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▼MM2さん:
>脅し以外にも郷里(冀州)には帰さないという意思表示があったのかもしれません。
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>ところで孟津って孟津関(黄巾の頃都尉を置いた八関の一つ)と同じ位置なんです>かね?
ご意見ありがとうございます。
地理と交通事情が良く分からないのですが、当時、冀州へ向かおうと考えた場合、陸路で白馬津か延津までいってから渡河するルートか、孟津から河下りするルートのどちらがメインかでも話は変わりそうですね。
むじんさんの指摘にあった橋瑁による成睾の要害占拠で陸路、丁原に水路を押さえられたとなると......。
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>あと丁原がどこの出身かという事について考えた事を。
>『三国志』呂布伝注『英雄記』に「(丁原は)南県の吏となった」とあり、官吏任用の建前からこの“南県”は、本籍県の南部の県を指すのではなく本籍県を指している筈です。しかし“南県”というのが『続漢書』郡国志に見えないことから、“南”の前が一文字抜けているのではないかと思います。
>この箇所、引用の出だしから“(丁)原子建陽”(=“(丁)原字建陽”)とあって、裴末之が写し間違えたか参考にした原本が既に間違っていたかで、内容が二重三重に劣化しています。(『後漢書』董卓伝注に同じ箇所の引用があるけど、こちらは南県云々のくだりが抜けています)脱字があったとしても不思議ではありません。これがもし雲中郡の沙南県の事だったりしたら面白いですね。
なるほど、武猛従事の張楊が雲中郡出身ということも考えると、同郷人であった可能性もたかいですね。
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