整齊,毎戰必剋。布性決易,所為無常。順毎諫曰:「將軍舉動,不肯詳思,忽有失得,動輒言誤。誤事豈可數乎?」布知其忠而不能。

三国志
>人清白有威嚴、不飲酒、不受饋遺。所將七百餘兵、號爲千人、鎧甲闘具皆精練齊、毎所攻撃無不破者、名爲陷陳營。順毎諫布、言「凡破家亡國、非無忠臣明智者、但患不見用耳。將軍舉動、不肯詳思、輒喜言誤、誤不可數也」。布知其忠、然不用。

細かい所は違ってますが、大抵後漢書のこの内容は英雄記の省略verなので

後太平御覧と三国志で、呂布が袁紹の罠から抜け出したと言う記述があるんですが、あれも細かい記述が史書によって違ってましたよね。同じ史料を見た筈なのに何で記述が異なるんでしょう?
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【3752】三国志ファンのためのサポート掲示板十周...
話題提供  清岡美津夫 WEB  - 2013/5/16(木) 7:37 -

引用なし
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   こんにちわ。
このサイト「三国志ファンのためのサポート掲示板」が作成されたのが2003年5月16日ですので、今日が10周年記念日です。
といっても特に企画があるわけではないですし、近年では書き込みより閲覧でこのサイトが利用されるのが主になっているため、参加型の企画に需要はなさそうな感じですね。

ちなみに5周年のときはたまたま東京で「大三国志展」が開催されていましたので、それをみんなで一緒に見に行くのを含めて、「三サポ板五周年記念オフ会」[#T3095]を開催しました。

※参照リンク
・立川中華街
http://cte.main.jp/newsch/article.php/926

私自身は5月26日に東京での同人誌展示即売会「交地ニハ絶ツコトナカレ 十九」に一般参加、7月6日7日に福岡での「日本マンガ学会第13回大会」に口頭発表、9月14日に京都での「三国志学会第8回大会」に一般聴講、9月21日に東京での「三国志学会シンポジウム」に一般聴講、9月28日に神奈川での「三国志フェス2013」に一般参加と足を運ぶ予定がありますので、別にそれぞれの前後で需要があれば私を含め最小催行人数2名でオフ会を開いても良いかも知れませんね。
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【3751】Re:英雄記と後漢書について
 里斎  - 2013/5/15(水) 23:32 -

引用なし
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   「肯く」が「同意する」の意味だとして、「深い考えに肯くものではない」とあるのですから、「熟慮せず」と同義ではないでしょうか?
そもそも「不肯」は「肯へて〜せず」でいいような気がしますが。

それから、三国志裴注に引く英雄記と、後漢書とが同一記述でないといけない理由は何もないので、違っていても不思議ではないでしょう。
後漢書の方でも英雄記を引用しているのであれば話は別ですが。
(すみません、この点に関して後漢書で確認することをしていません。)
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【3750】Re:管理人さんがアクセスしてる。(T/O...
 里斎  - 2013/5/15(水) 23:14 -

引用なし
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   そうでしたか。
事情も知らずに、書き込みがないのは来訪がないせいだと勘違いしておりました。
大変失礼致しました。

管理人だからといってコメントの義務があるわけではない、という点については
全くその通りだと思います。
義務化してしまっては楽しめませんからね。
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【3749】英雄記と後漢書について
 1208  - 2013/5/12(日) 12:24 -

引用なし
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   またまたお世話になります。1208です
三国志・後漢書の呂布伝にある記述についてお伺いに来ました

>「凡破家亡國、非無忠臣明智者也、但患不見用耳。將軍舉動、不肯詳思、輒喜言誤、誤不可數也」

と、呂布伝に有る英雄記にはこう書いてあります
しかし後漢書では「凡破家亡國、非無忠臣明智者也、但患不見用耳。」
が削られています。これは一体どう言う事なのでしょうか?またほぼ訳後漢書についてなのですが、

「将軍は挙動するに,詳思に肯きません(深い考えに肯くものではないようすです),」

と有ります。三国志呂布伝の英雄記では「熟慮せず」と書いてありますが、肯くって同意するとか肯定するとかそう言う意味ですよね?"熟慮せず"と意味が違っている様に見えるのですが
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【3748】Re:後漢紀の有る記述について
 1208  - 2013/5/10(金) 6:11 -

