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蒼天航路4巻をあえて突っ込んでみる(2)
020714
<<蒼天航路4巻をあえて突っ込んでみる(1)

   さてさて続き。

(P.64、3コマ目   孫とかかれた旗)テロップ「揚州・会稽郡」

   まだ、文台さん(孫堅)は曹操のセリフ中でしか、登場していないのだけど、これはおそらく「揚州・会稽郡」には文台さんの軍があるぞということを指していると思う。
   前回で似たようなことを突っ込み済みだけど、一応、おさらいがてら。

   文台さんの軍は下ひ、あるいは淮水と泗水あたりに居る020704-3)
   それに数歩譲っても、文台さんの故郷は「呉郡富春県」で、会稽郡ではないので、やはり関係ない1)
   ちなみに「呉郡富春県」は浙江の北側にあって、会稽郡は南側にあるから、単純に川一つ分、間違えたの?。それとも、時代を五十年ぐらい間違えたの?2)
   いや、そんなことはないよね……「会稽郡」といえば、思いつくのが前回も触れた会稽郡の反乱討伐。この軍と勘違い?020704-4)   でも、漫画で描かれている時代より十年ばかりも前だから、時代錯誤過ぎだし
   あと、「会稽郡」といえば、文台さんの黄巾退治時の上司にあたる朱儁の出身地が「会稽郡上虞県」出身だから3)、そこに文台さんが居て……って諫議大夫っていう役職だから4)、そんな地方には(ましてや軍を持つなんて)居ないし。
   やはり話の流れ的に遠い地から軍を引き連れてやってくるって方が、読者に各地の群雄がやってくるという印象をつけやすいからなんだろうか……にしても、会稽郡の「孫」の旗印というのは謎。

(P.87、1コマ目)曹操「ならば袁紹!   何進大将軍に国庫を開けるよう進言しろ」

   「蒼天航路」では曹操がこのように言っているが、史書では皇甫嵩が国庫を開けている5)。まぁ、そんな世俗的なことより皇甫嵩は黨錮の禁を解いたこと5)で評価されている。ちなみに皇甫嵩のそういうことは「蒼天航路」で触れられていない。
   この先を読んでいけば、「蒼天航路」の物語上での曹操と皇甫嵩との役割を見るとなんとなくわかってもらえると思うけど、皇甫嵩はどちらかというと曹操の引き立て役になってしまっている。皇甫嵩は、主人公・曹操の上司(注・物語上では)なので、「間の抜けた上司&天才的な部下」というわかりやすい構図にするには最適。史書的には異なる点が多くなるけど、物語的には筋が通っていて、なおかつ面白いことになっている。

(P.98、3コマ目)「漢帝国軍・車騎将軍   皇甫嵩」

   私見だけど、史書を読んでいると、時代の順序をおおらかに捉えて、名称・呼称を書くことがある。たとえば、黄巾の乱が平定されて、中平と改元されたと書かれているの6)に、別の史書を見ると、中平元年に黄巾の乱が起きたと書かれていたりすることである7)
   黄巾の乱の時期における、皇甫嵩の役職もその例に当てはまる。黄巾の乱で手柄を立てて、車騎将軍に昇進したのに8)、黄巾の乱を平定する前から車騎将軍と書かれている9)
   「蒼天航路」ではその史書のセオリー(といっても私の見解だけど)を踏まえたのか、あるいは例の物語上のことなのか不明。確かに役職が高ければ高いほど、「間の抜けた上司」といった役割が引き立つんだけど。

(P.139、1コマ目)皇甫嵩「孫堅とやら君は副官でありながら   なぜ南陽の朱儁の下におもむかん?   朱儁は同郷の親分格ゆえ値をつりあげられぬか?」

   前半部分。
   まぁ、副官の部分は見逃すけど、問題は「南陽の朱儁の下におもむかん?」って部分。
   確かに史上、朱儁は南陽へ黄巾討伐に赴いているんだけど、その前に潁川の黄巾の乱を平定している。もっと、史書について、詳しく書くと、朱儁は皇甫嵩と曹操と共同して潁川の黄巾の乱を平定している。潁川の黄巾討伐の後、皇甫嵩は北の冀州、そして朱儁は西の荊州(南陽)へと軍を進める。ちなみに曹操の軍の行方は不明。つまり「蒼天航路」では史書と比べて、軍の進め方がごっちゃになっている10)
   史書での曹操の軍が潁川以降、不明なので、多分、曹操を時代の中心に持ってくるために「蒼天航路」ではわざと順番をかえていると思う。史書どおり、荊州や冀州で終わるより、曹操が活躍した豫州(潁川・昆陽?)で終える方が物語的には適していているのでしょう。

   後半部分。前述の突っ込みとちょっとかぶってる(汗)
   文台さんは呉郡富春県の出身に対して朱儁は会稽郡上虞県の出身で、直線距離で80キロメートルぐらい、離れているし、その間に大河(浙江)が挟まれている。その距離は神戸・京都間より長い11)
   まぁ、大陸と島国では単純に比較できないのだけど、他の地域から見たら、関西地方ひっくるめて「同郷」と一括りにされてしまうのかもしれない。
   それか作中の皇甫嵩がそう一括りにしたのか、作中の皇甫嵩がそう勘違いしていたのか…
   まぁ、文台さんと朱儁の出身地に触れる三国志ものって結構珍しいので、そこら辺はかなり評価できること。

