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▼岡本さん:
孟津を焼いたのは趙忠(十常侍の一人)に対する宣戦布告では?とか思ったり。
そもそも何進の政敵は蹇碩だったはずで、その蹇碩は趙忠に見捨てられ、この事件の直前に誅されます。
一連の宦官誅殺を何進にけしかけたのは袁紹ですし、袁紹自身若い頃に趙忠に目をつけられたりしてます。
脅し以外にも郷里(冀州)には帰さないという意思表示があったのかもしれません。
ところで孟津って孟津関(黄巾の頃都尉を置いた八関の一つ)と同じ位置なんですかね?
あと丁原がどこの出身かという事について考えた事を。
『三国志』呂布伝注『英雄記』に「(丁原は)南県の吏となった」とあり、官吏任用の建前からこの“南県”は、本籍県の南部の県を指すのではなく本籍県を指している筈です。しかし“南県”というのが『続漢書』郡国志に見えないことから、“南”の前が一文字抜けているのではないかと思います。
この箇所、引用の出だしから“(丁)原子建陽”(=“(丁)原字建陽”)とあって、裴末之が写し間違えたか参考にした原本が既に間違っていたかで、内容が二重三重に劣化しています。(『後漢書』董卓伝注に同じ箇所の引用があるけど、こちらは南県云々のくだりが抜けています)脱字があったとしても不思議ではありません。これがもし雲中郡の沙南県の事だったりしたら面白いですね。
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