引用なし
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   ▼清岡美津夫さん:
>▼1208さん:
>>▼清岡美津夫さん:
>>>▼1208さん:
>>>>ありがとうございます。後後漢紀についてなのですが。
>>>>
>>>>六月,孫策を拝して會稽太守、討逆将軍と為し,(陽)侯に封じた[一].
>>>>
>>>>[一] 三國志の本伝及び注引する江表伝に拠って刪した.
>>>>
>>>>[出典:ほぼ訳!後漢紀 http://www.geocities.co.jp/Playtown-Spade/4838/koukanki-kentei02.html]
>>>>
>>>>この記述についでですが、上記の様に三国志と江表伝を拠ったと書いています。
>>>>と言う事は、江表伝の記述が一定の信ぴょう性を持つと袁宏は判断したと言えるんでしょうか?
>>>
>>>こんにちわ。
>>>
>>>『後漢紀』巻二十九孝献皇帝紀の、
>>>
>>>六月、拜孫策為會稽太守・討逆將軍、封呉(陽)侯〔一〕。
>>>
>>>〔一〕據三國志本傳及注引江表傳刪。
>>>
>>>という所ですね。別に『後漢紀』の撰者、袁宏の意向に関係なく、本文で「呉陽侯」となっていたの(元からそうなのか書写を繰り返す中でそうなったのか不明ですが)を注を付けた人が、『三国志』及びその注に引く『江表伝』を参考に、「陽」の字を削った(括弧を付けた)という意味です。
>>>
>>>それとこの掲示板を見ている人の立場に立つと、元の質問と無関係なので、新たに作ったツリーで質問した方が閲覧しやすかったでしょうね。
>>
>>では、その注釈者が江表伝は参考になると、その記述についてはいかがわしいものでは無いと判断したのですか?残念ながら私は漢文を読めないので判らないのですが、そうだったのなら注釈者が気になります。もしお判りになりましたらお教えください
>
>こんばんわ。
>わざわざツリーを変えていただきありがとうございます。
>
>校注者は周天游だそうで、ネットで検索すると、百度百科がひっかかって、それによると、1944年生まれの方だそうです。
>件の記述は『江表伝』だけでなく『三国志』も参照しており、しかもおそらく同時代の史料で「呉陽」なんて地名が見当たらないため、「陽」を削ったのであって、『江表伝』に限ったことではないですし、信憑性云々とはまったく無関係ですね。
>
>以下、個人的意見ですが、ある史書に対して信憑性があるかないかで頭ごなしに決めつけると思考の幅が狭まって(あるいは思考停止で)損することが多いかと存じます。
>信憑性あるなしありきではなくて、史書に記載のある事柄ありきで、それについて、道理に合わなかったり他の史書の記述と矛盾する場合があれば、初めてその事柄だけについて信憑性のあるなしやその度合いを検討すれば良いかと存じます。
>話に上がる『江表伝』についても、信憑性がないと頭ごなしに決めつければ、『江表伝』にしか記述のない、赤壁の戦いでの風向きの東南も、呉下の阿蒙に非ずも、周瑜と孫策の義同断金な関係も、「信憑性がない」の一言で片付けられてしまいますし。

そうですね、判りました。以後は気をつける事にします。ご教授ありがとうございました
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【3747】Re:後漢紀の有る記述について
 清岡美津夫 WEB  - 2013/5/9(木) 20:41 -