   というわけで今回はこのへんで。
   結局、引用が少なくて、突っ込み部分が多くなった観がある。まぁ、ようやく文台さんが登場したので予告は達成されている。
   次は曹操と皇甫嵩との確執部分……いや、作中じゃなくて、作外(設定部分)のことについてになる予定。例によって予定は未定(汗)


1)   「孫堅字文臺、呉郡富春人、蓋孫武之後也。」(三國志卷四十六呉書一   孫破虜討逆伝より)   呉ファンは押さえておきたい呉志の出だしだけど、文台さんをのちの三国の一つ・呉の人と捉えるのはいただけない。死後、武烈皇帝になっているが、後漢の制度の範疇でその生涯を終えている。   <<戻る

2)   「到永建四年、劉府君上書、浙江之北、以為呉郡、會稽還治山陰。」(三國志卷五十七呉書十二   虞陸張駱陸吾朱傳第十二の注に引く會稽典録より)   この前の文まで、会稽郡(役所?)をどこに置くかという話で、結局、永建四年(西暦129年)に浙江の北を持って呉郡(新設らしい)として、会稽郡は山陰(浙江の南)にしたということ。   <<戻る

3)   「朱儁字公偉、會稽上虞人也」(後漢書卷七十一皇甫嵩朱儁列傳第六十一)より。会稽郡に関しては脚注2)に少し触れた會稽典録に見られる虞翻の言葉を読むのをおすすめ。会稽郡の偉人がたくさん言及される。私的には反董卓のときの朱儁のことを持ち上げているのが良♪   <<戻る

4)   「以功封都亭侯,千五百戸、賜黄金五十斤、徴為諫議大夫。」(後漢書卷七十一皇甫嵩朱儁列傳第六十一)より。その前の文まで交州の反乱を鎮めたというのを受けて、その功で都亭侯に封じられて、諫議大夫になったとのこと。   <<戻る

5)   「嵩以為宜解黨禁、益出中藏錢・西園厩馬、以班軍士。」(後漢書卷七十一皇甫嵩朱儁列傳第六十一)より。これを見ると、馬関係も皇甫嵩の手柄。   <<戻る

6)   「十二月己巳、大赦天下、改元中平。」(後漢書卷八孝靈帝紀第八)より。ここで書かれているのは光和七年、西暦でいう184年。   <<戻る

7)   「中平元年、黄巾賊帥張角起于魏郡、託有神靈、遣八使以善道教化天下、而潛相連結、自稱黄天泰平。」(三國志卷四十六呉書一   孫破虜討逆伝)より。よくよく見たら、脚注6)で紹介したのにも「中平元年春二月、鉅鹿人張角自稱『黄天 』、其部有三十六、皆著黄巾、同日反叛。」(後漢書卷八孝靈帝紀第八)と書いているな(汗)   <<戻る

8)   「嵩復與鉅鹿太守馮翊郭典攻角弟寶於下曲陽、又斬之。首獲十餘萬人、築京觀於城南。即拜嵩為左車騎將車、領冀州牧、封槐里侯、食槐里・美陽兩縣、合八千戸。」(後漢書卷七十一皇甫嵩朱儁列傳第六十一)より。って黄巾の張寶を破ったというのも入れたから引用が長い(汗)。「左車騎將車」って文字に注目。   <<戻る

9)   「漢遣車騎將軍皇甫嵩・中郎將朱儁將兵討撃之。」(三國志卷四十六呉書一   孫破虜討逆伝)より。他にも黄巾退治時の皇甫嵩を車騎将軍としているのがあったような…   <<戻る

10)   「五月、皇甫嵩・朱儁復與波才等戰於長社、大破之。」(後漢書卷八孝靈帝紀第八)というのがあって、一ヶ月分おいて「皇甫嵩・朱儁大破汝南黄巾於西華。詔嵩討東郡、朱儁討南陽。」(後漢書卷八孝靈帝紀第八)というのがある。さらに皇甫嵩は東郡(エン州)から「冬十月、皇甫嵩與黄巾賊戰於廣宗、獲張角弟梁。」(後漢書卷八孝靈帝紀第八)というように廣宗(冀州)に移っている。あと、曹操の記述だけど、「會帝遣騎都尉曹操將兵適至、嵩・操與朱儁合兵更戰、大破之、斬首數萬級。」(後漢書卷七十一皇甫嵩朱儁列傳第六十一)というふうに長社(潁川郡)での戦の記述、つまり兵を合わせて戦ったということが書かれている。   <<戻る

11)   地理に関しては、後漢書卷十九郡國一〜後漢書志第二十三郡國五を参考にしているけど、それだけだと各県の場所とか距離とかわかりにくいので、譚其驤(主編)「中国歴史地図集」第三冊三国・西晋時期 中国地図出版社出版も参考にしている。物差しで測ってみると直線距離はわかるけど、道の記載がないから移動距離はわからない。   <<戻る

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