本サイトの雑記から分離整理したできたブログ。
タイトル通りライト層による単なるメモなので面白みはないかと思われます。
書き手がミラニスタなので内容はACミラン中心です。
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メモ:ワールドカップの世界史


※関連記事・三国志(1953年6月30日)

 千田善『理想の教室 ワールドカップの世界史』(みすず書房2006年4月21日発行)を旅行中の行きの列車の中、上記記事にあるように2014年3月8日土曜日に読み終える。名前から教科書的な退屈なものを連想したが、読むとそれとは正反対で、各国の情勢や政治が反映したフットボールの様が明らかにされ、よくまとまっているため、楽しく読んでいた。

ワールドカップの世界史:みすず書房

 というわけで以下、気になったところの引用中心のメモ。

p.17
━引用開始━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
はっきり記録されているのは、春秋戦国時代の斉という国(現在の山東省)の紀元前四〜三世紀の蹴鞠だ。FIFAはこれを世界最古のサッカーとしているが、蹴鞠がローマ帝国に伝わったというプラッター会長の説は根拠があいまいだ。
 漢の時代以降、蹴鞠、鞠杖(日本語で、ぎっちょう)、打鞠などの名前でサッカーかホッケーの先祖(あるいはポロ)が発達し、皇帝がみずから参加することもあった。「毬門」と呼ばれるゴールが一つまたは二つ置かれ、そこに足かスティック(杖)でボールを打ち込む競技だったと推定されている。
━引用終了━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

 これって太平御覧卷七百五十四 工藝部十一の引くところの「《史記·蘇秦傳》曰:臨淄民無不吹竽・鼓瑟・撃筑・斗鶏・走狗・六博・蹴鞠。」ってやつだね。それと同じく引くところに「《西京雜記》曰:成帝好蹴鞠。群臣以蹴鞠勞體、非至尊所宜。」とあり、皇帝が参加する様がある。

p.22
━引用開始━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
 意外にも、世界大会開催の発案者は「新しいもの好き、冒険好き」の国民性で知られるオランダ人だった。
 オランダはイギリスに近いこともあり、サッカーが早くから普及していた。オリンピックでは、サッカーが正式種目になった一九〇八年から三大会連続で銅メダルと、アマチュアとしては強豪だった(ただし三大会連続で準決勝敗退という「勝負弱さ」は現在と共通している)。
━引用終了━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

 こういう歴史をするとオランダの応援にも熱が入るね。

p.23
━引用開始━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
 FIFA設立総会が開かれたのは、その手紙から五ヶ月後の一九〇四年五月二一日のこと。オランダ、フランスに加え、ベルギー、スウェーデン、デンマーク、スイス、スペイン(実際はレアル・マドリード代表)の七カ国で発足にこぎ着けた(イングランドなど英国四協会は加盟せず)。
━引用終了━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

 イタリアはないか。スペインじゃなくマドリーってのがわかりやすいね。

 1906年に第一回大会(「FIFA加盟国のチャンピオンによる選手権」)の開催が決定されたが、

p.24
━引用開始━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
 しかし、国際組織とは名ばかりで、FIFAには実務能力がはほとんどあく、ただ「世界選手権を開催したい」という漠然とした「夢」があるだけだった。招待状を送ったものの、旅費や滞在費を誰かが負担するかも未定だった。結果的に参加申込が一カ国もないという、驚くべき準備不足で失敗に終わった。
━引用終了━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

とあり、100年前にそんな失敗があったんだね。

p.25
━引用開始━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
 (注)ワールドカップの名将は、一九三八年までは「ワールドカップ」または「世界選手権」、五〇年から七〇年までは「ジュール・リメ世界選手権」、七四年から現在の「FIFAワールドカップ」。
━引用終了━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

 「ジュール・リメ」って何?って話だが。

p.26
━引用開始━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
 第1回ワールドカップは一九三〇年、人口わずか一五〇万人(現在でも三二〇万人)の南米大陸最小の国、ウルグアイで開かれた。しかもウルグアイはこの大会で優勝、初代世界チャンピオンの座に輝いている。
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 これを知っていればウルグアイのマッチも違った目で見れる。

p.26
━引用開始━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
 ウルグアイ大会の決勝会場センテナリオは「一〇〇周年」の意味だ。ウルグアイ政府はサッカーの世界大会を、建国一〇〇周年記念の国家行事の中心として開催した。
━引用終了━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

