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こんにちわ、清岡です。
▼馬秉さん:
>ふと疑問に思った事なのですが、後漢−三国時代の関所(虎牢関や潼関)は
>敵を防ぐ以外にどのような役割があったのですか?
>日本と同様に関税をとったり、戦時中は敵国の密使を捕らえる等のことをしていたのでしょうか?
私も興味あるところですね。
ぱっと思い付くのが、関を通るために必要な身分証明書である「伝」(旅行者用)や「符」(役人用)の木簡です。それらは冨谷至/著『木簡・竹簡の語る中国古代』[#1089]の89ページに解説されていますね。
それで関税をとっていたかどうかは知らなかったんですが、「關津」で手元の文献を検索すると、三国志の注にばっちり載ってました。
三國志魏書文帝紀の注
魏書載庚戌令曰:「關津所以通商旅、池苑所以禦災荒、設禁重税、非所以便民;其除池[竹/禦]之禁、輕關津之税、皆復什一。」
<清岡による訳>
魏書に載る庚戌(延康元年、西暦220年2月4日)の令にいう「関と津(渡し場)は商旅を通す所以があり、池と苑(庭園)は災荒を防ぐ所以があり、禁を設け税を重くするのは民に便する所以ではない。そのため、池[竹/禦](養魚場?)の禁を除き関津の税を軽くし皆、十に一へ戻せ」
つまり関税10%かかるようですね。庚戌令が出るまではそれ以上とっていたことになりますね(汗)
個人的に関や津には役人や民衆の移動を統制する目的があるのかな、と思ってます。
>それと、関所はどのような形だったのでしょうか?(南北に数キロの城壁もしくは、当時の城のように長方形で中に民家があったのか)
>ご存知でしたら並べてご教授ください。
今、手元の資料をみると、劉[火韋](りゅうい)/編 稲畑耕一郎/監修『図説 中国文明史』第4巻 秦漢 雄偉なる文明(創元社)の182ページに「漢代の玉門関の遺跡」と銘打たれた写真(横から撮ったもの)がありますが、これが、全体像なのか残っている一部分なのか、また大きさがどのくらいなのか、特に説明がないので、解りかねます。写真に写っているのは四角い土の塊(壁?)の右の方に入り口らしき穴がみえます。
あと林巳奈夫/著『中国古代の生活史』[#75]の105ページには画像石に描かれた函谷関東門の絵(2世紀)が載ってます。門の上には楼閣がありますが全体像はわからないですね。
(同じ画像石が孫機/著『漢代物質文化資料図説』(文物出版社)の196ページ以降で説明付きで載ってますが、関の大きさまで載ってないですね)
多分、こういうことは私が知らないだけで研究されてそうですね。誰が容易に手に入る資料か、それが無理であれば論文等を御存知であれば教えて欲しいです(多分、愛宕元先生が研究されてそうな印象がありますが)
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