メモ:三国志ジャンルと消費2

 「三国志ニュース」を見て下さっている方にはほとんど関係ない内輪な話なんだけど、今回の記事で「三国志ニュース」における記事の通し番号が1000を迎えることになる。但し、欠番は結構あるので、記事が1000報あるというわけではない。
 それを記念して、三周年のときに書いたように、「三国志ニュース」の今までの記事を振り返るみたいな企画も考えたけど、特にピンと来るのが思い付かなかったので、極々、清岡の個人的なことを書いてお茶を濁してしまおう。個人的な話に留めないと角が立つってのもあるけど(笑)

・蒼天三国志blog
http://blog.livedoor.jp/arrow12ds/
・thinking 2008
http://blog.livedoor.jp/arrow12ds/archives/51452120.html

 上記ブログ記事に刺激を受けてあれこれ三国志ジャンルのことを考えていた。中でも「二次創作」というキーワードに反応してしまう。

 「二次創作」とは、ある創作物(作品)からキャラクターや設定などの要素を抜き出して来て、それらを自らの創作物において使用する創作のことを指す。時には複数の創作物から要素を抽出する場合もある。
 こう書くと中には何かまとまった作品を想像される方もおられるだろうが、多くの二次創作物は一次創作がある前提(受け手が一次創作を知っている前提)で成り立っており、そのため、すでに一次創作で出ているキャラクターの性格や設定などの要素を説明する必要はなく、結果的にそれ自体が独立していない断片的なものとなりやすい。
 以上はもちろん三国志ジャンルに限ったことではなく一般的な話である。余談だけど、「二次創作」は「創作」とあるもののファンにとっては消費の一形態のように清岡は最近、思うようになっている。

 上記ブログでは、三国志ファンの間で二次創作が盛り上がっている、と書かれているのかもしれないが、ここは敢えて、流通する最近の三国志関連創作において二次創作的なものが盛り上がっている、と受け止めていこう。

 とは言っても流通している作品において前述した二次創作にありがちな「それ自体が独立していない断片的なもの」はほとんどないように清岡は思える。それは単独で流通し消費される前提のものだから他の創作物に依存する訳がないという先入観が清岡にはあって、正しく認識できてない可能性がある。人によって捉え方は違うだろうし、現に仮装士 義さんの見方だと最近の作品は「三国志を知っている前提」のものが多いとのことだ。

 ここで話は前提条件に立ち戻る。「三国志関連創作(作品)」と言う以上、『三国志』なり『三国演義』なりをベースにするのだから、二次創作的(あるいは多次創作的)になるのは当たり前だ、と言われそうだけど、ここで清岡が着目しているのはそういうことじゃない。と言うのも、最近の三国志関連創作は『三国志』または『三国演義』以外のところからもキャラクターや設定などの要素を取り出していないか、ということであり、そういう意味で二次創作的な作品が盛り上がっているんじゃないか(流通し消費されているんじゃないか)、ということだ。
 『三国志』または『三国演義』以外のところ、というのは何も一つにまとまった特定の作品からとは限らない。それらは他作品に見られるようなナルシストなキャラクター性であったり、異質なデザインであったり、実在するタレントであったり、女性化だったり様々だ。もちろん例えば『BB戦士 三国伝』みたいに、あからさまにまとまった特定の作品(あるいはシリーズ)から抽出するケースもある。

 こういった二次創作的な作品が次々と出る最近の三国志ジャンルに清岡は違和感を覚えているんだけど、どうもそれをうまく言語化できずにいた。
 とりあえず無理からにでも言語化しようとし「データベース消費」という言葉を借用し、以前、ある記事を書いた。無理からに一気に書いたせいか、どうも書いていくうちに「データベース消費」という言葉の意味がズレてきていた。今、読み返すとそのズレっぷりを恥ずかしく感じ、記事を削除するか訂正するかすれば良いんだけど、前者は惜しく思え、後者は時間的余裕がないということで、そのまま放置しておこう。
 とは言え、そのまま三国志ニュース内で「データベース消費」を誤用したままにしておくのも閲覧者に申し訳ないので、下記に定義の書かれた部分を引用しておく。

東浩紀/著『文学環境論集 東浩紀コレクションL』(講談社)P.570より
--引用開始---------------------------------------------------------
「データベース消費」とは、個々の作品やデザインがさまざまな要素に分解されたうえで、作品という単位への顧慮なしに直接に消費され(たとえば原作は読まれないのにキャラクター商品だけは売れ)、ときに消費者の側で再構成されてしまうような消費様式を意味する。
--引用終了---------------------------------------------------------


 話を本筋に戻し、清岡の違和感を感じる根元の一つに、制作側はなぜ『三国志』または『三国演義』以外のところから抽出した要素を創作に使うのだろうか、というものがある。すぐに「それはその要素に商業的に成功した実績があるから」と答えが出るんだけど、どうも清岡は割り切れない。
 また、そういったところからいろんな要素を取り込むことによって、三国志ジャンルやそのファン層の裾野が広がるだろうが、果たして三国志ジャンルにとって他の影響はないんだろうか。こういったことを清岡自身は下記のように2002年あたりから気にかけいろんなところで話していた。

※関連記事
 2006年3月11日 プチオフ会 新宿編
 三国志ファン、コア層こわそう
 自戒! ブロマイド小説 (※個人サイト内ページ。2002年6月27日)