引用なし
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   ▼1208さん:
>▼清岡美津夫さん:
>>▼1208さん:
>>>ありがとうございます。後後漢紀についてなのですが。
>>>
>>>六月,孫策を拝して會稽太守、討逆将軍と為し,(陽)侯に封じた[一].
>>>
>>>[一] 三國志の本伝及び注引する江表伝に拠って刪した.
>>>
>>>[出典:ほぼ訳!後漢紀 http://www.geocities.co.jp/Playtown-Spade/4838/koukanki-kentei02.html]
>>>
>>>この記述についでですが、上記の様に三国志と江表伝を拠ったと書いています。
>>>と言う事は、江表伝の記述が一定の信ぴょう性を持つと袁宏は判断したと言えるんでしょうか?
>>
>>こんにちわ。
>>
>>『後漢紀』巻二十九孝献皇帝紀の、
>>
>>六月、拜孫策為會稽太守・討逆將軍、封呉(陽)侯〔一〕。
>>
>>〔一〕據三國志本傳及注引江表傳刪。
>>
>>という所ですね。別に『後漢紀』の撰者、袁宏の意向に関係なく、本文で「呉陽侯」となっていたの(元からそうなのか書写を繰り返す中でそうなったのか不明ですが)を注を付けた人が、『三国志』及びその注に引く『江表伝』を参考に、「陽」の字を削った(括弧を付けた)という意味です。
>>
>>それとこの掲示板を見ている人の立場に立つと、元の質問と無関係なので、新たに作ったツリーで質問した方が閲覧しやすかったでしょうね。
>
>では、その注釈者が江表伝は参考になると、その記述についてはいかがわしいものでは無いと判断したのですか?残念ながら私は漢文を読めないので判らないのですが、そうだったのなら注釈者が気になります。もしお判りになりましたらお教えください

こんばんわ。
わざわざツリーを変えていただきありがとうございます。

校注者は周天游だそうで、ネットで検索すると、百度百科がひっかかって、それによると、1944年生まれの方だそうです。
件の記述は『江表伝』だけでなく『三国志』も参照しており、しかもおそらく同時代の史料で「呉陽」なんて地名が見当たらないため、「陽」を削ったのであって、『江表伝』に限ったことではないですし、信憑性云々とはまったく無関係ですね。

以下、個人的意見ですが、ある史書に対して信憑性があるかないかで頭ごなしに決めつけると思考の幅が狭まって(あるいは思考停止で)損することが多いかと存じます。
信憑性あるなしありきではなくて、史書に記載のある事柄ありきで、それについて、道理に合わなかったり他の史書の記述と矛盾する場合があれば、初めてその事柄だけについて信憑性のあるなしやその度合いを検討すれば良いかと存じます。
話に上がる『江表伝』についても、信憑性がないと頭ごなしに決めつければ、『江表伝』にしか記述のない、赤壁の戦いでの風向きの東南も、呉下の阿蒙に非ずも、周瑜と孫策の義同断金な関係も、「信憑性がない」の一言で片付けられてしまいますし。
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【3746】李マンの漢字
教えて  吉好二 WEB  - 2013/5/9(木) 20:41 -

引用なし
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   ▼清岡美津夫さん:
>▼吉好二さん:
>>再びお邪魔します…
>>
>>『武帝紀集解』に出ている『李マン』(李堪のことらしいです)の『マン』の漢字を教えていただきたく、お願いに参りました…
>>
>>宜しくお願いします…m(__)m
>
>
>こんにちわ。
>
>前回の書き込み[#3729]もそうですが、質問時に少しでもその目的や動機などを一緒に書き込むと答えが返って来やすいかと存じます。端的な質問だけだと、どうしても、人を辞書代わりとして使われたような、あまり良くない印象を個人的には受けましたので。
>
>それで本題ですが、『三国志集解』の巻一魏書武帝紀建安十六年三月条の「馬超遂與韓遂楊秋李堪成宜等叛」の記述では、「堪」の字が、「滿」のさんずいへんがつちへんになっている字になっていて(どう読むかは調べていません)、そこに集解部分が入り宋本ではその字を「堪」に作るとありました。その後、「馬超張魯伝」で「堪」と作るのでその字は誤りだ書かれています。

大変解りやすい説明と、私の無遠慮な質問へのご指摘痛み入ります…

私は、携帯で三国志の人名事典を作成しておりまして、文字化けしてしまう環境にあり、調べきれないときに質問させて戴いたのですが、これが不躾に感じられたら、大変申し訳ない思いです…

此れからも、解らないことが有れば質問させて頂きたく、不躾な振舞いが御座いましたら、ご鞭撻お願い申し上げます…m(_ _)m

『三国志全人名事典』
http://a.viewst.jp/3594jinmei/
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<sage>

【3745】後漢紀の有る記述について
 1208  - 2013/5/9(木) 15:13 -

引用なし
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   >>【3739】Re:王允死後の韓遂・馬騰の動きについて     
    >>1208 - 2013/5/4(土) 19:22 -
        
