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補足説明です。
>たとえば袁尚の留守をついて曹操がギョウを襲撃したとき、諸将は「帰師避くべし」と主張しましたが、曹操は「大道より来たれば避くべし、西山より来たれば擒と成るのみ」と言って迎撃し、その言葉通り、袁尚は大敗しました。
これは文意不明ですね。「袁尚の留守をついて曹操がギョウを襲撃したとき、ギョウを救うべく袁尚が引き返してきたので…」と読んでください。
>諸葛亮が馬謖を先陣として街亭に派遣したとき、馬謖は山上に砦を構築して張コウを防ごうとしました。『孫子』の説く「高きを好みて下きを悪む」の理論に沿ったものでしたが、張コウは水汲みの道を遮断して包囲し、馬謖は敗北しました。
馬謖の失敗としてよく取り上げられるシーンですが、そもそもこの作戦目的がなんだったのかはっきりさせないと、本当に失敗しているのかどうか不明のままです。言い換えると、馬謖が山麓に布陣して張コウを防ぎきったとして、どうしてそれが成功なのかがいまいち分からない…。
>黄巾の乱に乗じ、涼州の王国が反逆して陳倉城を包囲したとき、皇甫嵩・董卓が陳倉解放を命じられました。王国が逃走しようとしたとき、董卓が「窮寇追うなかれ、帰衆迫るなかれ」と主張するのも聞かず、皇甫嵩は「帰衆にあらず、窮寇にあらず」と言って追撃し、斬首一万以上の戦果を出しました。
このとき計略が外れたので、恥ずかしく思った董卓は皇甫嵩を逆恨みするように…(^^;
以下、おまけ。
>司馬懿と張コウの件ですが、『諸葛亮伝』注の『漢晋春秋』によると、むしろ張コウの方が急進的で、司馬懿が彼らの出撃を押しとどめようとしています。『魏略』の方が面白いエピソードですが、『漢晋春秋』の方が前後の筋道立っているように思います。
『三国志集解』に面白いことが書いてあります。
まず『太平御覧』を引用して曰く…。
>> 夏六月、諸葛亮は食糧が底をついたので撤退した。青封木門まで来たところで軍を止め、大きな木があったので皮を削り、「張コウ、この樹の下に死す」と書きました。そして左右の山に伏兵を設けます。張コウが追いかけてきて、その木を見た瞬間、諸葛亮の伏兵が一斉に矢を放ち、張コウは死んでしまいました…。
こりゃホウ涓の最期とおんなじですがな。
つづいて『資治通鑑』に注釈を施した胡三省の解釈。
>>司馬懿は心底諸葛亮を恐れていたし、それに張コウが二度も諸葛亮を防ぎ、関中で名声を挙げていたので、彼の計略を聞き入れたくなかったのだ…。
司馬懿の気持ちをそんな風に決めつけられても…。
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