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▼巫俊(ふしゅん)さん、ありがとうございます。
>黄巾(賊)でしたっけ?
>その人たちって。
>黄巾って、キ州の都市部や河南江北地方に多いって印象ありますけど、
>太行山以西の山間にも布教の手は及んでいたとも考えられるんでしょうか?
>あと彼らって都市部にもなだれこんできたり、群雄と共闘したりもしますしね。
>曹操以外の群雄が、黄巾という「宗教性民族集団」にどう対処・支配・共闘したか、、、
>
>黒山、匈奴、太行山沿いの諸郡の太守たちは、隙あれば黄河の向こうまで蚕食しようという旺盛さが、ときにうかがえますしね。
>一番簡単に考えられるのが、黄巾の教義の受容に積極的でないばかりか自領の黄巾を弾圧してきた群雄が、他領の黄巾は支援するという構図ですね。
曹操以外の人たちがどう彼らを対処、支配、共闘したのかはちょっと気になりました。早速調べてみます。
>ついでにこのとき河北で戦略的に重要な地位を占めたのが、匈奴ですね。
>この匈奴が漢人の宗教を信仰するようになる過程や、後年に匈奴の枝葉のケツ族を率いて太行山沿いの諸郡から山東地方までを自領とした群雄「後趙の石勒」(4世紀の前半の皇帝)も注目しています。
後の時代との繋がり、ということでしょうか。様々な民族が漢文化をどう吸収して、そしてどう勢力を拡大していくか…。そのなかに黄巾が入ってくるとは考えも及びませんでした。
>で、張姓の人ってのがこの時代多いので、一元的に黄巾起源というわけではなさそうですし。
言われてみれば確かに。黄巾だけに結びつけるのはちょっと短慮でした。
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