    >>引用なし

    >>パスワード


     >>▼清岡美津夫さん:
>>▼1208さん:
>>初めまして。1208です
>>三国志を愛する諸兄に質問なのですが、王允が滅亡した後韓遂・馬騰が、新たに朝廷の権力者になった李カクに投降したと董卓伝には有ります。これは一体どう言う事なのでしょうか?
>>韓遂等が叛乱したと言う記述は無いのに朝廷に降伏したと言う事は、韓遂達は190年から192年のどこかで朝廷に背いたのでしょうか?
>
>
>どうも、初めまして。
>それは『三国志』巻六魏書董卓伝に
>
>是歳、韓遂・馬騰等降、率衆詣長安。
>
>この歳、韓遂・馬騰等が降り、衆を率い長安に行く。
>
>という記述ですね。
>まず韓遂ですが、『後漢書』紀八孝霊帝紀に
>
>(光和七年十一月)湟中義從胡北宮伯玉與先零羌叛、以金城人邊章・韓遂為軍帥、攻殺護羌校尉伶徴・金城太守陳懿。
>
>(光和七年十一月、紀元184年11月)湟中義從胡北宮伯玉と先零羌が叛し、金城人辺章・韓遂を以て軍帥と為し、護羌校尉伶徴・金城太守陳懿を攻め殺した。
>
>とありそこからずっと反乱勢力ですね。その経緯は『三国志』巻一魏書武帝紀建安二十年五月条注所引『典略』にも詳しく書かれています。
>
>一方、馬騰は『後漢書伝』伝六十二董卓伝に
>
>(中平三年冬)太守李相如反、與遂連和、共殺涼州刺史耿鄙。而鄙司馬扶風馬騰、亦擁兵反叛、又漢陽王國、自號「合衆將軍」、皆與韓遂合。
>
>(中平三年冬、紀元186年冬)太守の李相如が反し、韓遂と連和し、共に涼州刺史耿鄙を殺した。耿鄙の司馬の扶風出身の馬騰はまた兵を擁し反叛し、また漢陽出身の王國は「合衆將軍」と自號し、皆、韓遂と合流した。
>
>とあります。
>
>
>※参照リンク
>・西方から新たな脅威(孫氏からみた三国志25)
>http://cte.main.jp/sunshi/w/w040118.html
>
>・狄道の攻防戦(孫氏からみた三国志37)
>http://cte.main.jp/sunshi/w/w060104.html

>ありがとうございます。後後漢紀についてなのですが。

>六月,孫策を拝して會稽太守、討逆将軍と為し,&#61850;(陽)侯に封じた[一].

>[一] 三國志の本伝及び注引する江表伝に拠って刪した.

>[出典:ほぼ訳!後漢紀 http://www.geocities.co.jp/Playtown-Spade/4838/koukanki-kentei02.html]

>この記述についでですが、上記の様に三国志と江表伝を拠ったと書いています。
>と言う事は、江表伝の記述が一定の信ぴょう性を持つと袁宏は判断したと言えるん>でしょうか?


    >【3743】Re:王允死後の韓遂・馬騰の動きについて     
     >清岡美津夫  - 2013/5/9(木) 12:59 -
        
    >引用なし

    >パスワード


     >▼1208さん:
>ありがとうございます。後後漢紀についてなのですが。
>
>六月,孫策を拝して會稽太守、討逆将軍と為し,&#61850;(陽)侯に封じた[一].
>
>[一] 三國志の本伝及び注引する江表伝に拠って刪した.
>
>[出典:ほぼ訳!後漢紀 http://www.geocities.co.jp/Playtown-Spade/4838/koukanki-kentei02.html]
>
>この記述についでですが、上記の様に三国志と江表伝を拠ったと書いています。
>と言う事は、江表伝の記述が一定の信ぴょう性を持つと袁宏は判断したと言えるんでしょうか?