 やはりその国の政治が絡んでいるんだね。

p.70
━引用開始━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
たんに「サッカーの発祥地」というだけでなく、国際組織という点でも、イングランドはFIFA結成より二二年も前に「国際フットボール協会委員会(IFAB)」を結成していた。IFABはいわゆる英国四協会がメンバーで、競技ルールの統一が目的だ。
 ところが、FIFA初代会長となるゲラン(フランス人)は結成総会にあたって、IFABを無視する形で、一通の招待状を送り付けただけだった。
━引用終了━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

 イングランドとフランスは微妙な関係が続いていると。IFABは覚えておきたい用語だ。

p.78 1970年メキシコ大会について。
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 ペレがその考えを変え、出場を決心した理由のひとつは、悪質なプレー防止のための二種類のカード(イエロー=警告、レッド=退場)が導入されたことだ。選手交代が認められるようになったことも、ラフプレーによる「エースつぶし」のメリットを減少させた(それまでは、試合途中で選手が負傷すると、残り時間を実質一〇人以下で戦わねばならなかった)。
━引用終了━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

 イエローカード、レッドカードの発明はその効果が何となく想像できるが、それまで負傷による選手交代が認められていなかったてのは驚きだ。

p.87
━引用開始━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
 クライフとベッケンバウアー

 一九七四年西ドイツ大会で脚光をあびたのは、オランダの「トータルフットボール」だった。「スーパースター」クライフを擁するオランダは、攻撃や守備の「専門分野」の壁を取り払った、時代を一〇年以上先取りするモダンな戦術で世界中を魅了した。
━引用終了━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

 今でも「死語」のネタとして、日本語の「別件」と「ベッケンバウアー」との掛詞がでるが、この時代だったんだね。サッカーのジャンルではむしろその後の戦術面での貢献度の高いクライフの方が名が残っているってのは何だか面白い現象。

pp.88-89
━引用開始━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
 フィジカル一辺倒の伝統と一線を画した「ドイツらしくない」サッカーが批判者の口を封じたのだ。ベッケンバウアーはそれまで「スウィーパー(掃除人)」と呼ばれた守備専門のポジションを「リベロ(自由人)」に進化させるなど、戦術上の革新にも貢献した。彼のスタイルの「非ドイツ的」性質は、「リベロ」という言葉がイタリア語であることにも象徴されている。
 「トータルフットボール」や「リベロ」とともに「スペース」の概念が初めて導入されたことで、サッカーは大きく進化した。西ドイツ大会は近代サッカー史上、九〇年代のプレッシングサッカーを準備する「戦術上の発展期」がはじまった大会として位置付けられる。
━引用終了━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

 「リベロ」はすでに死語だけど、「スペース」は浸透しすぎて昔からある用語みたくなっている。この頃に浸透したんだね。

pp.96-97
━引用開始━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
 この時、仮にアルゼンチン代表がスペイン大会で連覇を果たしていたら、戦争に負けても軍事政権はすぐには倒れなかったかも知れない。だが、スペインでのアルゼンチンの不審の原因こそ、軍事政権の無謀な戦争と関係があった。とりわけ軍部の宣伝を無邪気に信じていた(そして自分も軍政のイメージアップに一役買ってしまった)マラドーナはスペインに到着し、検閲のないマスコミの報道に接して、軍事政権にだまされていたことを初めて悟った。
━引用終了━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

 マラドーナの裏にこういった事情があっただなんて!

p.101
━引用開始━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
 五〇年代半ばから低迷期に入ったスペイン代表に代わって、独裁政権のイメージアップに貢献したのはレアル・マドリードの活躍だった。フランコはレアル・マドリードを寵愛し、スペイン代表よりもレアルの強化に力を入れた。五五年に創設されたばかりの欧州チャンピオンズカップ(現チャンピオンズリーグ)で、レアルはいきなり五連覇を達成する。この時期のレアルがスペイン代表よりも強かったのは間違いない(同じことが、ジダンやフィーゴらを抱えていた時代のレアルにも当てはまるかも知れない)。
━引用終了━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

