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こんにちは。
>>これについては何太后から宦官誅滅の令旨を引き出すため、示威行動を取ったよ
>>うですね。『後漢書』何進伝だったか、どこかに書いてありましたよ。
中研院が復旧したようですね。やはり何進伝でした。
>宦官への示威行動で地方の実力者の参集で前将軍・董卓の駐屯、泰山の王匡の強弩部隊、東郡太守・橋瑁の駐屯までは(穏やかではないにせよ)理解とまだ納得ができたのですが、その次の
>”使武猛校尉丁原焼孟津”のフレーズはニュアンスが完全に違います。効果的でしょうが暴挙です。反発も大きいでしょう。ほとんとその筋の人のやり方です。
橋瑁が成睾の要害を占拠したのも結構大きいと思いますが、やはり孟津炎上は心理的にインパクトが大きいでしょうね。ただ孟津の機能をどれくらい奪ったかはちょっと分からないと思います。要害は焼失しても、通常の港湾機能くらいは残ってたかも知れませんし、その逆もあり得るかと思います。
>個人的には、多分丁原の勇み足だったのでしょうが、もし命じてやらせたなら何進がやらせたと思います。袁紹が命じた可能性もないわけではないですが、もしそうだったなら洛陽人士にそっぽを向かれる危険性を無視したとは思えませんし、その後で躊躇を見せた何進の尻を叩いたときに立場が弱くて叩けないはずから。
もともと袁紹の発案なのですが、何進は陳琳の諫言を蹴って採用してるんですよね。相当な決意があったようにも見えます。そうなると意図せざることであったかどうか…。この一連の動きには洛陽の四方を途絶して宦官勢力への援軍を遮断する意図があったと思います。西は夕陽亭の董卓、東は成睾の橋瑁、北は孟津の丁原ですね。これで南方を除いてほぼ封鎖されました。
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