>こんにちわ。

>『後漢紀』巻二十九孝献皇帝紀の、

>六月、拜孫策為會稽太守・討逆將軍、封呉(陽)侯〔一〕。

>〔一〕據三國志本傳及注引江表傳刪。

>という所ですね。別に『後漢紀』の撰者、袁宏の意向に関係なく、本文で「呉陽
>侯」となっていたの(元からそうなのか書写を繰り返す中でそうなったのか不明で
>すが)を注を付けた人が、『三国志』及びその注に引く『江表伝』を参考に、
>「陽」の字を削った(括弧を付けた)という意味です。

>それとこの掲示板を見ている人の立場に立つと、元の質問と無関係なので、新た
>に作ったツリーで質問した方が閲覧しやすかったでしょうね。

では、その注釈者が江表伝は参考になると、その記述についてはいかがわしいものでは無いと判断したのですか?残念ながら私は漢文を読めないので判らないのですが、そうだったのなら注釈者が気になります。もしお判りになりましたらお教えください
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【3743】Re:王允死後の韓遂・馬騰の動きについて
お答え  清岡美津夫 WEB  - 2013/5/9(木) 12:59 -

引用なし
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   ▼1208さん:
>ありがとうございます。後後漢紀についてなのですが。
>
>六月,孫策を拝して會稽太守、討逆将軍と為し,&#61850;(陽)侯に封じた[一].
>
>[一] 三國志の本伝及び注引する江表伝に拠って刪した.
>
>[出典:ほぼ訳!後漢紀 http://www.geocities.co.jp/Playtown-Spade/4838/koukanki-kentei02.html]
>
>この記述についでですが、上記の様に三国志と江表伝を拠ったと書いています。
>と言う事は、江表伝の記述が一定の信ぴょう性を持つと袁宏は判断したと言えるんでしょうか?

こんにちわ。

『後漢紀』巻二十九孝献皇帝紀の、

六月、拜孫策為會稽太守・討逆將軍、封呉(陽)侯〔一〕。

〔一〕據三國志本傳及注引江表傳刪。

という所ですね。別に『後漢紀』の撰者、袁宏の意向に関係なく、本文で「呉陽侯」となっていたの(元からそうなのか書写を繰り返す中でそうなったのか不明ですが)を注を付けた人が、『三国志』及びその注に引く『江表伝』を参考に、「陽」の字を削った(括弧を付けた)という意味です。

それとこの掲示板を見ている人の立場に立つと、元の質問と無関係なので、新たに作ったツリーで質問した方が閲覧しやすかったでしょうね。
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【3742】Re:李マンの漢字
お答え  清岡美津夫 WEB  - 2013/5/9(木) 12:57 -

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   ▼吉好二さん:
>再びお邪魔します…
>
>『武帝紀集解』に出ている『李マン』(李堪のことらしいです)の『マン』の漢字を教えていただきたく、お願いに参りました…
>
>宜しくお願いします…m(__)m


こんにちわ。

前回の書き込み[#3729]もそうですが、質問時に少しでもその目的や動機などを一緒に書き込むと答えが返って来やすいかと存じます。端的な質問だけだと、どうしても、人を辞書代わりとして使われたような、あまり良くない印象を個人的には受けましたので。

それで本題ですが、『三国志集解』の巻一魏書武帝紀建安十六年三月条の「馬超遂與韓遂楊秋李堪成宜等叛」の記述では、「堪」の字が、「滿」のさんずいへんがつちへんになっている字になっていて(どう読むかは調べていません)、そこに集解部分が入り宋本ではその字を「堪」に作るとありました。その後、「馬超張魯伝」で「堪」と作るのでその字は誤りだ書かれています。
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【3741】Re:管理人さんがアクセスしてる。(T/O...
雑談  清岡美津夫 WEB  - 2013/5/9(木) 12:53 -

引用なし
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   こんにちわ。
迷惑書き込みも含め書き込まれたらお知らせメールが管理メンバーである清岡の手元に届きますので、アクセスだけなら頻繁にしてますよ。
ちょうど10年前に書いた下記ページでの文にあるように、サイト管理人が返信する義務がないのを理想としていましたので、書き込みは気が向いたときにしています。

・共同掲示板幻想!?
http://cte.main.jp/sunshi/w/w030507.html


▼里斎さん:
>[本文なし]
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【3740】李マンの漢字
教えて  吉好二 WEB  - 2013/5/9(木) 5:53 -

