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気になるアイツ(羊興祖)
020728
<<気になるアイツ(臧旻)

   寿春と舒。
   地図に物差しを当ててみると、その距離は直線距離で約160km。020714-11)

   一部の三国志ファンの方なら、上の地名2つで何を書こうとしているか、ピンと来ると思うけど、江表伝によると、それぞれ、孫策(字、伯符)と周瑜(字、公瑾)が十代のころ(十餘歳)に住んでいたところと言われている。1)
   同じ江表伝によると、周瑜が孫策の評判を聞きつけて、会いに来たとあるけど1)、どうも私には、160km以上の距離を、評判だけで特に明確な目的もなく、移動するなんて信じがたい。
   何か、他にきっかけがあるのでは?   と勘ぐってしまって、あわよくば小説のネタにしてしまおう、私は思い始めていた。

   そんなこんなで、とりあえず、それぐらいの時期の舒の歴史を適当に調べていると、一つの戦乱が目に付く。揚州黄巾賊が舒に攻めていたとのこと(下の引用参照)。
   前後関係からみるとだいたい光和七年から中平三年の間、同い年の孫伯符と周公瑾が十歳から十二歳のころだから、先にあげた江表伝に書かれている「十餘歳」の範疇に一応、入る。

   当時、その舒の太守をしていたのが、羊續(字、興祖)という人2)
   対黄巾の地方官というと、その多くが逃亡したという印象があるけど、この人は戦いを選んでいる。

後揚州黄巾賊攻舒、焚燒城郭、續發縣中男子二十以上、皆持兵勒陳、其小弱者、悉使負水灌火、會集數萬人、并げい力戰、大破之、郡界平。2)


とあるように、羊興祖がただ、勇敢に戦ったという記述ではなく、そこの住民たちと一丸になって戦ったようである。つまり、街を焼かれている状況で、舒(県)にいる二十歳以上の男子に武器を持たせ戦わせて、それより小さい者には水を持たせ消火活動を行わせ、そらら数万人で賊を破ったとのこと。
   中国の城は日本で言う城と違って、街全体を城壁で囲むタイプだから、「焚燒城郭」とは城の内まで燃えているのだろう。そのような状況で逃げずにあきらめず、県内の男子を徴集し、さらに年少の者も活用するなんて、この羊興祖という人はよほど統率力に優れた人物なんだろう。

   舒県で群衆に混じって、あれこれ指示している羊興祖の姿が目に浮かぶ……

   と、ここで冒頭のことを思い出す。

   このときの周瑜は如何に?

   先にあげたように、周瑜はこのとき、十歳から十二歳だから、水を持って、消火活動をしてたという可能性が浮き上がってくる。年齢的に出来なくもない歳だ。(ただし、別の土地に居たという可能性もある。)
   ただ、周瑜の場合は本人の意志はともかく、家柄的にまわりの人が周瑜の消火活動を止めそうなイメージがある。
   でも、そんな年少の頃に、みんなのために、消火活動をしている健気な周瑜は素敵だなあと、想像すると、自然と笑みが漏れてしまう。

   ここに孫策との出会いを絡めて、小説にできたらなあ、と思っている。

   もちろん、羊興祖の活躍は外せない。


1)   「江表傳曰:堅為朱儁所表、為佐軍、留家著壽春。策年十餘歳、已交結知名、聲譽發聞。有周瑜者、與策同年、亦英達夙成、聞策聲聞、自舒來造焉。」(三國志卷四十六呉書一 孫破虜討逆伝の注に引く江表傳)より。何だか長い引用になってしまったけど、「壽春」(寿春)と「十餘歳」(十歳余り)と「舒」と言う言葉に注目。ただ、江表伝はファンの間で眉唾史料として有名だし、三国志本編と多少、食い違う記述を含んでいるので、このまま信じて良いものか……   <<戻る

2)   後漢書卷三十一郭杜孔張廉王蘇羊賈陸列傳第二十一より。ここに羊興祖が廬江太守だったということも書いている。   <<戻る

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