|
初めまして。
ご質問の意図を私はつかめている自信がないので、以下、すごく的はずれなことを書いているかもしれません。すみません。
太平御覽卷一五七または卷四七四に引く張[王番]後漢紀に
荀爽兄弟八人、時人謂之八龍。舊居豪里、縣令苑康曰昔高陽氏有才子八人。署其里曰高陽里。
<清岡の訳>
荀爽に八人の兄弟がいて、当時の人はこれを八龍と名付けた。昔、西豪里に住んでいて、県令の苑康が言うに昔、高陽氏には才高き息子八人がいた、その里を高陽里とさだめた。
とあって、ここでは才子(才高き息子)だったため「八龍」と呼ばれたと読めます。高陽里のくだりは三国志魏書荀[或〃]荀攸賈[言羽]伝の注に引く続漢書にも出てきますね。
また袁宏後漢紀の孝獻皇帝紀によると
初、爽兄弟八人、號曰「八龍」、爽最有儒雅稱、兄子[或〃]名重於世。
<清岡の訳>
昔、荀爽の兄弟八人は「八龍」と名付けられ、荀爽が最も儒雅のほまれがあり、兄の子の[或〃]の名は世にはばかった。
とあって、ここでは荀爽のことしか書かれてませんが、他の人も「有儒雅稱」(儒雅のほまれがあった)とも読めなくはないですね。
また後漢書荀韓鍾陳列伝によると
有子八人:儉、[糸昆]、靖、Z、汪、爽、肅、專、並有名稱、時人謂〔之〕「八龍。」
<清岡の訳>
(荀淑には)八人の息子が居て、儉、[糸昆]、靖、Z、汪、爽、肅、專、みな名稱(名声)があって、当時の人はこれを「八龍」と名付けた。
とあって、こちらは「並有名稱」(みな名声があった)を理由としています。
|
|