引用なし
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   再びお邪魔します…

『武帝紀集解』に出ている『李マン』(李堪のことらしいです)の『マン』の漢字を教えていただきたく、お願いに参りました…

宜しくお願いします…m(__)m
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<sage>

【3739】Re:王允死後の韓遂・馬騰の動きについて
 1208  - 2013/5/4(土) 19:22 -

引用なし
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   ▼清岡美津夫さん:
>▼1208さん:
>>初めまして。1208です
>>三国志を愛する諸兄に質問なのですが、王允が滅亡した後韓遂・馬騰が、新たに朝廷の権力者になった李カクに投降したと董卓伝には有ります。これは一体どう言う事なのでしょうか?
>>韓遂等が叛乱したと言う記述は無いのに朝廷に降伏したと言う事は、韓遂達は190年から192年のどこかで朝廷に背いたのでしょうか?
>
>
>どうも、初めまして。
>それは『三国志』巻六魏書董卓伝に
>
>是歳、韓遂・馬騰等降、率衆詣長安。
>
>この歳、韓遂・馬騰等が降り、衆を率い長安に行く。
>
>という記述ですね。
>まず韓遂ですが、『後漢書』紀八孝霊帝紀に
>
>(光和七年十一月)湟中義從胡北宮伯玉與先零羌叛、以金城人邊章・韓遂為軍帥、攻殺護羌校尉伶徴・金城太守陳懿。
>
>(光和七年十一月、紀元184年11月)湟中義從胡北宮伯玉と先零羌が叛し、金城人辺章・韓遂を以て軍帥と為し、護羌校尉伶徴・金城太守陳懿を攻め殺した。
>
>とありそこからずっと反乱勢力ですね。その経緯は『三国志』巻一魏書武帝紀建安二十年五月条注所引『典略』にも詳しく書かれています。
>
>一方、馬騰は『後漢書伝』伝六十二董卓伝に
>
>(中平三年冬)太守李相如反、與遂連和、共殺涼州刺史耿鄙。而鄙司馬扶風馬騰、亦擁兵反叛、又漢陽王國、自號「合衆將軍」、皆與韓遂合。
>
>(中平三年冬、紀元186年冬)太守の李相如が反し、韓遂と連和し、共に涼州刺史耿鄙を殺した。耿鄙の司馬の扶風出身の馬騰はまた兵を擁し反叛し、また漢陽出身の王國は「合衆將軍」と自號し、皆、韓遂と合流した。
>
>とあります。
>
>
>※参照リンク
>・西方から新たな脅威(孫氏からみた三国志25)
>http://cte.main.jp/sunshi/w/w040118.html
>
>・狄道の攻防戦(孫氏からみた三国志37)
>http://cte.main.jp/sunshi/w/w060104.html

ありがとうございます。後後漢紀についてなのですが。

六月,孫策を拝して會稽太守、討逆将軍と為し,&#61850;(陽)侯に封じた[一].

[一] 三國志の本伝及び注引する江表伝に拠って刪した.

[出典:ほぼ訳!後漢紀 http://www.geocities.co.jp/Playtown-Spade/4838/koukanki-kentei02.html]

この記述についでですが、上記の様に三国志と江表伝を拠ったと書いています。
と言う事は、江表伝の記述が一定の信ぴょう性を持つと袁宏は判断したと言えるんでしょうか?
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【3738】Re:窓際族って
雑談  清岡美津夫 WEB  - 2013/5/3(金) 22:57 -

引用なし
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   ▼こーがさん:
>初めまして。ちまちまと、やや腐り気味の三国志小説を書いている者です。
>むふりと、設定に詰まってしまいまして、お知恵を拝借させていただきたく。
>
>中央官庁の役所の中で、冷や飯食らいとか窓際族に当たる部署は、何処だと思われますか?
>確か、有名無実で位だけは最高位の名誉職があったと思いますが、それ以外でお願いします。
>
>舞台は末期の蜀で、上の下〜中の上ぐらいの官位の人物を想定しとります。
>が、まあ、後漢・魏呉蜀問わず、このへんそうじゃね?というのが分かるだけでも有難く。
>正史三国志の八巻末尾の官職表を眺めてみても、どれも有益なお仕事に見えてしまって。
>ではでは、失礼しました。

そのまま流すのがもったいない話題ですので、雑談レベルでまずは書いておきますね。
これを初めて見たときに連想したのがまさに「最高位の名誉職」でして、例えば董卓により劉虞が大司馬になったようにです。
でもそれ以外とのことですね。

