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【2288】当時の豪族についての概念について 2006/4/15(土) 13:18 教えて
┣ 【2289】Re:当時の豪族についての概念について 2006/4/16(日) 2:59 話題提供
┃┣ 【2290】Re:当時の豪族についての概念について 仁雛 2006/4/16(日) 17:25 多分…
┃┃┗ 【2291】Re:当時の豪族についての概念について 2006/4/16(日) 22:37 追記
┃┃┗ 【2292】Re:当時の豪族についての概念について 巫俊(ふしゅん) 2006/4/17(月) 1:39 ひと言
┃┗ 【2293】ありがとうございました。 2006/4/17(月) 7:31 解決
┃┗ 【2294】Re:ありがとうございました。 SILVA 2006/4/17(月) 8:48 ひと言
┃┗ 【2296】Re:ありがとうございました。 2006/4/18(火) 16:31
┃┣ 【2297】豪族と群雄 巫俊(ふしゅん) 2006/4/21(金) 8:51 お答え
┃┃┗ 【2298】Re:豪族と群雄 巫俊(ふしゅん) 2006/4/21(金) 9:22 追記
┃┗ 【2308】Re:ありがとうございました。 SILVA 2006/5/2(火) 9:59
┣ 【2295】Re:当時の豪族についての概念について 仁雛 2006/4/17(月) 11:25 お答え
┗ 【2299】Re:当時の豪族についての概念について NAGAICHI Naoto 2006/4/21(金) 17:17 ひと言
┗ 【2300】Re:当時の豪族についての概念について 巫俊(ふしゅん) 2006/4/21(金) 17:48 ♪
┗ 【2341】皆さん、本当にありがとうございました! 2006/5/29(月) 20:33

【2288】当時の豪族についての概念について
教えて    - 2006/4/15(土) 13:18 -

引用なし
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    はじめまして。今学校で世界史をやっているわけですが、後漢について「党錮の禁以降は豪族の台頭によって力を弱めた」とありました。
 然しながら私が三国志を読むあたり、「豪族」よりは「群雄」だと思うのです。例えば、後漢を事実上の滅亡に追いやった董卓(これも愚見ですが)なんかは豪族よりはもっとスケールが大きい気がします。(群雄とか軍閥とか)辞書を読んでも明解な答えを導くには至りませんでした。
 一体、当時の「豪族」とはどういったものなのでしょうか?

【2289】Re:当時の豪族についての概念について
話題提供    - 2006/4/16(日) 2:59 -

引用なし
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   陳さま。それから皆様。はじめまして。
こちらのバナーなどちまちま弄っているばかりで、掲示板自体には顔を出したこともない荊と申します;

私は、妄想力(!)に任せて、『三国志』という世界を楽しませていただいてるだけのド素人ですが、丁度拙サイトで党錮の禁のネタを振る機会があって、いくつか豪族に関係する論文も読ませていただいてたので、浅識ながらも後漢(とくに末期)の豪族について、いち三国志ファンとしての個人的な理解を書き連ねさせていただきますね。
いくつかの文献を参照したとは申しましても、大いに私見(というか妄想;)を交えていますのでそのつもりで軽く読んでいただけたら幸いです。


この時代の豪族とは『その郷里において宗家(一族の中心となる家柄)を中心に、その眷属、彼らの持つ部曲(豪族の私有民・時に私兵を指すこともあるようですね)、また食客などで形成される大きな宗族で、それぞれの地域で絶大な力を持つ者』とここでは定義させてください。


ちょっとここで、豪族の話から不思議な飛躍をして、先に漢朝の衰微に目を向けさせていただきます。
もともと、漢代の官吏登用制度は『郷挙里選』という「地域からすばらしいと評判の人を推薦しちゃうぞ」的なもので、そのような『選ばれた者』たちが皇帝のもと、秩序正しく国家を形成するという理想を以って運営されていました。
ところが、そう事がうまく運ぶわけもなく、次第に『有力者のコネがある人』もっと平たくいえば『袖の下を渡せる人』が官界を闊歩するようになります。
「何処何処の某は非常に素晴らしい人材だ」という地域での評判(郷論)により推挙されるべき人だけではなく、ちょっと汚い手で官吏になった人たちをも官僚として国を動かすのですから、政府が衰微してしまうのも無理からぬ事。それに加え、宦官が皇帝の庇護を傘に政治中枢を操作するという、追い討ちまでかけられた漢朝は虫の息となります。


