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気になるアイツ(桓伯緒)
030118
<<気になるアイツ(於夫羅)
         ▲江東星/絵「申し上げます。

   ふふふ、今回はキリ番(1369=372)、とったので、イラストをいただく♪   このイラストを描いてくれた江東星さんについては左のバナーを辿って、サイト「三顧堂」を参照のこと。


   で、この人物は誰かっていうと、桓階(字、伯緒)。清岡のリクエストなのだ1)
   桓伯緒さんは、孫堅張羨劉表の敵対勢力)→曹操という順に仕えて、曹操配下で太常まで上り詰めた人物2)

   こう書くと何だか、その主君を変えつつ、世渡り上手なサクセスストーリーを今から書くような印象を与えるかもしれないけど、私が書きたいことはただ一つ!
   孫堅−張羨時代の狭間。文台さん(孫堅)の死を引きずっていると思われる部分が書きたい&、見てしまうのだ。

   だから、史書でいうところの「三國志卷二十二   魏書二十二   桓二陳徐衛盧傳」の冒頭部分だけなのだ。

   伯緒さんは郡のお役人さん(功曹)をしているころ、当時、そこのボス(長沙郡の太守)だった文台さんにその才能を認められ、尚書郎に任命される。

太守孫堅舉階孝廉、除尚書郎。父喪還郷里。

   というようなことで、任命されたと思ったら、次の文で、いきなり、伯緒さんの父親がなくなったので、彼は郷里に帰っている。

   で、彼の悲劇は父親を亡くしただけでは留まらない。
   なんと、郷里へ帰っている間に文台さんが亡くなったのだ。

   文台さんは劉表さんとの戦争中、襄陽(南郡)近くのけん山で殺されてしまう3)
   伯緒さんの故郷が長沙郡の臨湘県というところだから、直線距離でも420km、離れている。
   知らせが届いて、どれだけ急いで文台さん陣営に戻っても、ことが終わったという雰囲気だったんだろうと想像してしまう。

   私だったら、失意におちて何もできないでいるのだろうなって思うけど、この人は違う。
   行動派

   なんと、敵陣の劉表さんのところへ、苦難を覚悟で、文台さんの亡骸をとりにいったのだった。
   そしてここで敵軍のボスである劉表さんも立派な人。
   伯緒さんに亡骸をかえさなかったり、捉えたりすることなく、気前よく、文台さんの亡骸を劉表さんは彼に与える。

   うーん、ジェントルマン同士の高度なやりとり。

   史書で前後関係を見ると、その後、文台さんの亡骸はその後、曲阿というところに葬られたようだ4)



   しかし、伯緒さんの想いはここで終わらない。
   まず、文台さんの部下たちと共に袁術さんのところへ行ったのではなく、どうやら、文台さんの後任の長沙郡の太守、張羨さんに仕えたようだ。

   「え?   伯緒さんってなんて忠誠心のない人なんだ、孫家を見限るとは」と思うなかれ!
   その理由のヒントはすぐ後に現れる。

   伯緒さんは張羨さんに進言する。
   そう、きっと、上の絵のように魅力的で少し妖艶な眼差しを向けながら、「申し上げます。」と言ったに違いない。

   進言の内容は割愛。
   オイ、と読んでいる人に言われそうだけど、私には、とにかく当時の政治や勢力の状況を織り交ぜながら、もっともらしいことを口八丁に伯緒さんは言って、張羨さんをそそのかしているように見えるのだ。内容は二の次、要は結果。
   つまり、張羨さんを劉表さんと戦うようにそむけてるように、見える。

   自分の弔い合戦に張羨さんの力を借りているように!(妄想爆発!   すみません。)

   しかも、張羨さん率いる長沙の軍だけじゃなく、隣の三郡をも劉表さんと戦うようにしむけている。
   なんて、クレバーな弔い合戦なんだ!


   ところが張羨さんは戦時中に病気で亡くなってしまう。
   んー、期間があいているとはいえ、続けて主君を亡くしてしまう伯緒さんは運が悪い。
   それで、戦の勝者である劉表さんは、ジェントルマンらしく、伯緒さんを召し抱える。
   ところが伯緒さん、病気を理由に雲隠れしてしまう。

   これ以降は、もう語らなくても、いいとおもうんだけど、念のため。
   過去に張羨さんをそそのかして、劉表さんと戦わせたことに気分を良くして、曹操さんに召し抱えられたというわけ。
   ………ん?   やはりサクセスストーリーみたいかね。



1)   ちなみに小さく描かれているのは孔融(字、文舉)さん。この人も書く機会があれば是非、「気になるアイツ」シリーズに。   <<戻る

2)   太常。「秋七月、詔祀故大司馬曹真・曹休・征南大將軍夏侯尚・太常桓階・司空陳群・……」(三國志卷四魏書四三少帝紀より)のところから引用。尚書令桓階という記述が多いけど、どちらが官位的に上なんだろうかね。   <<戻る

3)   文台さんの最期。「堅撃破之、追渡漢水、遂圍襄陽、單馬行けん山、為祖軍士所射殺。」(三國志卷四十六呉書一孫破虜討逆傳より)など。「卒」じゃなくて「士」に殺されているのが武人的にまだ救いがあるかな。。。。   <<戻る

4)   曲阿に葬られた文台さん。「堅薨、還葬曲阿。」(三國志卷四十六呉書一孫破虜討逆傳より。孫策さんの記述のところ)。その後、多分、お墓が移動したんだけど、一度は行ってみたい場所。   <<戻る

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