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▼池田雅典さん:
ご教示ありがとうございます。
>>建安二十五年春正月庚子(二十三日)、魏王(曹操)は洛陽で崩御した。年六十六。
>>遺令にいう。「天下はなお安定していない。古の制度にしたがうことはできない。葬が終わったらみな服喪をとけ。将兵の持ち場についている者はみな持ち場を離れるな。役人は職務に専念せよ。遺体を包むには時服を用いよ。金玉珍寶は墓に入れてはいけない。」
>>諡を武王という。二月丁卯(二十一日)高陵に葬った。
>>つまり、服喪期間は“死んでから埋葬が終わるまで”ということになります。これが『晋書』武帝紀にいう「漢魏の制」による服喪期間だったんですね。
>
>既に自己解決されたところに口を挟むのも気が引けますが
>曹操の例は曹操の嗜好による特例でありまして
>通常、「漢魏の制による服喪期間」と言った場合は
>前漢文帝の遺詔に規定される三十六日喪のことを指します。
漢書ですか。ここまでは考えが回りませんでした。
『漢書』文帝紀第四、抜粋
七年夏六月己亥、帝崩于未央宮。遺詔曰、……。其令天下吏民、令到、出臨三日皆釋服。無禁取婦嫁女祠祀飲酒食肉。自當給喪事服臨者、皆無踐。[糸至]帶無過三寸。無布車及兵器。無發民哭臨宮殿中。殿中當臨者、皆以旦夕各十五舉音、禮畢罷。非旦夕臨時、禁無得擅哭。以下、服大紅十五日、小紅十四日、纖七日、釋服。它不在令中者、皆以此令比類從事。布告天下、使明知朕意。霸陵山川因其故、無有所改。歸夫人以下至少使。……。乙巳、葬霸陵。
顔師古などの注が沢山付いているので、何となく分かるのですが、私では、訳すのは無理ですね。なにしろ、顔師古が注(下記参照)の中で「… 近代學者因循謬説 …」と書いているくらいですから(汗)
翻訳は、小竹武夫訳『漢書1』(ちくま学芸文庫)にあります。ただし、同書には注は訳出してありません。そこで、原注の喪の期間に関する部分を引用しておきます。これも訳文はなしです(冷汗)
應劭曰:「紅者,中祥・大祥以紅為領縁。纖者,[示覃]也。凡三十六日而釋服矣。此以日易月也。」
師古曰:「……。此喪制者,文帝自率己意創而為之,非有取於周禮也,何為以日易月乎!三年之喪,其實二十七月,豈有三十六月之文![示覃]又無七月也。應氏既失之於前,而近代學者因循謬説,未之思也。」
これで、
>通常、「漢魏の制による服喪期間」と言った場合は
>前漢文帝の遺詔に規定される三十六日喪のことを指します。
というのは分かりました。また、これは、顔師古によれば、周礼の規定に基づいたものではなく、漢の文帝が創出したものであるということも分かりました。
前掲の小竹武夫訳では、この服喪期間について、
「すでに棺をおろし葬ったら、大紅を服すること十五日間、小紅は十四日間、繊は七日間服して喪服を解げ。」
と訳しています。この訳に従うと、三十六日というのは、死んでからではなく、葬ってからということになると思うんですが、上記の原文の「以下」は、そういう意味に解釈するんでしょうか。
細かいことですが、これはちょっと疑問に思っています。
曹操の「葬が終わったらみな服喪をとけ」という遺令は、漢の文帝の時代と違って戦乱が続いている時期ですから、三十六日喪をさらに短縮したということになると思います。
晋の場合は、文帝司馬昭が死んだ時期には、蜀は平定されていますが、呉はまだですから、まだ戦乱が収まったとはいえないでしょう。しかし、小康を保っていたことは確かですから、武帝紀にいう「漢魏の制」がどうだったかは、ちょっと微妙です。ただし、三十六日喪の起算を小竹訳に従って葬からとすると、曹操の遺令は、葬の後の三十六日喪はするな、という意味になると思いますが、その場合、武帝紀の文脈から見て、武帝紀の「漢魏の制」は、三十六日喪ということになりそうです。
>後輩にここの論文書いたのがいるので、時間があれば詳細を書くかも知れません。
>さしあたり指摘のみにて。
その論文について、よろしければ教えてください。どこに発表されているんでしょう。折があれば読んでみたいと思いますので。
如墨委面
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