とは言え、すべての官吏が腐りきっていたわけではもちろんありません。この(特に宦官外戚による)腐敗政治に正面切って対抗した勢力がありました。腐敗政治を撲滅して、秩序正しい儒教的理想社会に戻そうという一派です。ご周知の通り、党錮の禁は彼らが宦官に正面切って喧嘩を売って、逆にコテンパンにやられちゃった事件です(ちと…いやかなり違いますが・笑)が、これによりまともな官僚の殆どがいなくなった漢朝は、滅びるのを待つばかりになってしまいます。


…前置き長すぎですね;


上述の過程においてまっとうな士大夫のうち党錮の受難を免れた人々を含め、有能な人材の漢朝からの乖離が起こります。
地方へ離散していった官僚の中でも、もともと豪族としてのバックボーンを持つ者たちはその強大な力を以って『自分の』土地で力を蓄えていき、また「未だ政府(=ここでは宦官)に追われる」身の者達は地方に潜んだり、力のある豪族のブレーンとしてその宗族団に組み込まれていったりします。


宦官外戚の専横状態の政府と、地方で力を蓄えつつある豪族。この二つを「対立」という構造でとらえるならば、豪族の持つ部曲は私兵という色彩を強く持ち、豪族は軍閥と同義に語りうると考えられます。そして、この軍閥同士の淘汰が、最終的に三国鼎立の形を形成していく…


つまり「後漢は党錮の禁以降は豪族の台頭によって力を弱めた」という世界史での記述は、陳さまが頭に思い描かれている群雄の台頭と(群雄の定義は寡聞にして私もよく分かりませんが)絵面的にはなんら変わりないと、愚考いたします。
*絵面なんて言ってる時点で理論よりもイメージ優先なヘボ絵描きの世界観丸出しなんですが;


蛇足ですが、先に申しました漢代の官吏登用制度である『郷挙里選』は、魏朝にいたって陳羣の建議による『九品中正法』に変わりますが、この制度こそ門閥(決まった家柄の者が政治権力を独占する)政治の形成に特に寄与し、中国中世における「上品に寒門なく下品に勢族なし」と言われる特定『貴族』による政治を許すことになるといわれていますので、この『貴族』のルーツを地方の名望家→豪族に求め
るとするならば、「後漢は党錮の禁以降は豪族の台頭によって力を弱めた」という記述は結構意味深に感じられますね。


以上、推敲苦手なため初投稿にして要領を得ない長文になってしまい、申しわけありません。
ところで、参照した文献はこのようなweb掲示板上でも、通常の論文を書くときにいたします〔参考文献の記述の仕方〕に則って書き込んでもいいものなのでしょうか。よく分からなかったため、とりあえずは参考文献を記さずに書き込みさせていただきました;

【2290】Re:当時の豪族についての概念について
多分…  仁雛  - 2006/4/16(日) 17:25 -

引用なし
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   >荊さん

豪族に関するご意見、拝読いたしました。

>ところで、参照した文献はこのようなweb掲示板上でも、通常の論文を書くときにいたします〔参考文献の記述の仕方〕に則って書き込んでもいいものなのでしょうか。よく分からなかったため、とりあえずは参考文献を記さずに書き込みさせていただきました;

できれば、名前だけでも書いてくださると、個人的にはありがたいです^^;
豪族の定義、云々については以前学界でも話題というか、研究者によって色々違うなど、多少議論になったことがあったかと思うのですが、宇都宮清吉とかその後の豪族の家族(中小家族か大家族か)についての研究しか自分は読んでないので、ご教示いただけたらと思いました。

【2291】Re:当時の豪族についての概念について
追記    - 2006/4/16(日) 22:37 -

引用なし
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   では、追記させていただきますね♪
書いていいもんなのかな〜、と考えあぐねていたところでしたので。


参考文献(拾い読みだったり通し読みだったりなので頁記載してません…てかできてません;)
(1)川勝義雄「貴族社会の形成」『六朝貴族制社会の研究』1982年 岩波書店
(2)矢野主税『門閥社会形成史』1976年 国書刊行会
(3)『三国志』巻二十二魏書二十二陳羣伝
(4)宮崎市定『九品官人法の研究―科挙前史』中公文庫
(5)林田慎之助「儒教・党錮の禁-「濁流」支配に対するレジスタンス」『歴史読本』第39巻10号


