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>…と思っていたのですが、曹叡は景初元年に暦を景初暦に変えたため、曹芳が戻すまでの3年間は1月分繰り上がっていたはずです。
>ということは、景初3年正月は西暦239年1月ではなく、238年12月のことであり、
明帝紀の注釈のこれのことかな?
臣 松 之 按 : 魏 武 以 建 安 九 年 八 月 定 業β , 文 帝 始 納 甄 后 , 明 帝 應 以 十 年 生 , 計 至 此 年 正 月 , 整 三 十 四 年 耳 . 時 改 正 朔 , 以 故 年 十 二 月 為 今 年 正 月 , 可 彊 名 三 十 五 年 , 不 得 三 十 六 也 .
曹叡は本紀によると36歳(数え年だから現在の35歳)で没したことになっているんですけど、曹叡が死んだ年から逆算して35年時間を巻き戻すと、曹叡は袁煕のつくった子どもになってしまうという正史のモスラですね。
(モスラは変身したという意味ですが、この種の変身っぷりってのは漢籍の醍醐味というか、息抜きというか、何真面目に書いてるんだか自分..)
>曹叡の死亡年を西暦表記するときは「238」が正確なのではないのでしょうか?
それと厳密に西暦換算するとしたら、ユリウス暦に直さないといけないですよね。私は手に負えないんですが。
袁煕の子どもって説が証明されるかと期待しましたが(笑)、やっぱり無理みたいですね。
よく分からないですが、ここら辺の計算が狂って曹叡36歳死去説(=袁紹の男系の孫説)が登場したのかな?
何でも5世紀の宋朝じゃ三国志のこの記述に気付いた士大夫たちが騒いだという話ですね。
何か分かったら教えてください。
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