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清岡様
質問者の中彎です。
お礼が遅れました。書き込んですぐに、とても詳しいご回答をいただき、
感激しております。ありがとうございました。
「脅」は、脇と同じように、体側部を指すと考えればよいのでしょうね。
右脇に矢をくらうとは、脇が空いていた、
つまり右腕を挙げていたと想像されます。
右手で掲げていたのは、剣でしょうか。
矢が飛んできたとき、運悪く左方を注視していたのかもしれません。
筒袖鎧は装着していなかったものと見えます。
当時呉にはなかったのでしょうか。
周瑜の受傷部位などと言う、些末なことに関心を持った理由は、
もしかしたらこれが彼の死因になったかもしれない、と想像したからです。
『三国志』周瑜伝には、孫策と同じ年と書かれており、
だとすれば生年は、西暦175年でしょう。
同じく周瑜伝には、死亡時36歳、とありますので、
西暦210年に死去したことになります。
『赤壁』の決着が『三国志』武帝紀をみると陰暦で西暦208年12月のようで、
その後江陵攻防に移るのですが、
呉主伝ではこれが1年あまり続いたように書かれています。
はじめは夷陵の攻防があったりして、そのあとのことですから、
周瑜受傷の時期は、江陵戦の終結近くでしょう。
すると、受傷から死去まで、長く見ても1年程度と見積もられるのではないでしょうか。
その間周瑜は「劉備に宮室」の謀略を提案したりはしますが、たぶん陣頭には立たず、
久しぶりに戦場へ出ようとして、ほどなく病死したように見えます。
矢傷自体からは生き延びたが、体の奥に化膿巣が残り、
後にそこから全身に波及して、というようなストーリーを考えてしまいます。
正面から矢を受けるよりも体側部の方が、即死を免れるチャンスが高い気がします。
言いたい放題の長文、失礼致しました。▼清岡美津夫さん:
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