ちなみに、上記(5)の『歴史読本』第39巻10号は『三国志名士清流派列伝』と題うってあって、私のような「下手の横好き」でも楽しめる話題がどっさりですv(豪族に特化した内容ではないので、本スレッドの本旨からは微妙に外れてしまいますが…。)
とりあえず荊は、学術的研究対象としてではなく、ネタの裏づけ+さらなるネタ探しというスタンスで上記のものを読ませていただきましたので、論拠等まで行き着くわけもなく、単に表層を眺めただけのレベルであるということを、言い訳のように申し添えます(^ー^;)

【2292】Re:当時の豪族についての概念について
ひと言  巫俊(ふしゅん) WEB  - 2006/4/17(月) 1:39 -

引用なし
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   はじめまして。
世界史のなかで説明される豪族は、何やら三国志のなかからすると、ひどく浮いたものに見えることがあります。
というか同感です。

解決策としては、具体的に豪族と思われる人の振る舞いを正史で確認してみると、はじめて実感が湧いてくるものじゃないかと思いますが、
乞食士大夫に野菜の盛り付けを喰わせておいて、豪族の自分は分厚そうな肉をムシャムシャ食べるというエピソードがありましたよね?
豪族ってのは富裕な人たちのことですから(貧乏な豪族もいるかもしれないけど)。

>(4)宮崎市定『九品官人法の研究―科挙前史』中公文庫
これ昔読みました。

【2293】ありがとうございました。
解決    - 2006/4/17(月) 7:31 -

引用なし
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    荊さん、ありがとうございました。
 何だか凄い事になっていますね…私の愚問からここまで発展するとは思いもよりませんでした。

 そんなことより、せっかくのご教授の感想です。今回のことで私が分かり得た事は
 ・今までの私の中の三国志像、つまり群雄割拠のイメージを崩す必要な無い、つ  まり豪族と軍閥はほぼ同義である、ということ
 ・九品官人法では、豪族の子孫が貴族となり、門閥をつくった。これとの繋がり  を考慮すると、豪族という表記の方が学習する上でで分かりやすい、ために   群雄などの表記を避けた

 こんな感じでよいでしょうか?また的を得ていなければご指摘の方お願いいたします。

【2294】Re:ありがとうございました。
ひと言  SILVA WEB  - 2006/4/17(月) 8:48 -

引用なし
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   こんにちわ。ROM専SILVAです(・ω・) #ちょっとだけ登場

あまり長くなるとあれなんで手短に私見を申し上げますと、

 自分たちでなんとかしたいと思った豪族こと清流派が
 曹操と一緒になって漢王朝をうまい具合に食いつぶした

ということを言いたかったんだと思います。


豪族というのは地元で飯が食える有力者程度の認識で良いのでは。
教科書レベルでそこまで真剣に豪族を定義するとは思えません。
<sage>

【2295】Re:当時の豪族についての概念について
お答え  仁雛 E-MAILWEB  - 2006/4/17(月) 11:25 -

引用なし
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   ▼陳さん:
> はじめまして。今学校で世界史をやっているわけですが、後漢について「党錮の禁以降は豪族の台頭によって力を弱めた」とありました。
> 然しながら私が三国志を読むあたり、「豪族」よりは「群雄」だと思うのです。例えば、後漢を事実上の滅亡に追いやった董卓(これも愚見ですが)なんかは豪族よりはもっとスケールが大きい気がします。(群雄とか軍閥とか)辞書を読んでも明解な答えを導くには至りませんでした。
> 一体、当時の「豪族」とはどういったものなのでしょうか?

まず、世界史で「党錮の禁以降は豪族の台頭によって力を弱めた」とあるのは、後漢末は豪族(=大土地所有者であり、かつ中央や地方の官界にも進出しているもの)の勢力が大きくなり、党錮の禁で清流派と呼ばれる清廉な儒教官僚の勢力が減退すると、皇帝すら豪族勢力の台頭を抑えきれずに、結局、豪族たちによる地方割拠・政治的跋扈の時代へ突入し、軍事的混乱も招き、後漢は滅亡の道へと、という文脈で語られているものだと思います。

こうした流れを、明確に打ち出したのは川勝義雄先生で、講談社の中国の歴史などに分かりやすく書かれていると思います。それから、細かな意見の差はありますが、歴史のおおまかな流れとしては、今でも支持されていると思います。

