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【417】自己紹介と質問 2003/11/18(火) 11:38 初心者質問

【440】Re:自己紹介と質問 むじん 2003/11/21(金) 2:50
┗ 【446】ありがとうございます! 2003/11/23(日) 18:43
┗ 【452】Re:ありがとうございます! むじん 2003/11/26(水) 9:17
┗ 【453】Re:ありがとうございます! 2003/11/28(金) 15:48

【440】Re:自己紹介と質問
 むじん E-MAILWEB  - 2003/11/21(金) 2:50 -

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   補足説明です。

>たとえば袁尚の留守をついて曹操がギョウを襲撃したとき、諸将は「帰師避くべし」と主張しましたが、曹操は「大道より来たれば避くべし、西山より来たれば擒と成るのみ」と言って迎撃し、その言葉通り、袁尚は大敗しました。
これは文意不明ですね。「袁尚の留守をついて曹操がギョウを襲撃したとき、ギョウを救うべく袁尚が引き返してきたので…」と読んでください。

>諸葛亮が馬謖を先陣として街亭に派遣したとき、馬謖は山上に砦を構築して張コウを防ごうとしました。『孫子』の説く「高きを好みて下きを悪む」の理論に沿ったものでしたが、張コウは水汲みの道を遮断して包囲し、馬謖は敗北しました。
馬謖の失敗としてよく取り上げられるシーンですが、そもそもこの作戦目的がなんだったのかはっきりさせないと、本当に失敗しているのかどうか不明のままです。言い換えると、馬謖が山麓に布陣して張コウを防ぎきったとして、どうしてそれが成功なのかがいまいち分からない…。

>黄巾の乱に乗じ、涼州の王国が反逆して陳倉城を包囲したとき、皇甫嵩・董卓が陳倉解放を命じられました。王国が逃走しようとしたとき、董卓が「窮寇追うなかれ、帰衆迫るなかれ」と主張するのも聞かず、皇甫嵩は「帰衆にあらず、窮寇にあらず」と言って追撃し、斬首一万以上の戦果を出しました。
このとき計略が外れたので、恥ずかしく思った董卓は皇甫嵩を逆恨みするように…(^^;

以下、おまけ。

>司馬懿と張コウの件ですが、『諸葛亮伝』注の『漢晋春秋』によると、むしろ張コウの方が急進的で、司馬懿が彼らの出撃を押しとどめようとしています。『魏略』の方が面白いエピソードですが、『漢晋春秋』の方が前後の筋道立っているように思います。
『三国志集解』に面白いことが書いてあります。
まず『太平御覧』を引用して曰く…。
>> 夏六月、諸葛亮は食糧が底をついたので撤退した。青封木門まで来たところで軍を止め、大きな木があったので皮を削り、「張コウ、この樹の下に死す」と書きました。そして左右の山に伏兵を設けます。張コウが追いかけてきて、その木を見た瞬間、諸葛亮の伏兵が一斉に矢を放ち、張コウは死んでしまいました…。
こりゃホウ涓の最期とおんなじですがな。

つづいて『資治通鑑』に注釈を施した胡三省の解釈。
>>司馬懿は心底諸葛亮を恐れていたし、それに張コウが二度も諸葛亮を防ぎ、関中で名声を挙げていたので、彼の計略を聞き入れたくなかったのだ…。
司馬懿の気持ちをそんな風に決めつけられても…。

【446】ありがとうございます!
  E-MAIL  - 2003/11/23(日) 18:43 -

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   補足説明ありがとうございます!
とっても分かりやすかったです

>>> 夏六月、諸葛亮は食糧が底をついたので撤退した。青封木門まで来たところで軍を止め、大きな木があったので皮を削り、「張コウ、この樹の下に死す」と書きました。そして左右の山に伏兵を設けます。張コウが追いかけてきて、その木を見た瞬間、諸葛亮の伏兵が一斉に矢を放ち、張コウは死んでしまいました…。
>こりゃホウ涓の最期とおんなじですがな。

張コウの進軍は、やはりそれが即ち死を意味していたのでしょうか。
だから諸葛亮も、彼の死を予言するような事を記した、と感じました。

>つづいて『資治通鑑』に注釈を施した胡三省の解釈。
>>>司馬懿は心底諸葛亮を恐れていたし、それに張コウが二度も諸葛亮を防ぎ、関中で名声を挙げていたので、彼の計略を聞き入れたくなかったのだ…。
>司馬懿の気持ちをそんな風に決めつけられても…。