昨年10月に国立国会図書館 関西館で開催された講演会「東アジアの三国志演義」が終わってからの帰り道に、R・Fさんにこの話を振ってみると、「議郎」というお答えが返ってきました。
確かに郎官自体は孝廉に推挙された人物の受け皿で人材をプールする意味があります。
ここらへん、京都大学人文科学研究所附属漢字情報研究センター/編『京大人文研漢籍セミナー2 三国鼎立から統一へ 史書と碑文をあわせ読む』(研文出版)所収、藤井律之「魏から晋へ―王基碑」参照で。

http://www.kenbunshuppan.com/book/bun/bungaku4.html#bun63

だけど、別に一度、官吏になってから「郎」になるというのはあまり聞いたことがなく、一方、「議郎」はどうかと思って、『続漢書』や『通典』に当たってみたのですがよく解らないでいます。

それで『三国志』やその注で「議郎」になったケースを適当に見てみると、

曹操: 遷頓丘令、徴拜議郎
宋奇: 被誅、從坐免官。後以能明古學、復徴拜議郎。
曹操: 數數干忤、恐為家禍、遂乞留宿衛。拜議郎、常託疾病,輒告歸郷里
臧旻 :是時邊方有警、羌・胡出寇、三府舉能、遷旻匈奴中郎將。討賊有功、徴拜議郎、還京師。
 ※『後漢書』本紀や南匈奴列伝だと熹平六年八月、匈奴中郎將の臧旻らが鮮卑に大敗した。
陶謙: 少好學、為諸生、仕州邵、舉茂才、除盧令、遷幽州剌史、徴拜議郎、參車騎將軍張温軍事、西討韓遂。
王粛: 正始元年、出為廣平太守。公事徴還、拜議郎。
鄭泰: 卓乃悦、以泰為將軍、統諸軍撃關東。(略) 卓收其兵馬、留拜議郎。

となり、一度高官になった者も含め、人材をプールするという意味がありそうですね。特に鄭泰の例は董卓によって一度、将軍になりましたが、兵馬を奪われた上で、議郎として留めており、都合の良い官職として使われてますね。
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【3737】Re:王允死後の韓遂・馬騰の動きについて
お答え  清岡美津夫 WEB  - 2013/5/3(金) 18:40 -

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   ▼1208さん:
>初めまして。1208です
>三国志を愛する諸兄に質問なのですが、王允が滅亡した後韓遂・馬騰が、新たに朝廷の権力者になった李カクに投降したと董卓伝には有ります。これは一体どう言う事なのでしょうか?
>韓遂等が叛乱したと言う記述は無いのに朝廷に降伏したと言う事は、韓遂達は190年から192年のどこかで朝廷に背いたのでしょうか?


どうも、初めまして。
それは『三国志』巻六魏書董卓伝に

是歳、韓遂・馬騰等降、率衆詣長安。

この歳、韓遂・馬騰等が降り、衆を率い長安に行く。

という記述ですね。
まず韓遂ですが、『後漢書』紀八孝霊帝紀に

(光和七年十一月)湟中義從胡北宮伯玉與先零羌叛、以金城人邊章・韓遂為軍帥、攻殺護羌校尉伶徴・金城太守陳懿。

(光和七年十一月、紀元184年11月)湟中義從胡北宮伯玉と先零羌が叛し、金城人辺章・韓遂を以て軍帥と為し、護羌校尉伶徴・金城太守陳懿を攻め殺した。

とありそこからずっと反乱勢力ですね。その経緯は『三国志』巻一魏書武帝紀建安二十年五月条注所引『典略』にも詳しく書かれています。

一方、馬騰は『後漢書伝』伝六十二董卓伝に

(中平三年冬)太守李相如反、與遂連和、共殺涼州刺史耿鄙。而鄙司馬扶風馬騰、亦擁兵反叛、又漢陽王國、自號「合衆將軍」、皆與韓遂合。

(中平三年冬、紀元186年冬)太守の李相如が反し、韓遂と連和し、共に涼州刺史耿鄙を殺した。耿鄙の司馬の扶風出身の馬騰はまた兵を擁し反叛し、また漢陽出身の王國は「合衆將軍」と自號し、皆、韓遂と合流した。

とあります。


※参照リンク
・西方から新たな脅威(孫氏からみた三国志25)
http://cte.main.jp/sunshi/w/w040118.html

・狄道の攻防戦(孫氏からみた三国志37)
http://cte.main.jp/sunshi/w/w060104.html
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【3736】王允死後の韓遂・馬騰の動きについて
 1208  - 2013/5/2(木) 12:01 -