川勝氏の言う「豪族」とは、耕作地などを含んだ荘園(私有地)をたくさん持っていて、農奴ないし奴婢とかを養い、地域では経済的に優位にたっている「封建領主」的な性格を多分に持っていた存在です。そのため、バックアップのない自作農が没落してしまった、だから自作農を(いちおうの)基盤としていた後漢が崩壊した、と見るわけです。そして、こうした地方割拠的な豪族の存在・伸長に、中国における「中世」を見出したわけです。

ただ、やりたい放題な豪族ばかりではなく、清流派ややられっぱなしな自作農が「レジスタンス運動」をしたり、「豪族」も結局は経済ばかりでは立ち行かなくなる、ということで、「地域の名声」が不可欠である「貴族」へと変貌していきます。先の経済力・武力だけで地域支配が完結する豪族(封建領主)の社会にならなかった点に、中国オリジナルの「中世」を見出せるとしたわけです。このあたりの基本的な考えは、谷川道雄先生に引き継がれていきます。

まぁ、高校の世界史では、こうした知識は必要とされないでしょうけれど^^;

それと、上の意見に反対な学者ももちろんいますし、現在では「名士」を想定して説明する先生もおられます。

堀敏一先生の『中国通史』講談社学術文庫は、こうした学界の研究の流れを比較的平易に書いているので、学界ではどんな考えがあったのかとか、後漢末〜三国を学者たちはどうとらえてきたのかを一般の方々が知るには、非常にすぐれた本だと思います。本屋の棚ではあまり見ませんが、ご興味のある方はぜひ手にされると啓発するところが多いはずです。(一般書に自説ばかりを披露するよりかは、一般の人にとって有益だと思います^^;)

あと、「豪族」よりは「群雄」ではないか、とのことですが、そう感じられたのはもっともなことかと思います。豪族にもいろいろなレベルがあります。それこそ、地方の県だけで勢力をはっている豪族も入れば、袁紹とか中央朝廷で高官を歴任する全国レベルな?豪族もいるのです。そうお考えになれば、「豪族」という記述でも納得できるのではないか、と思います。

以上、間違いもあるやと思いますが、私見を述べさせていただきました。

【2296】Re:ありがとうございました。
   - 2006/4/18(火) 16:31 -

引用なし
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   ▼SILVAさん、ありがとうございました。


 私の表現の仕方が拙かったですね…。誤解を生む表記、本当に申し訳ありませんでした。
 そこで、教科書の内容を要約して、改めて愚問させていただきます。

1.後漢は章帝以降は幼帝が相次ぎ、ために外戚と宦官が台頭した。彼らは勢力争いをした
2.宦官は反対派官僚(恐らくは清流派のことでしょう)を追放した(党錮の禁)

3.一方、地方では勢力のあった豪族が儒学的教養を身に付け、「次の時代の支配階級」となった
4.こうして後漢の情勢は農村から変貌していった
5.豪族の台頭は農民を圧迫し、農民たちは太平道などの宗教結社へ参加、黄巾の乱が起き、「『豪族』の争いの中後漢は力を弱め」、220年滅亡した

 「6.」は蛇足ですが一応付記させて頂きます。

6.後漢末期の「群雄」による争いの中、華北では曹操が有力となり、その子曹丕が皇帝から位を奪った


 要するに、私は群雄割拠の時代を後漢末のイメージとしていた訳です。様々な書籍でも「後漢末の群雄のうちの一人、〜〜は…」という表記がされていて、「後漢末は群雄達があらそっていたんだ」という概念がありました。そこを「豪族」と言われた為、疑問に思い、(3.〜5.のあたりです)「豪族」と「群雄」て何の差があるのかと思った訳です。

ところで要約とは言え、教科書名を表記しなければならないのでしょうか?どなたかお答えいただければ幸いです。


>豪族というのは地元で飯が食える有力者程度の認識で良いのでは。
>教科書レベルでそこまで真剣に豪族を定義するとは思えません。


 史学だと、微妙な表記の違いから大きな誤解を生み出しますよね?(例えば「人民」「市民」「国民」の使い分け)私は教科書を追求する訳ではなく、「豪族」という表記に疑問を抱いた、ただそれだけなんです。別に教科書外でこう表記されてもここにて愚問したでしょう。くどいようですがただ単に私は「豪族」という言葉に疑問を持った、それだけなんです。教科書に突っ込みたいだけではなかったんです。現に私の愚問にお答えくださった方々の意見はもの凄く影響を受けました。私はそこを解きたかったのです。深く。三国志好きとして。しかしSILVAさんの意見も参考にさせて頂いております。