※追記 プレ:三国志ニュースの記事が出来るまで

 それらの記事を読み直し改めて思うのは、結局、『三国志』『三国演義』以外の要素と抱き合わせのように消費されると、ビギナーは『三国志』『三国演義』の表層だけに目が行き、深いところを知らずにいるままになるんじゃないかということ。いくら抱き合わせで盛り上がったとしても三国志ジャンルの表層で消費サイクルを早めるだけで、ビギナーは容易に三国志ジャンルから離れるのではないかという予想が付く。


※実名を出した手前、一応フォローとして参照まで下記に記事を挙げておく。

※参照記事 三国伝年表公開(2007年11月9日)


 そういった風潮において再び制作側に目を向けてみると、『三国志』『三国演義』を深く掘り起こそうとする動きよりは、むしろデータベース消費されやすいような製品を進んで出している動きが目立つ。もはやデータベース消費に抵抗できうるような作品性の高い(まとまりのある)ものは目立たなくなっている。ここらへんが1980年代や1990年代の三国志ブームと違い、「今のブームは「幹」になるような作品がない」とされている所以なのかもしれない。

※参照記事 「ビジネスにおけるキャラクター活用」にて

 清岡はこういった近況について、もはや良い悪いを論じるほど熱くなれずにいて、せいぜい消費サイクルの速さに振り回されないように、身の守りを固くし(というより財布の紐を固くし)醒めた目で静観しつつ、独自にやりたいことをやるぐらいだ。そもそも何かを消費するほど、三国志ジャンル内の製品には、清岡にとって魅力的なものはほとんどないんだけどね。

 三国志ジャンルがどう転ぼうとも、動物的に消費し続けるファン層以外にも、状況を把握しそれを論じるような、ジャンルを支えるファン層があれば安泰なんだけど、果たしてそんなファン層が支えられるほど居るのか、という疑問も湧く。

 ようやく冒頭で書いたように極々、個人的なことに話が戻ってきたんだけど、要はそういった二次創作的な三国志関連創作自体にどうも興味を持てなくなってきているぞ、ということだ。それらが社会や三国志ジャンルにどう影響を与えているかについては未だ興味はあるんだけどね。それは単に表明であって特に非難しているわけではない。

 そういった二次創作的なものを省いた場合でも三国志関連創作についても興味が持てなくなってきている。創作物に制作者の創作部分以外に『三国演義』等の後世の創作が混じるとそれを認めた時点で清岡は拒否反応を起こしてしまう。
 別に懐かしの「正史派」&「演義派」(SNSのコミュニティの噂を聞くとリバイバルしているのかな?)のどちらかを気取っているわけではなく、その創作が『三国志』ベースであろうとも『三国演義』ベースであろうとも作品の本質とは無関係であることは理屈で解っている。しかし、いざそういった『三国演義』等の後世の創作が混じったものを目の当たりにすると、強い違和感を抱き興醒めしてしまう。例えば、源平の時代に電話を出したり、フランス革命前に革命後の軍服を出したりと敢えてやっている分には気にならないが、「歴史」あるいは『三国志』を題材とした創作と銘打ちながら、何らかの考えに裏打ちされず『三国演義』等の後世の創作からも取材した創作物については違和感を抱く。どうも清岡には、制作側発信側が歴史から取材するより一つのまとまった物語である『三国演義』(挿絵も含め)から取材する方が簡単だと捉え、易きに流れているだけに思えてならない。
 『三国演義』は版を重ねるごとに数百年間、改良され続けており、制作側発信側にとって確固たるものかもしれないが、それだけを取材することで『三国志』を取材した創作とは言えない。また、監督が『三国演義』の映画化と言っているのに、配給会社の一つが「『三国志』の完全映画化」と喧伝しているケースもあり、注意する必要がある。その上、『三国志』や『三国演義』を題材にした創作物であるのに、そのまま「三国志」と名付ける、いわゆる自称「三国志」・他称「三国志」にも清岡は注意を向けている。すでにその弊害として、『三国志』が物語であると勘違いしている事例が散見されている。

 『三国演義』を含め後世の創作を交えず、三国創作を行おうとすれば、『三国志』やその注以外にも『後漢書』や『晋書』などの史書を当たることもあるだろうし、出土史料と経書類、小学類、制度史類を照らし合わせることもあるだろうし、工具書にも頼ることもあるだろうし、論文を読んで新たな観点を得ることもあるだろう。こういったように後世の創作を取り込まずとも『三国志』を含む歴史関連には、まだまだ消費財として開拓されていない箇所がたくさんあり、充分、魅力的なものも種々あるだろう。こういったことを差し置いて他の時代の方がはるかに魅力的だと三国志ファンを扇動することは自らの無知を表明しているように思える。


 随分、長々と書いたけど、そういった現状の三国志関連創作物を消費することよりも、史書の記述や既存の歴史研究を消費財に換えることに今、清岡の興味は向いているということを書きたかっただけだったりする。三国志ニュースでは後者より前者に関係する記事が多く、恐らくブログの性質上、前者の方が相性が良いためだろう。後者に関係する記事は最近では「メモ:東漢人多為舉主行喪制服」や「三国創作のための拝メモ」などあることはあるが少数派となる。
 これから先、清岡は後者への活動により多くの時間を割いていきたいため、おそらく三国志ニュースでの清岡による更新はペースダウンすることだろうね。
http://cte.main.jp/newsch/article.php/1000