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▼ういろうさん:
>なかなかレスのつき難い話題だったようで、申し訳ありません(汗)
>
>もう少し質問を限定すると劉馥はハイ国相県の出身ということですが、「郡」ではなく「国」出身、劉姓ということでハイ国王家(陳国王、劉寵のような)の一族なのでしょうか?
>どうかお願いします。
こんにちわ。
レスが付かないのはその時の掲示板全体の波みたいのがある一方、おっしゃるとおり取っつき安さが影響しているってのもあるのかもしれませんね。
そのため、単にレスを求めるより、話題を絞るってのは効果的かもしれませんね。
それで本題ですが、『後漢書』光武十王列傳の沛獻王輔伝を見ると、
沛獻王輔、建武十五年封右(馮)翊公。十七年、郭后廢為中山太后、故徙輔為中山王、并食常山郡。二十年、復徙封沛王。
となっており、紀元44年に劉輔が沛王に封じられ、沛国ができたことが記されており、歴代のトピックが記された後、最後に
薨、子契嗣;魏受禪、以為崇徳侯。
と記され、魏の受禅の時(紀元220年)に沛王の劉契は崇徳侯になり王が居なくなったので(…と変な書き方ですが)、沛国から沛郡になりました。ちなみにこの伝には劉馥のことは書かれていません。
さらに『三国志』魏書明帝紀を見ると景初二年、紀元238年に
以沛・杼秋・公丘・彭城豐國・廣戚、并五縣為沛王國。
と沛王国ができています。
そのため本貫が沛郡ではなく沛国になっているのは単に時期的な話かと思います。試しに曹操を初め「沛國」本貫が多く書かれている『三国志』やその注において「沛郡」本貫をさっと検索してみると、
『三国志』魏書陳思王伝の注に引く『魏略』 丁儀字正禮、沛郡人也
『三国志』魏書裴潛伝の注 黄朗字文達、沛郡人也。
『三国志』呉書薛綜伝 薛綜字敬文、沛郡竹邑人也。
『三国志』呉書樓玄伝 樓玄字承先、沛郡[艸/(単斤)]人也。
とあり、きっちり見ていないですが、結構、沛郡時代の人物なのかな、と思います。ここらへん晉辟雍碑の碑陰において「趙郡」と「趙国」が併存しているところと通じるものがあるのかな、と素人考えながら思いました。
また次に例に挙げるように先祖が国王だった場合、本貫がその国ではないという例は結構、ありますね。その一方、王の子孫が侯に封じられていれば、そのさらに子孫はそこが本貫という例があったり、劉虞のように先祖の王の国都と本貫とが一致する例もあり、それを思うと仮に沛国の国都本貫の劉馥が沛獻王輔の子孫であれば、どこにもその旨が書かれていないのは変な気がしますね(もちろん、私が史書から見逃している可能性は大いにあります・笑)。
・『後漢書』劉虞伝、その注に引く『謝承後漢書』
劉虞字伯安、東海[炎β]人也。
※『続漢書』郡国志によると[炎β]は「本國」。
・『三国志』魏書公孫[王賛]伝の注に引く『呉書』より。
虞、東海恭王之後也。
・『後漢書』劉表伝の注に引く『謝承後漢書』
劉表字景升、山陽高平人、魯恭王之後也。
※『続漢書』郡国志によると高平は「侯國」。
・『三国志』魏書劉曄伝
劉曄字子揚、淮南成徳人、漢光武子阜陵王延後也。
・『三国志』魏書劉放伝
劉放字子棄、[シ豕]郡人、漢廣陽順王子西郷侯宏後也。
・『三国志』蜀書劉焉伝
劉焉字君郎、江夏竟陵人也、漢魯恭王之後裔、章帝元和中徙封竟陵、支庶家焉。
・『三国志』蜀書先主伝
先主姓劉、諱備、字玄徳、[シ豕]郡[シ豕]縣人、漢景帝子中山靖王勝之後也。
・『三国志』呉書劉[(月/缶)系]伝
劉[(月/缶)系]字正禮、東莱牟平人也。齊孝王少子封牟平侯、子孫家焉。
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