 身勝手を申しましたが、SILVAさんに大きな誤解を生ませてしまった私の不明も問わねばなりません。本当に申し訳ありませんでした。

 余談ですが私も先生に「豪族と群雄の差は?董卓は…曹操は…」なんて言ったら「世界史の中の後漢だから」と、あっさり言われました。よくよく考えればそうなんですよね。

【2297】豪族と群雄
お答え  巫俊(ふしゅん) WEB  - 2006/4/21(金) 8:51 -

引用なし
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   教科書の名前を挙げるなら、何年に発行されたバージョンかも書いてくださいな。
最近の世界史の教科書ってオールカラーになっていて、はるかに平易になってるんですよね。
平易過ぎて中国史が分からないということもあるかもしれないですが。

黄巾の乱は農民反乱というだけでなく、知識人=豪族の子弟が参加していますし、
また清流派士大夫は豪族の出身です。
張角も曹操も董卓も、一応は知識人のはしくれらしいということで、等しく豪族の出身であるといえます。

> 史学だと、微妙な表記の違いから大きな誤解を生み出しますよね?(例えば「人民」「市民」「国民」の使い分け)私は教科書を追求する訳ではなく、「豪族」という表記に疑問を抱いた、ただそれだけなんです。別に教科書外でこう表記されてもここにて愚問したでしょう。くどいようですがただ単に私は「豪族」という言葉に疑問を持った、それだけなんです。教科書に突っ込みたいだけではなかったんです。

神聖な歴史学の教科書にツッコミをいれるとはトンでもない...
な〜んてことはまったくないですから、むしろ教科書は歴史を紐解くときの目次くらいに思っておいてください。
「国民」という言葉は近代用語ですし、
例えば「都市」という言葉も誤解をつくりやすい言葉です。

ある古代の遺跡について、
「都市」と呼べば都会っぽいイメージになり、
「ムラ」と呼べばひなびているイメージになってしまいます。
中国の「城」という言葉は、人の住んでいるところを都会か田舎かで区別せずに呼ぶことができるので便利ですね。
もっとも「城」というのは県城以上の規模に使われることが多く、それ以下の集落は「里」とか「村」とか呼ばれるのですが。
「村」という言葉の発生する時期についても、三国時代をはさんでいろいろ議論があるようです。

> 余談ですが私も先生に「豪族と群雄の差は?董卓は…曹操は…」なんて言ったら「世界史の中の後漢だから」と、あっさり言われました。よくよく考えればそうなんですよね。

長い歴史を授業することに忙殺されている先生は、ついそういってしまうんでしょうね。
後漢を豪族が滅ぼしたと説明するだけなら、それはちょっと違うんじゃないかと思いますよ。
アフガニスタンって今、後漢末みたいな乱世の状態になっていますよね?
アフガニスタンの首都カブールの政権は、地域の名望のある人たちによって支えられています。
軍閥出身だったりイスラム法学者だったりするんですが。とにかく有徳の人が地方選挙で議員になって政府に参加しています。
でも、タリバーンを滅ぼしたのは地方の有力者たちでしたっけ?
違いますよね。アメリカ軍に支援された北部の反タリバーン連合がタリバーンを滅ぼしました。

反タリバーン連合=三国志の群雄たち
地域の有力者=三国志の豪族

と考えてみては如何でしょうか?
豪族というのは、群雄の下部構造なんです。

【2298】Re:豪族と群雄
追記  巫俊(ふしゅん) WEB  - 2006/4/21(金) 9:22 -

引用なし
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   後漢王朝を支えていたものは豪族

漢末の群雄たちを支えていたものは豪族

三国の王朝を支えていたものは豪族

豪族は土地を所有して富力があり、子弟を塾や大学で勉強させて知識人階層にする余裕がある人たちのことです。
ふつうは県より小さい単位の土地を所有する人たちのことですが、
中には土地をもっと沢山もっている人もいます。
それでも群雄のような規模ではありません。
漢末の群雄というのは、州刺史や郡太守といった官職を帯びて公式に州郡県を支配している人たちのことです。
平和な時代も、豪族は出世のために官職を得て地方官や中央官になっています。

後漢→三国→晋/五胡十六国→南朝/北朝と一貫して豪族が力をもっています。
といっても時代や世相が変化するたびに、豪族たちの仕組みも変容し続けているようです。

【2299】Re:当時の豪族についての概念について
ひと言  NAGAICHI Naoto  - 2006/4/21(金) 17:17 -

引用なし
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   ▼陳さん:

面白そうなので話に加えさせてください。

>董卓(これも愚見ですが)なんかは豪族よりはもっとスケールが大きい気がします。

どうも「豪族」という言葉に先入観をもっておられるように思います。
もし、日本史とかで、豪族・国人は大名よりスケールが小さい領主とかいう印象をお持ちなら、ここでは捨てておいてください。
「豪族」というのは、原意は「豪(つよ)い族」なんですよ。

「豪族」の定義も辞書によって表現が違うでしょうけど、
「ごうぞく 豪族
中国で大土地所有者の有力家族を中心に、多くの分家・親族を結合した同族の力で地方に勢力をはったもの
すでに戦国時代末期から発生したと考えられるが、前漢中期ころから農村内部の階層分化に応じて、少数の富裕農民や一部の商人が地主化して豪族となった。前漢の歳入は小農民からの田租や人頭税を中心としたので、小農民保護のために豪族の土地兼併を抑制したが効きめなく、豪族の連合政権的な性格をもつ後漢の下で豪族はいっそう力を蓄えた。三国・南北朝時代の混乱期に彼らは事実上の社会秩序の維持者となり、九品中正法による官吏登用もかえって豪族に利用され、彼らは上級官職を独占して門閥貴族層を形成していった。隋・唐は科挙を実施したが、唐初期は蔭位(無試験推薦)により貴族は高官を独占した。」『世界史事典』(旺文社)
歴史上の定義としてはこんなとこじゃないかと思います。

さて、「群雄」と「豪族」の差ですけど、
「群雄」の意味は、だいたい「多くのすぐれた人々」とか「多くの英雄」とか辞書で出ると思います。
「群雄」とくれば「割拠」と続くのが当たり前なくらいで、ある領域の分裂状態を前提として、そのばらばらな勢力のそれぞれトップクラスの人間の集合でしかありません。
出自も関係ないし、存続期間も関係ない用語ですね。
武士だろうと農民の首領だろうと軍閥の将軍だろうと宦官だろうと、地方勢力として上に立っていれば「群雄」でしょうし、
起兵して一年たたずにぶっ倒れたって、場合によれば「群雄」でしょう。

「豪族」は、歴史的な意味づけがいろいろ加えられてしまっていますが、
何代か続いて強い勢力を維持していることが前提ですし、軍事的割拠状態や政治的分裂に必ずしもこだわらない用語です。
漢・三国・晋・南北朝〜にわたって、社会のバックボーンを支えている人々です。

「群雄」も「豪族」もケース・バイ・ケースで使ったらよい用語だと思いますが、「群雄」がやや英雄史観めいた浮薄な感じを受けるのに対し、
「豪族」はいくぶん社会史的な感じはしますね。これは個人的感触ですが。

隴西の董卓などは豪族としてみるには歴史が浅いですが、袁紹・袁術の汝南袁氏などは後漢の四世三公の家柄ですし、大豪族といわれています。

【2300】Re:当時の豪族についての概念について
♪  巫俊(ふしゅん) WEB  - 2006/4/21(金) 17:48 -

引用なし
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   >どうも「豪族」という言葉に先入観をもっておられるように思います。
>もし、日本史とかで、豪族・国人は大名よりスケールが小さい領主とかいう印象をお持ちなら、ここでは捨てておいてください。
>「豪族」というのは、原意は「豪(つよ)い族」なんですよ。

豪族は群雄の下部構造...
とか書いてしまったんですが(^^;
どうしましょう。
日本史のイメージの影響はたしかにありますよね。
豪族という言葉を使えば、社会の新興勢力を一括して呼べる免罪符的用語になっているような気もします。
さてさて

【2308】Re:ありがとうございました。
 SILVA WEB  - 2006/5/2(火) 9:59 -

引用なし
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   いえいえ、私の理解力にも問題があるのでお気になさらず・・・

大雑把に言ってしまうと
豪族はある程度バックボーンを持った人のことかなぁと。実力者ですね。
で、群雄はリーダーシップを取れる人。あるいは求心力のある人かな?
<sage>

【2341】皆さん、本当にありがとうございました!
   - 2006/5/29(月) 20:33 -

引用なし
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    皆さん、数々のご教授ありがとうございました。
 社会構成なんかも知ることができ、非常に参考になりました。
<sage>

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