 そしてレアル・マドリーにもこんな事情があったんだね。

p/115 当時の国際情勢を簡潔によく表した文。そう考えると意外と連動していた。
━引用開始━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
 激動の時代。一九八九年六月、ゴルバチョフの中国訪問をきっかけに民主化運動が起こる。これを弾圧した天安門事件の衝撃はユーラシア大陸の西に伝わった。天安門の弾圧を支持したホーネッカー政権を嫌った東ドイツの国民が「エクソダス(大脱走)」をはじめ、一一月にベルリンの壁が崩壊した。「革命」はすぐチェコスロバキア、そしてルーマニアに波及し、クリスマスには大統領が銃殺された。八九年秋の「東欧革命」の震源地は天安門広場だった。
━引用終了━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

pp.123-124
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 「砂漠の嵐」作戦で軍事的に敗北するものの、政治的には辛うじて生き残ったサダム・フセインは米国への復讐に執念を燃やしていた。サッカーはその武器の一つだった。。イラクは過去に八六年大会出場の実績があるが、今回は事情がまったく違う。
 予選を突破すれば家や自動車を含む莫大な勝利ボーナス、負ければ独裁体制下でどんな罰が下されるか分からない――イラク選手たちは文字どおり「命がけ」でアジア最終予選にのぞんだ。
━引用終了━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

p.124
━引用開始━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
 結果的にイラクは予選で敗退し、敵国で開催される大会で自分の健在ぶりを誇示するという「サダムの復讐」は果たせなかった。日本にとって「ドーハの悲劇」として記憶される九三年一〇月二八日の一戦は、「モチベーション」というスポーツ用語で表現するにはあまりにも凄惨な事情を抱えるイラク選手を相手にしたものだった。
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 先の引用部分と合わせ、「ドーハの悲劇」をイラク側から追うと、とても興味深いものとなるね。

p.128 「ゆがんだ商業化」の節、1994年アメリカ大会。
━引用開始━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
 欧州のゴールデンタイムに合わせ、試合開始を午後〇時五分、一時五分などに設定したため(「五分」と半端なのもテレビ向けだ)、決勝戦の気温三八度など猛暑の時間帯に試合がおこなわれた。これでは「省エネ」型の守備的戦術が横行するのもやむを得ない。前回のイタリア大会の反省から、九四年大会では「攻撃的なサッカー」を奨励する目的で、勝利すれば勝ち点三(従来は二)を与え、後方からのタックルに厳罰でのぞむなどの改善策がとられたが、全世界にテレビ中継された試合はおもしろいものばかりではなかった。
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 テレビに合わせるってのは本末転倒という感想を持ってしまうのだけど、勝ち点3ってあたりは歴史的に興味深い。

p.132 1998年のフランス大会の章
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二〇世紀最初と最後を飾ったのがフランスだったことは、サッカー史にとって象徴的だ。フランスは二〇世紀の最強チームではないが、FIFA(国際サッカー連盟)設立の音頭をとったのはフランス人のローベル・ゲランだし、何度か挫折した大会開催を実現したジュール・リメ(第三代会長)も、欧州選手権やチャンピオンズカップ(現チャンピオンズリーグ)などの提唱者もフランス人だ。発祥地は一九世紀の英国だが、二〇世紀のサッカーの発展はフランスなくしてあり得なかった。
━引用終了━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

pp.139-140
━引用開始━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
 そういう事情を差し引いても、現在のフランス代表ほど多彩なチームは珍しい。一九九八年の代表の二二人中、典型的な「フランス人」は七人で、およそ一〇カ国・地域にルーツを持つ他民族・他人種の連合軍だった。ジダンはアルジェリア系、デシャンとリザラズはバスク出身。ビエラ(セネガル)とデサイー(ガーナ)はアフリカ生まれ、テュラム、アンリはカリブ海の仏領グアドループ系、カランブーは太平洋のニューカレドニア、ジュルカエフとボゴシアンがアルメニア系だ。これらの移民系の「新フランス人」が、主将のDFブランやGKバルテズら「原フランス人」とうまくかみ合い、「革命」を起こした。
━引用終了━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

 先の引用部分とあわせ、これでフランスへの応援も力が入る。おそらくミランの選手は居ないだろうけど。

pp.145-146 2002年日韓共催大会
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 二〇〇二年のベストチームは「粘りのアイルランド」だろうか。三位のトルコも魅力的なサッカーをしていたし、開幕戦でフランスを破ったセネガルも新鮮だった。優勝したブラジルの「4・2・3・1」はその後ヨーロッパの強豪がまねする先駆的なシステムだったが、「ブラジルなのだから、もっと華麗だったらよかったのに」と考えるのは欲張りすぎか。
━引用終了━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

 4-2-3-1が普及したきっかけがこんな所にあったとは
 
p.158 中村選手とトルシエ監督のバックグラウンドをみればそうなるのは想定の範囲内だろうね。
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(そもそも「飛び道具」として試合の流れを途中から変えられる中村俊輔を大会メンバーから外したのが間違いだった)
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※追記・22番のユニを求めて(2014年3月8日の雑記)

C O M M E N T


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