司馬懿がそんな私情を挟むような理由で張コウを進軍させる、と言うことは考えられるんでしょうか、
司馬懿が味方を斬った例は私も曹爽や孟達を知っているんですが、どちらの場合も魏に仇なす人間だから、と言う理由でしたよね
もし張コウの時もこれと同じで、何らかの理由があって味方を斬りざるをえなかった、という風に考えるとしても、その理由はいったいなんだったのでしょう。

張コウが生前、曹爽らのように国内を乱すような行いをしたという話は書かれていませんでしたし(そもそも内政にはほとんど触れていない?)対蜀に対しても献身したという風にしか書かれていませんでした。
やはり、もし司馬懿が張コウを殺すために進軍命令を出したと考える場合、その理由は今回書いて下さった「資治通鑑に注釈を施した胡三省の解釈」と同じように、司馬懿の私情、私怨によったものと考えるしかないのでしょうか。

【452】Re:ありがとうございます!
 むじん E-MAILWEB  - 2003/11/26(水) 9:17 -

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   こんにちは。

>>こりゃホウ涓の最期とおんなじですがな。
>張コウの進軍は、やはりそれが即ち死を意味していたのでしょうか。
>だから諸葛亮も、彼の死を予言するような事を記した、と感じました。
実はこの話、孫子の子孫である孫ピンがホウ涓を殺したときと同じ筋立てなんですよ。どうも登場人物を入れ替えただけでストーリーを盗用したんじゃないか、と…。それに、このとき諸葛亮は作戦がうまくいってなかったから、こんなことする余裕はなかったはずなんですね。張コウ一人殺したところで北伐作戦が成功するわけじゃないので。
【私説十八史略】http://plaza26.mbn.or.jp/~pata/s18_013.html

>張コウが生前、曹爽らのように国内を乱すような行いをしたという話は書かれていませんでしたし(そもそも内政にはほとんど触れていない?)対蜀に対しても献身したという風にしか書かれていませんでした。
>やはり、もし司馬懿が張コウを殺すために進軍命令を出したと考える場合、その理由は今回書いて下さった「資治通鑑に注釈を施した胡三省の解釈」と同じように、司馬懿の私情、私怨によったものと考えるしかないのでしょうか。
司馬懿は冷徹な軍略家のように見えて、意外と私情をはさむことも多いようです。予言書に「牛氏が馬氏の後を継ぐ」とあったので部下の牛金を毒殺したり、杜恕が司馬懿の弟を狂ったように身勝手と批判したので仲が悪くなり、おかげで杜恕の子杜預は出世が遅れたりしました。でも張コウに嫉妬したからといって戦場で恨みを晴らすようなことはしなかったと思うなぁ。

【453】Re:ありがとうございます!
  E-MAIL  - 2003/11/28(金) 15:48 -

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   >実はこの話、孫子の子孫である孫ピンがホウ涓を殺したときと同じ筋立てなんですよ。どうも登場人物を入れ替えただけでストーリーを盗用したんじゃないか、と…。それに、このとき諸葛亮は作戦がうまくいってなかったから、こんなことする余裕はなかったはずなんですね。

たしかにストーリーは面白いですが史実らしくはないですよね、
(源氏物語の真木柱の君みたい・・・ではないか)

>司馬懿は冷徹な軍略家のように見えて、意外と私情をはさむことも多いようです。予言書に「牛氏が馬氏の後を継ぐ」とあったので部下の牛金を毒殺したり、杜恕が司馬懿の弟を狂ったように身勝手と批判したので仲が悪くなり、おかげで杜恕の子杜預は出世が遅れたりしました。

すごいですね!
自分の子供に「謙虚に生きるのがよい」と教えていたと読んだことがあったので、温厚な人だったのかと思ったのですが、曹爽を撃った時は一族女どもも逃がすことなく討ち取った、とか公孫淵を打ち破った時も男子千余人を殺した死体で巨大な塚を作り、大臣から役人を皆殺し、将軍畢盛以下二千余人の武官を誅殺して見せしめとしたとか、とてつもない事実が書かれていて、驚いてしまいました。
曹操が案じていた「狼顧の相」はまさにその通りだったという事でしょうか

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