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   初めまして。1208です
三国志を愛する諸兄に質問なのですが、王允が滅亡した後韓遂・馬騰が、新たに朝廷の権力者になった李カクに投降したと董卓伝には有ります。これは一体どう言う事なのでしょうか?
韓遂等が叛乱したと言う記述は無いのに朝廷に降伏したと言う事は、韓遂達は190年から192年のどこかで朝廷に背いたのでしょうか?
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【3735】管理人さんがアクセスしてる。(T/O)
 里斎  - 2013/4/13(土) 1:02 -

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【3734】Re:「蒼」天の意味
 清岡美津夫 WEB  - 2013/4/10(水) 18:51 -

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   はじめまして
もう10年も前の書き込みなので、当たり前ですが、それ以降、結構、自分の中で認識が変わってきている感じですね。

http://cte.main.jp/newsch/article.php/1477
↑まず黄巾賊の訛言ですが、すでに1975年の段階で福井重雅「黄巾の亂と傳統の問題」(『東洋史研究』Vol.34 No.1 (197506) pp.24-57 東洋史研究会 )により、黄巾賊の訛言と五行思想との関連性が否定されていますね。

http://cte.main.jp/newsch/article.php/502
↑それと孫堅の赤い[巾責]ですが、武冠に使われるぐらい官吏にとって日常的なかぶりものだったようですね。兜をつけずに戦場の危険なところでそれを常備しているのはどうなんだ、って言う史書からのツッコミが聞こえてきそうですが。


▼石●さとみさん:
>▼清岡美津夫さん:
>>黄巾のスローガン(というか訛言?)は前から私も気になるところです。
>>
>>一昔前までの本だと、何でもかんでも相克説、相生説の説明なしに「五行説」に当てはめて、蒼=後漢、黄=黄巾って説明でしたね。
>
>少し前、渡邊義浩さんの「三国志_正史から史実へ」(出版社は忘れました)
>とたしかそんな名前の本に「蒼天」とは儒教の神とかかわった言葉で
>「儒教国家」を指しているみたいなことが書いてあるのを書店で立ち読みしました。
>印象深い話だったので覚えています。
>曖昧な情報で申し訳ありません。。。
>
>皆さんもまた読んでみてください
>
>でもその意味だとしたら「蒼天航路」という題名は・・・
>よく分からなくなりますね。
>
>どうでもいいですが1800年以上も前のことに思いを馳せて色の話をするなんて
>ロマンチックですね♪
>
>>>あと余談ですが、文台さんの赤いかぶりものは、方位として赤=南と空想しております。
>>
>>あぁ、それも魅力的ですね♪ 南から董卓を攻めるって感じが出て。
>>私は後漢に忠義を!? なんて思ってたんですが(笑)
>
>皆さん素晴らしいお考えですね!
>私はそんな事考えもしませんでした!
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【3733】Re:「蒼」天の意味
 石●さとみ  - 2013/3/27(水) 11:19 -

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   ▼清岡美津夫さん:
>黄巾のスローガン(というか訛言?)は前から私も気になるところです。
>
>一昔前までの本だと、何でもかんでも相克説、相生説の説明なしに「五行説」に当てはめて、蒼=後漢、黄=黄巾って説明でしたね。

少し前、渡邊義浩さんの「三国志_正史から史実へ」(出版社は忘れました)
とたしかそんな名前の本に「蒼天」とは儒教の神とかかわった言葉で
「儒教国家」を指しているみたいなことが書いてあるのを書店で立ち読みしました。
印象深い話だったので覚えています。
曖昧な情報で申し訳ありません。。。

皆さんもまた読んでみてください

でもその意味だとしたら「蒼天航路」という題名は・・・
よく分からなくなりますね。

どうでもいいですが1800年以上も前のことに思いを馳せて色の話をするなんて
ロマンチックですね♪

>>あと余談ですが、文台さんの赤いかぶりものは、方位として赤=南と空想しております。
>
>あぁ、それも魅力的ですね♪ 南から董卓を攻めるって感じが出て。
>私は後漢に忠義を!? なんて思ってたんですが(笑)

皆さん素晴らしいお考えですね!
私はそんな事考えもしませんでした!
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