|
はじめまして。
>「撤退する蜀軍を司馬懿に追えと言われ、張コウは反対したが司馬懿が聞き入れなかったためやむなく追撃し、矢を右ひざに受けて死んだ」
>とあったのですが、司馬懿はおそらく張コウ以上の軍略家で、孫子を読んでいたならば、逃げる敵を追ってはならないという事を知っていたはずなのに、何故これを追わせしめたのでしょうか・・・。
『孫子』は戦争における理論を書いた書物ですが、実際の戦場では理論通りに運ばないこともよくあります。
たとえば袁尚の留守をついて曹操がギョウを襲撃したとき、諸将は「帰師避くべし」と主張しましたが、曹操は「大道より来たれば避くべし、西山より来たれば擒と成るのみ」と言って迎撃し、その言葉通り、袁尚は大敗しました。
諸葛亮が馬謖を先陣として街亭に派遣したとき、馬謖は山上に砦を構築して張コウを防ごうとしました。『孫子』の説く「高きを好みて下きを悪む」の理論に沿ったものでしたが、張コウは水汲みの道を遮断して包囲し、馬謖は敗北しました。
黄巾の乱に乗じ、涼州の王国が反逆して陳倉城を包囲したとき、皇甫嵩・董卓が陳倉解放を命じられました。王国が逃走しようとしたとき、董卓が「窮寇追うなかれ、帰衆迫るなかれ」と主張するのも聞かず、皇甫嵩は「帰衆にあらず、窮寇にあらず」と言って追撃し、斬首一万以上の戦果を出しました。
戦いはそのときそのとき状況が変わってくるので、理論通りにはならない場合もあり、まさに馬謖はセオリーに固執したため敗北したのでした。
司馬懿と張コウの件ですが、『諸葛亮伝』注の『漢晋春秋』によると、むしろ張コウの方が急進的で、司馬懿が彼らの出撃を押しとどめようとしています。『魏略』の方が面白いエピソードですが、『漢晋春秋』の方が前後の筋道立っているように思います。
|
|